学位論文要旨



No 112867
著者(漢字) 井上,晋一
著者(英字)
著者(カナ) イノウエ,シンイチ
標題(和) リンパ球表面抗原CD38を介する蛋白質チロシンリン酸化へのシグナル伝達機構
標題(洋)
報告番号 112867
報告番号 甲12867
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第778号
研究科 薬学系研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 堅田,利明
 東京大学 教授 井上,圭三
 東京大学 教授 入村,達郎
 東京大学 助教授 久保,健雄
 東京大学 助教授 櫨木,修
内容要旨

 ヒト前骨髄球性白血病細胞株HL-60細胞はビタミンAの誘導体であるレチノイン酸によって顆粒球様細胞へと分化するが、この分化に先だちNAD+をニコチンアミドとADP-リボースに分解するNAD+グリコヒドロラーゼ(NADアーゼ)の活性が誘導される。1993年に当教室において、このNADアーゼ活性を担う分子がヒト表面抗原の一つであるCD38であることが明らかにされた。

 CD38は、血球系細胞において種々の分化段階や活性化状態によって複雑な発現を示すことから、これまで、リンパ球の分化のマーカー分子として広く用いられてきた。一方で、細胞生物学的なアプローチにより、CD38の生理的なリガンド分子が未同定のため、CD38を認識するモノクローナル抗体(mAb)を用いた系において、T細胞、胸腺細胞、B細胞を活性化し、未成熟なB細胞においてストローマ細胞に依存的な生育を阻害することから、CD38がシグナル伝達分子として機能しうることが示唆されてる。また、当教室においても、レチノイン酸で分化したHL-60細胞において走化性ペプチドfMLP刺激による活性酸素産生を増強することが見出されている。これらは現象が報告されているだけで、分子的な機構はこれまでほとんど明らかではない。CD38を介するシグナル伝達機構を明らかにするために、レチノイン酸分化HL-60細胞と抗CD38mAbを用いて検討を行った。

1.HL-60細胞における抗CD38モノクローナル抗体刺激による細胞内蛋白質のチロシンリン酸化の亢進

 まず、活性酸素産生に関係があると考えられる、初期の細胞応答である細胞内蛋白質のチロシンリン酸化について検討したところ、レチノイン酸分化HL-60細胞を抗CD38mAb HB-7で刺激すると、いくつかの蛋白質のチロシンリン酸化の亢進が観察され、2分で最大となり、その後減弱した。また、このとき細胞内チロシンキナーゼ活性の上昇が、チロシンキナーゼの人工基質を用いたin vitroのキナーゼアッセイにより確認された。種々のチロシンキナーゼに対する抗体を用いた免疫沈降により、HB-7刺激によって非受容体型チロシンキナーゼであるSykがチロシンリン酸化されることが明らかとなった。従って、抗CD38mAb刺激は、Sykなどのチロシンキナーゼを活性化し、蛋白質のチロシンリン酸化を亢進することが示唆された。また、他の抗CD38mAb T16でも同様の効果が観察された。チロシンリン酸化の亢進は、レチノイン酸またはBt2-cAMPを処理してCD38を発現誘導したヒト急性単球性白血病細胞株THP-1細胞においても同様に観察された。

2.抗CD38モノクローナル抗体のエピトープ部位の決定

 細胞応答を引き起こす刺激性の抗CD38mAbにいくつかのものが存在することから、CD38の未知の生理的なリガンド分子の相互作用部位を推定する意味でも、これらの抗CD38抗体のエピトープを決定することが重要であると考えられた。種々のCD38のデリーション変異体を作製し、刺激性の抗体であるIB-4、T16、HB-7でイムノブロットを行い、認識する部位を決定したところ、これら3種の刺激性の抗体のエピトープは同一であることが明らかとなり、C-末端部分のアミノ酸の220番から241番と273番から285番までの両方で認識した。細胞応答を引き起こさない無刺激性の抗体であるOKT10ではエピトープが異なっていた。報告されている全ての刺激性の抗CD38mAbが全て同一の領域を認識することから、CD38を介するシグナル伝達において、CD38のこの領域に結合することが重要であると考えられ、さらに、未知の生理的なリガンド分子は、この部位を介して結合し、シグナルを伝達する可能性が考えられた。

3.CD38を介したチロシンリン酸化の亢進における細胞内領域の役割

 刺激性のCD38mAbが、CD38の同一の部位に結合し、細胞内の蛋白質のチロシンリン酸化を引き起こすことが明らかとなったが、CD38のN-末端の細胞内領域は、21アミノ酸残基と短く、多くの増殖因子受容体に見られるようなチロシンキナーゼ活性を担う領域は存在しない。また、T細胞受容体やB細胞受容体等の抗原受容体の細胞内領域に存在し、Src型のチロシンキナーゼが会合し、細胞内にシグナルを伝達するARAM(antigen receptor-activation motif)の配列も存在せず、サイトカイン受容体の細胞内領域に存在するBox-1、Box-2配列も存在しない。それにも関わらず、抗CD38モノクローナル抗体が蛋白質のチロシンリン酸化を引き起こすことは、CD38を介するユニークな情報伝達機構が存在する可能性が期待された。

