虚血性脳疾患による国民死亡率が低下の傾向を示している反面、その後遺症として記憶障害、認知障害などの脳高次機能障害が深刻な社会問題となっている。神経細胞は一過性の脳虚血に対し非常に脆弱であることが知られており、現在の脳虚血の研究の潮流は神経細胞の脱落を抑制することに全力が注がれている。しかし正常な脳機能の発現は神経細胞が正常に機能することが基本条件であり、また残存神経細胞において機能障害が潜在している可能性は十分考えられる。未だ神経細胞死を抑制する決定的な手段がみつかっていない現状を考えると、残存している神経細胞を正常化、賦活化することの方がより現実的な治療法であると考えられる。本研究では、そのような観点に立ち残存神経細胞における機能障害の存在を電気生理学的手法を用いて明らかにし、脳虚血による影響を長期間にわたって系統的かつ詳細な解析を行っており、新しい治療の方向性を示した点で注目に値する。以下に本研究の概要を示す。 海馬は様々な実験的、臨床的事実から記憶、学習に深く関わっていることが一般に認められている。海馬CA1野錐体細胞は、一過性の虚血に対し非常に脆弱であるのに対し、海馬歯状回顆粒細胞は比較的強いとされる。そこで歯状回の入力系である貫通線維-歯状回シナプスにおける電気生理学的機能に対する一過性前脳虚血の影響を麻酔下ラットを用いて検討した。まず虚血急性期におけるシナプス機能に対する一過性脳虚血の影響を検討した。5分以内の軽度脳虚血により、通常のシナプス伝達は一時的に抑制されるが15分以内でもとのレベルに回復した。しかし、虚血負荷30分後に高頻度刺激を与え長期増強(LTP)を誘発させたところ有意な低下が認められた。一方、15分間の強度脳虚血を負荷すると通常のシナプス伝達は持続的に抑制され、虚血3時間後においても回復は見られなかった。また、虚血3時間後においてLTPの顕著な低下が認められた。強度脳虚血により持続的な機能低下が認められたことから、次に1ヶ月にわたってこの機能低下の時間経過を観察した。通常のシナプス伝達は、2週間にわたってspike amplitude(SA)、EPSP slope(ES)とも低下していたが、1ヶ月後にはSAは対照群のレベルに回復した。しかしESは低下したままであった。次に短期の可塑性を調べる目的で、短い間隔で2発の刺激を行い1発目の応答に対する2発目の応答の増強すなわちpaired-pulse facilitation(PPF)の検討を行った。虚血1-3日後においてSAのPPFは顕著に減少していた。このことはrecurrent inhibitionが亢進していることを示唆する。一方、EPSP duration(ED)のPPFが1ヶ月にわたって有意に増加していた。この増加は、AP5により抑制されたことからNMDA受容体成分の関与が示された。LTPに関しては、虚血1-3日後は顕著に低下していた。それに対し、虚血1-2週間後は逆に対照群と比べて高い増強率を示した。虚血1ヶ月後は虚血群と対照群とで差はなかった。誘発電位測定後、全脳を摘出し組織学的検討を行ったところ、海馬CA1野は顕著な脱落が認められたのに対し歯状回は細胞死が認められなかった。このことから、細胞死が認められない部位においても電気生理学的機能の著しい変容が認められることが明らかとなった。さらに、以上の実験から明らかになった海馬歯状回における機能障害のメカニズムを薬理学的に検討した。AP5は虚血による機能障害に対し改善作用を示さなかった。benzodiazepine受容体作動薬のdiazeparnはLTPに対しては作用がなかったが、有意にシナプス伝達の低下を改善させた。一方、non-NMDA受容体拮抗薬のCNQXは通常のシナプス伝達には作用がなかったが、LTPの抑制を有意に改善させた。以上の結果は海馬歯状回における機能障害に興奮毒性が関わっていること、薬物により作用が異なることから通常のシナプス伝達とシナプス可塑性に対する虚血障害のメカニズムが異なることが示唆された。 以上得られた新規の知見により、神経細胞脱落以外の評価法で虚血性脳障害を捉える必要があることを示され、また歯状回における虚血障害の解析は、虚血による機能障害の原因、回復機構を追求するためのよいモデルになると思われる。今後の虚血性脳障害に対する新しい治療法の土台を築いた点で本研究の寄与するところ大きく、博士(薬学)の学位にふさわしいものと判断した。 |