学位論文要旨



No 112865
著者(漢字) 青柳,篤
著者(英字)
著者(カナ) アオヤギ,アツシ
標題(和) 脳虚血によるラット海馬歯状回での電気生理学的変化
標題(洋)
報告番号 112865
報告番号 甲12865
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第776号
研究科 薬学系研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 齋藤,洋
 東京大学 教授 長尾,拓
 東京大学 助教授 岩坪,威
 東京大学 助教授 荒川,義弘
 東京大学 助教授 松木,則夫
内容要旨

 近年の治療の進歩に伴い、脳卒中や脳梗塞などの虚血性脳疾患による国民死亡率は低下の傾向を示しているが、その反面、それに伴う記憶や学習などの脳高次機能の障害が深刻な問題となっている。脳疾患において虚血性脳疾患の頻度は圧倒的に高く、精力的に研究が進められているにもかかわらず、未だ残存機能障害に対する決定的な治療法はみつかっていない。

 海馬は、様々な実験的、臨床的事実から記憶・学習に重要な役割を担っている部位であることが一般に認められている。また海馬CA1野の錐体細胞は一過性の虚血に対して非常に脆弱であり、脳虚血を被った患者に強い前向性健忘が生じることが知られていることから、現在の研究の潮流は、CA1野錐体細胞の脱落の阻止に全力が注がれてきた。しかし、病理学的な異常が認められなくても機能変化の起きている脳部位が存在する可能性は十分考えられる。この様な機能変化の本態を知ることは、残存神経の賦活化、正常化による治療法を確立するために不可欠であると思われる。記憶・学習と密接に関わっている嗅内野-海馬系の中で、海馬歯状回は海馬内のいわゆるtri-synaptic回路の最上流に位置し、記憶や学習に深く関わっているとされる。また、海馬歯状回は脳虚血に対し比較的強いといわれている。そこで本研究では海馬歯状回に注目し、そこへの入力系である貫通線維-海馬歯状回シナプスにおける電気生理学的機能に対する一過性前脳虚血の影響を詳細かつ系統的に解析した。

[実験方法]1.虚血直後における誘発電位の記録

 8-9週齢雄性Wistar系ラットを、urethane麻酔下に両側椎骨動脈を電気焼灼し、両側総頚動脈に絹糸を掛けた後、脳定位固定装置に固定し貫通線維刺激による歯状回での誘発電位を測定した。虚血による呼吸停止を防ぐため人工呼吸器を使用し、体温は保温マットを用い測定期間中37±1℃に維持した。誘発電位の安定後、両側総頚動脈をクレンメで一過性に閉塞し虚血負荷を与えた。

2.虚血1日-1カ月後における誘発電位の記録

 ラットをpentobarbital麻酔下に両側椎骨動脈を電気焼灼し、両側総頚動脈に絹糸を掛けた後、傷口を縫合した。24時間絶食後、無麻酔下で両側総頚動脈をクランメで一過性に閉塞し、虚血負荷を与えた。sham群には、クレンメで閉塞する以外の全ての処置を施した。虚血中に正向反射の消失したラットのみを実験に使用した。一定期間後、ラットをurethane麻酔下に脳定位固定装置に固定し、誘発電位を測定した。

3.誘発電位の記録・解析

 歯状回顆粒細胞層で細胞外記録を行い、誘発電位はpopulation spike amplitude(SA),field EPSP slope(ES),field EPSP duration(ED)をパラメーターとした。長期増強(LTP)、及びpairedpulse facilitation(PPF:一定間隔で2回の刺激を行ったときの1回目の応答に対する2回目の応答の増大率)の測定は、SAの最大反応の50%を誘発する刺激強度で行った。波形は全てデジタル変換し、コンピューターでオフライン解析した。

4.組織切片の作製

 測定終了後、ラットを4%paraformaldehyde/0.1M phosphate bufferで灌流固定し脳を摘出した後、凍結切片を作製しNissl染色を施した。

Fig.1 15分虚血3日後における刺激-反応曲線(上段:SA,下段:ES)
[結果・考察]1.虚血中・直後における電気生理学的変化

 両側総頚動脈を閉塞することにより誘発電位は虚血時間依存的に減弱した。軽度の虚血負荷(1.5-5分)により誘発電位は減弱したが、再灌流10-15分後には虚血前のレベルに回復した。しかし虚血30分後に高頻度刺激(100Hz、1s)を行いLTPを誘発させたところ、sham群と比較して有意な増強率の低下が観察された。このことから、通常のシナプス伝達(誘発電位)よりも可塑性(LTP)の方が虚血による影響を受けやすいことがわかった。虚血負荷2時間後、同様の高頻度刺激を行っても増強率の低下が認められなかったことより、軽度虚血負荷による影響は一過性であると考えられた。一方、強度の虚血負荷(10-15分)により、誘発電位は完全に消失し、再灌流5-15分後に誘発電位が再び記録されたが、虚血後2時間を経ても完全な回復には到らなかった(虚血前のレベルの約70%)。また、虚血3時間後においてもLTPの低下が認められ、強度の虚血負荷による影響は持続的であることが推測された。