 CD38の細胞内領域の役割を解析するために、細胞にCD38のcDNAを導入し、蛋白質のチロシンリン酸化を観察することができる系が必要であると考え、遺伝子の導入効率が高いTHP-1細胞にCD38のcDNAを導入して恒常的にCD38を発現させたTHP-1細胞株を作製した。この細胞株においても、HB-7刺激によりチロシンリン酸化の亢進が観察された。また、CD38の発現量が異なる種々のTHP-1細胞株において、CD38の発現量とチロシンリン酸化量が相関していたので、HB-7刺激によるチロシンリン酸化がCD38を介していることが確かめられた。

 この未分化THP-1細胞におけるCD38の発現系を利用して、チロシンリン酸化に至るシグナル伝達経路について解析した。すなわち、CD38のN-末端側細胞内領域を欠いた変異体、あるいはその領域を他のII型糖蛋白質(PC-1)の細胞内領域に置換したキメラ体を一過的にTHP-1細胞に発現させ、HB-7による細胞内蛋白質のチロシンリン酸化を検討した。いずれの変異体においてもチロシンリン酸化が観察され、細胞内領域はシグナル伝達に関与していないことが示唆された。したがって、CD38にはその細胞外領域を介して相互作用する何らかの分子が存在し、その分子を介して細胞内にチロシンリン酸化のシグナルが伝達されると推定された。

4.CD38のシグナルを細胞外で仲介する分子としてのFc受容体IIの同定

 CD38は糖蛋白質であるので、CD38を介するシグナル伝達における糖鎖の必要性について検討した。HL-60細胞をレチノイン酸処理と同時にN-グリコシド結合糖鎖付加阻害剤であるツニカマイシンで処理した。この処理によりN-結合型糖鎖の付加していないCD38の発現誘導を確認し、このときHB-7によるチロシンリン酸化は無処理の細胞と同様に観察された。従って、CD38を介するシグナル伝達において、糖鎖は関与していないことが示唆された。

図1 抗Fc受容体II抗体によるHB-7-依存性チロシンリン酸化の抑制

 CD38と相互作用する分子の存在が推定されたので、免疫沈降法や、化学的架橋剤を用いた同定を試みたが、同定できなかった。そこで、HB-7刺激によるチロシンリン酸化の基質を同定し、まず、既知の受容体刺激と比較を行った。その結果、チロシンリン酸化される120kDaと87kDaの蛋白質の中には、それぞれ癌遺伝子産物であるCblと、Sykの基質となりアポトーシスヘの関与が考えられているHS-1が含まれることが明らかとなった。

 HB-7刺激によりチロシシリン酸化される蛋白質や、HB-7刺激が活性酸素産生を増強することから、HB-7刺激はHL-60細胞において、IgGのFc部分に対する受容体(FcR)の架橋刺激に類似していると考えられた。ヒトFcRにはFcRI、FcRII、FcRIIIの3種類のサブタイプが存在するので、それぞれの架橋刺激を行なった。その結果、HB-7刺激によるチロシンリン酸化は、FcRII架橋刺激と類似していることが明らかとなった。

 HB-7刺激とFcRIIの架橋刺激が類似していたので、CD38を介するシグナル伝達はFcRIIを介して行われている可能性が考えられた。FcRIIの架橋刺激においては、FcRII自身のチロシンリン酸化がおこるが、HB-7刺激においてもFcRIIのチロシンリン酸化が観察された(図1A)。また抗FcRII mAbを前処理することにより、HB-7刺激によるチロシンリン酸化が阻害された(図1B)。この阻害は抗FcRI、FcRIII抗体では起こらなかった。以上より、CD38を介するシグナル伝達はHB-7の結合したCD38が直接または間接的にFcRIIと相互作用し、FcRIIのシグナル伝達機構を介して細胞内に伝達される可能性が示唆された。

 Bt2-cAMPを処理したTHP-1細胞において、fMLP刺激による活性酸素産生はFcRII架橋刺激によっても、HB-7刺激によっても相乗的に増強された(図2A)。このHB-7の作用は抗FcRIIで前処理することにより阻害され(図2B)、HB-7刺激による生理的応答が細胞内のチロシンリン酸化と相関していることが明らかにされた。

図2 HB-7,FcRII架橋刺激によるfMLP-依存性活性酸素産生の増強とHB-7が示す増強作用の抗Fc受容体II抗体による抑制
5.まとめ

 本研究によって、細胞の生理的応答と細胞内蛋白質のチロシンリン酸化が相関していることを示した。抗CD38mAb刺激によりSyk、Cbl、HS-1、FcRIIなどの細胞内機能蛋白質がチロシンリン酸化されることを明らかにした。種々の刺激性の抗CD38モノクローナル抗体は全てCD38の同一の部分を認識することを示した。従って、未知の生理的リガンド分子は、CD38のこの部分を介してシグナルを伝達する可能性が考えられた。このCD38を介するシグナル伝達にはCD38の細胞内領域及び表層上の糖鎖付加は必要なく、CD38の細胞外領域が直接または間接的にFcRIIと相互作用する可能性が示唆された(図3)。抗CD38抗体刺激は様々な細胞に対して種々の生理作用を惹起するが、少なくともその一部はFcRIIを介して細胞内にそのシグナルを伝達することを明らかにした。