2.虚血1日-1カ月後における電気生理学的変化

 a)誘発電位に対する影響:15分の虚血負荷により、SA、ES共に低下し(Fig.1)、これは2週間にわたって持続した。1カ月後にはSAはsham群のレベルまで回復したがESは依然として低下したままであった。b)LTPに対する影響:15分の虚血負荷により1、3日後におけるLTPの誘発は顕著に阻害された(Fig.2、○vs●)。それに対し虚血負荷1-2週間後におけるLTPの誘発は虚血群の方がSham群よりも増加の傾向を示した。また、虚血1ヶ月後におけるLTPはsham群と同程度の増強率を示した。虚血2、3日後に著しい学習障害が観察されたという報告は今回の結果と一致しており、1-2週間後に認められるLTPの増強には何かしら代償機構が働いている可能性が考えられる。c)PPFに対する影響:15分虚血負荷1、3日後において、SAのPPFは20-200msの刺激間隔で顕著な減少が認められた。また、ESのPPFにおいても20-400msの刺激間隔で明らかなPPFの減少が認められた。これらのことから、虚血により抑制性神経を介するfeedback inhibitionが亢進した可能性が考えられる。この傾向は若干回復をみせるものの1ヶ月後においても認められた。一方、EDのPPFは虚血後1日-1ヶ月にわたり持続的に増大し、この増大はNMDA receptor antagonistであるAPV(50nmol、i.c.v.)により有意に抑制された。このことは、虚血により誘発電位におけるNMDA成分の寄与が大きくなることを示しており、シナプスの可塑性や、興奮毒性の発生に関与する可能性(後述)が示唆された。d)組織化学的変化:15分の虚血負荷により、2-3日後からCA1野錐体細胞の顕著な脱落が認められたが、歯状回顆粒細胞における光学顕微鏡レベルの形態変化は観察されなかった(Fig.3)。以上の結果から、海馬歯状回において神経細胞死が見られないにもかかわらず電気生理学的機能の著しい変容が認められることが明らかになった。

Fig.2 15分虚血によるLTPへの影響およびCNQXの効果(虚血3日後)
3.虚血による機能変化に対する種々の薬物の効果の検討

 海馬CA1野における虚血性神経細胞死にはglutamate receptorを介した興奮毒性が関与すると言われている。そこで、15分虚血3日後の、海馬歯状回における誘発電位の低下及びLTPの減弱に対する種々の薬物の効果を検討した。AMPA/kainate receptor antagonistであるCNQX(虚血20分前、50nmol、i.c.v.)は、誘発電位の低下には影響を及ぼさなかったが、LTPの減弱を有意に改善させた(Fig.2、▲vs●)。一方、benzodiazepine receptor agonistのdiazepam(虚血20分前及び24時間後、10mg/kg、i.p.)は、LTPの減弱に対し効果を示さなかったが、SA、ESの低下を有意に改善させた。またAPV(虚血25分前、100nmol、i.c.v.)は、誘発電位の低下及びLTPの減弱に対して効果を示さなかった。以上の結果から歯状回における機能変化においても興奮毒性が一部関与していることが明らかになった。また、誘発電位とLTPに対する作用が薬物により異なることから、通常のシナプス伝達とシナプス可塑性に対する虚血障害のメカニズムが異なることが示唆された。

Fig.3 15分虚血3日後における海馬組織切片像

 DG:歯状回

[まとめ]

 本研究により、私は以下のことを明らかにした。(1)神経細胞死の認められない海馬歯状回においても一過性虚血による機能障害が長期に認められる。(2)機能障害には回復に向かうものと向かわないものが存在する。(3)通常のシナプス伝達とシナプスの可塑性に対する虚血の影響は、各々異なるメカニズムを介している。以上得られた知見により、神経細胞脱落以外の評価法で虚血性脳障害を捉える必要があることが明らかとなった。また、歯状回における虚血障害の解析は、虚血による機能障害の原因またその回復機構を追求するためのよいモデルになると思われた。今後さらにこれらのメカニズムを追求することにより虚血性脳障害に対する新しい治療法に繋がることが期待される。