図3 CD38を介する細胞内蛋白質チロシンリン酸化の機構;Fc受容体IIの介在
審査要旨

 CD38は、血球系細胞の種々の分化段階や活性化状態において複雑な発現パターンを示すリンパ球表面抗原であり、その細胞外カルボキシ末端領域にはNADアーゼの酵素活性部位が存在する。CD38を認識するいくつかのモノクローナル抗体(mAb)は、好中球様細胞に分化したHL-60培養細胞において、化学走化性ペプチド(formyl-Met-Leu-Phe;fMLP)による活性酸素産生を増強する作用などが観察されることから、CD38は細胞外シグナルの受容分子として機能することが示唆されている。しかしながら、その分子機構はこれまでほとんど明らかにされていない。「リンパ球表面抗原CD38を介する蛋白質チロシンリン酸化へのシグナル伝達機構」と題する本論文では、CD38を発現する血球細胞系を用いて、mAbによるCD38刺激が細胞内のいくつかの機能蛋白質をチロシンリン酸することを見い出し、CD38を介するシグナル伝達機構について解析している。

CD38による細胞内蛋白質のチロシンリン酸化反応の亢進

 活性酸素産生に関連があると考えられる細胞内の初期応答について解析し、レチノイン酸で分化したHL-60細胞を抗CD38mAb,HB-7,で刺激すると、細胞内蛋白質のチロシンリン酸化が亢進することが見い出された。細胞内チロシンキナーゼ活性の上昇は人工基質を用いても確認され、また、非受容体型チロシンキナーゼの一つであるSykがHB-7刺激によってチロシンリン酸化されることも見い出され、抗CD38mAb刺激はチロシンキナーゼを活性化することが明かにされた。

チロシンリン酸化におけるCD38アミノ末端側細胞内領域の非要求性

 CD38のアミノ末端側細胞内領域には、サイトカイン受容体などの種々のシグナル伝達分子に存在するチロシンキナーゼの活性化に必要な共通配列は見い出されない。シグナル伝達におけるCD38の細胞内領域の役割を解析するために、CD38のアミノ末端側細胞内領域を欠く種々の変異体をTHP-1細胞に発現させて検討を加えた。その結果、いずれの変異体を発現させた細胞においてもHB-7刺激によるチロシンリン酸化は亢進し、そのシグナル伝達に細胞内領域は関与しないことが示唆された。すなわち、CD38にはその細胞外領域を介して相互作用する何らかの分子が存在し、その分子を介して細胞内にチロシンリン酸化のシグナルを伝達すると推定された。

CD38のシグナルを細胞外で仲介する分子としてのFc受容体IIの同定

 チロシンリン酸化へのシグナル伝達にCD38と相互作用する分子の介在が推定されたので、HL-60細胞においてHB-7刺激によるチロシンリン酸化の基質を解析した結果、その基質蛋白質の中にCblとHS-1が含まれることが明かにされた。既知の受容体刺激との比較検討から、HB-7刺激はIgGのFc部分に対する受容体(FcR)の架橋刺激に類似することが見い出された。

 ヒトFcRにはI,II,IIIの3種類のサブタイプが存在するが、HB-7刺激はFcRII架橋刺激と類似した。FcRIIの架橋刺激によってFcRII自身がチロシンリン酸化されるが、HB-7刺激によっても同様のチロシンリン酸化が観察された。また抗FcRII抗体を前処理することにより、HB-7刺激によるチロシンリン酸化の亢進が阻害された。以上の結果から、CD38は直接または間接的にFcRIIと相互作用し、FcRIIの経路を介して細胞内にチロシンリン酸化のシグナルを伝達する可能性が示唆された。

 CD38とfMLP受容体を発現したTHP-1細胞において、fMLP刺激による活性酸素産生は、HB-7刺激と同様にFcRII架橋刺激によっても相乗的に増強された。このHB-7の作用は抗FcRII抗体で前処理することにより阻害され、HB-7刺激による生理的応答が細胞内のチロシンリン酸化と相関していることが明かにされた。

 以上を要するに、本論文はCD38を介する細胞の生理応答と細胞内蛋白質のチロシンリン酸化が密接に関連することを明らかにしている。また、CD38刺激によりSyk,Cbl,HS-1,FcRIIなどの細胞内機能蛋白質がチロシンリン酸化され、このチロシンリン酸化へのシグナル伝達にCD38の細胞内領域は必要なく、CD38が細胞外でFcRIIと相互作用することを見い出している。種々の血球系細胞に対してCD38刺激は様々な生理作用を惹起するが、本論文は、少なくともその一部がFcRIIを介した作用であることを明かにしている。これらの知見は、今後のCD38の生理的役割の解明に大きな手掛かりを提供するものであり、博士(薬学)の学位論文として十分な価値があるものと認められる。

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