審査要旨

 虚血性脳疾患による国民死亡率が低下の傾向を示している反面、その後遺症として記憶障害、認知障害などの脳高次機能障害が深刻な社会問題となっている。神経細胞は一過性の脳虚血に対し非常に脆弱であることが知られており、現在の脳虚血の研究の潮流は神経細胞の脱落を抑制することに全力が注がれている。しかし正常な脳機能の発現は神経細胞が正常に機能することが基本条件であり、また残存神経細胞において機能障害が潜在している可能性は十分考えられる。未だ神経細胞死を抑制する決定的な手段がみつかっていない現状を考えると、残存している神経細胞を正常化、賦活化することの方がより現実的な治療法であると考えられる。本研究では、そのような観点に立ち残存神経細胞における機能障害の存在を電気生理学的手法を用いて明らかにし、脳虚血による影響を長期間にわたって系統的かつ詳細な解析を行っており、新しい治療の方向性を示した点で注目に値する。以下に本研究の概要を示す。

 海馬は様々な実験的、臨床的事実から記憶、学習に深く関わっていることが一般に認められている。海馬CA1野錐体細胞は、一過性の虚血に対し非常に脆弱であるのに対し、海馬歯状回顆粒細胞は比較的強いとされる。そこで歯状回の入力系である貫通線維-歯状回シナプスにおける電気生理学的機能に対する一過性前脳虚血の影響を麻酔下ラットを用いて検討した。まず虚血急性期におけるシナプス機能に対する一過性脳虚血の影響を検討した。5分以内の軽度脳虚血により、通常のシナプス伝達は一時的に抑制されるが15分以内でもとのレベルに回復した。しかし、虚血負荷30分後に高頻度刺激を与え長期増強(LTP)を誘発させたところ有意な低下が認められた。一方、15分間の強度脳虚血を負荷すると通常のシナプス伝達は持続的に抑制され、虚血3時間後においても回復は見られなかった。また、虚血3時間後においてLTPの顕著な低下が認められた。強度脳虚血により持続的な機能低下が認められたことから、次に1ヶ月にわたってこの機能低下の時間経過を観察した。通常のシナプス伝達は、2週間にわたってspike amplitude(SA)、EPSP slope(ES)とも低下していたが、1ヶ月後にはSAは対照群のレベルに回復した。しかしESは低下したままであった。次に短期の可塑性を調べる目的で、短い間隔で2発の刺激を行い1発目の応答に対する2発目の応答の増強すなわちpaired-pulse facilitation(PPF)の検討を行った。虚血1-3日後においてSAのPPFは顕著に減少していた。このことはrecurrent inhibitionが亢進していることを示唆する。一方、EPSP duration(ED)のPPFが1ヶ月にわたって有意に増加していた。この増加は、AP5により抑制されたことからNMDA受容体成分の関与が示された。LTPに関しては、虚血1-3日後は顕著に低下していた。それに対し、虚血1-2週間後は逆に対照群と比べて高い増強率を示した。虚血1ヶ月後は虚血群と対照群とで差はなかった。誘発電位測定後、全脳を摘出し組織学的検討を行ったところ、海馬CA1野は顕著な脱落が認められたのに対し歯状回は細胞死が認められなかった。このことから、細胞死が認められない部位においても電気生理学的機能の著しい変容が認められることが明らかとなった。さらに、以上の実験から明らかになった海馬歯状回における機能障害のメカニズムを薬理学的に検討した。AP5は虚血による機能障害に対し改善作用を示さなかった。benzodiazepine受容体作動薬のdiazeparnはLTPに対しては作用がなかったが、有意にシナプス伝達の低下を改善させた。一方、non-NMDA受容体拮抗薬のCNQXは通常のシナプス伝達には作用がなかったが、LTPの抑制を有意に改善させた。以上の結果は海馬歯状回における機能障害に興奮毒性が関わっていること、薬物により作用が異なることから通常のシナプス伝達とシナプス可塑性に対する虚血障害のメカニズムが異なることが示唆された。

 以上得られた新規の知見により、神経細胞脱落以外の評価法で虚血性脳障害を捉える必要があることを示され、また歯状回における虚血障害の解析は、虚血による機能障害の原因、回復機構を追求するためのよいモデルになると思われる。今後の虚血性脳障害に対する新しい治療法の土台を築いた点で本研究の寄与するところ大きく、博士(薬学)の学位にふさわしいものと判断した。

UTokyo Repositoryリンク