学位論文要旨



No 112873
著者(漢字) 佐々木,雄彦
著者(英字)
著者(カナ) ササキ,タケヒコ
標題(和) マウス3T3線維芽細胞におけるリゾホスファチジン酸の生理作用とその情報伝達系
標題(洋)
報告番号 112873
報告番号 甲12873
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第784号
研究科 薬学系研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 堅田,利明
 東京大学 助教授 漆谷,徹郎
 東京大学 助教授 新井,洋由
 東京大学 助教授 鈴木,利治
 東京大学 助教授 櫨木,修
内容要旨 1

 リン脂質は生体膜の物理的構成成分であるのみならず、多くの生理活性脂質の前駆体として重要な機能を有する。リゾホスファチジン酸(LPA)は最も単純な構造をもつグリセロリン脂質である。in vitroでLPAは種々の細胞において様々な応答を引き起こすことが知られているが、生体内でも生理的あるいは病態生理的に重要な応答を引き起こす細胞外情報伝達物質と考えられている。サイトカインやgrowth factorなどの蛋白性の因子と同様にLPAは、将来的には創薬のターゲットとなりうるものと考えられ、そのシグナル伝達機構に関する研究は必要不可欠なものといえる。これまでにもLPAの情報伝達機構に関する研究はなされている。細胞外のLPAは形質膜上の受容体に結合し、三量体型GTP結合蛋白質を介してアデニレートシクラーゼやホスホリパーゼCなどを制御することが知られている。しかし、線維芽細胞においてLPAが有する細胞増殖作用は、上記のエフェクター系の活性化だけでは説明できない。そこで私は、マウスSwiss3T3線維芽細胞を用いて、LPAにより活性化される未知のエフェクター系の検索、細胞内情報伝達系の解析を行った。

2.focal adhesion kinase(FAK)の活性化

 細胞の生理機能の発現へと繋がる細胞内での生化学的変化として近年特に注目を集めている、蛋白質のチロシンリン酸化反応に着目した。LPAで細胞を刺激すると、いくつかの蛋白質のチロシンリン酸化の亢進が見い出されたが、このリン酸化の細胞内基質の同定を試みた。細胞をLPAで刺激後可溶化し、抗FAK抗体で免疫沈降した後、抗ホスホチロシン抗体でイムノブロットを行い解析した結果、LPAの濃度依存的にFAKのチロシンリン酸化が見い出された(図1)。この応答のEC50値は約100ng/mlで、LPA刺激後3分までに最大に達するという早い応答であった。抗FAK免疫沈降画分を酵素源として用い、基質にはRaytideというチロシンキナーゼ特異的なペプチドを用いて、FAKのチロシンキナーゼ活性を測定した。その結果LPA刺激に伴う活性上昇が見い出された。このことからLPAによるチロシンリン酸化の細胞内基質に、FAKの基質が含まれることが予想された。FAKと細胞内局在を共にする分子量約70kDaの蛋白質paxillinは試験管内でFAKによりリン酸化されることが報告されている。そこで、paxillinのチロシンリン酸化に関して検討したところ、そのチロシンリン酸化の亢進が見いだされた。FAKの場合と同様に、EC50値はおよそ100ng/mlで、刺激後数分内に応答は最大に達した。

図1 LPAによるFAKのチロシンリン酸化と活性化

 次にこれらの分子が細胞増殖の情報伝達に関与するかについて検討した。血小板由来増殖因子(PDGF)はLPAによる増殖を大きく増強する作用を有した。一方、細胞をLPAとPDGFで同時に刺激すると、LPAによるFAKとpaxillinのチロシンリン酸化はともに阻害されたことから、これらの分子は増殖の情報伝達には関与しないのではないかと考えられた。

3.extracellular signal-regulated kinase(ERK)の活性化

 多くの増殖因子の情報伝達系への関与が知られているERKと呼ばれるセリン/スレオニンキナーゼに着目した。まず、LPA刺激によりERKが活性化されるか否かを二つの方法で検討した(図2)。抗ERK抗体によるイムノブロットを行った結果、ERKの活性化を反映するバンドのシフトが見い出された。myelin basic protein(MBP)を含むゲルを用いてSDS-PAGEを行った後、ゲル内で蛋白質を変成、再生後、リン酸化反応を行った。その結果、イムノブロットで見られたバンドのシフトに呼応して、40数kDaに刺激依存的に二つの活性バンドが見い出され、LPAによりERKが活性化されることが明らかになった。

図2 LPAによるERKの活性化

 次に抗ERK抗体免疫沈降画分を酵素源に、epidermal growth factor受容体の部分ペプチドを基質に用い、ERKの活性化を定量的に評価した(図3)。この応答のEC50値も約100ng/mlであり、FAKの場合とほぼ一致していた。また、FAKの場合と同様に刺激後数分内に応答は最大に達し、その後減弱するという経時変化を示した。

図3 LPAによるERKの活性化

 次にこのシグナル伝達分子の増殖応答への関与を検討した。ERKはMEKとよばれるキナーゼによりリン酸化され活性化される。PD98059はこのMEKの活性化を特異的に阻害し、細胞内でのERKの活性化を抑制することが報告されている薬物である。PD98059処理により、LPAによるERKの活性化は抑制された(図4)。そしてこのとき、LPAの増殖作用も抑制されたことから、ERKの活性化はLPAによる増殖促進に重要であると考えられた。しかし、ERK活性化と増殖作用の濃度依存性を比較したところ、増殖促進のEC50値は3g/mlで、ERKの活性化を引き起こすより30倍高濃度のLPAが要求され(図9参照)、ERK活性化だけではLPAの増殖作用の発現を説明できないと考えられた。このことから、LPAの増殖シグナル伝達はERKを含む複数の経路によりなされ、高濃度のLPAにより初めて発動する情報伝達系が実際の増殖応答の発現において鍵を握るのではないかと考えられた。

図4 LPAの増殖作用へのERKの関与
4.c-jun mRNAの発現誘導とc-Jun N-terminal kinase(JNK)の活性化

 細胞性癌遺伝子c-junのmRNAは増殖因子をはじめとする、細胞の様々な刺激に伴い発現誘導されることが知られている。c-jun mRNAの誘導をノザンブロットで解析した結果、LPA刺激に伴うc-jun mRNAの誘導が見い出された(図5)。この応答のEC50値は約3g/mlでERKの場合の30倍高濃度であり、増殖応答とほぼ一致していた。

図5 LPAによるc-jun mRNAの発現誘導図6 LPAによるJNKの活性化

 c-jun mRNA発現誘導の機構に関してはc-junプロモーターに結合したc-Jun/ATF-2のダイマーが重要な役割を担うことが報告されている。c-Junの転写活性はリン酸化により正に制御されることから、このリン酸化が誘導のメカニズムと考えられる。そこでc-Junのリン酸化を触媒するキナーゼとして最近同定された、c-Jun N-terminal kinase(JNK)のLPAの情報伝達への関与を検討した。抗JNK抗体免疫沈降物を酵素源に、c-JunのN末端アミノ酸配列を含むglutathione S-transferase融合蛋白質を基質に用いてキナーゼ活性を測定した結果、LPA刺激によるJNKの活性上昇が見い出された(図6)。この応答の経時変化は20分を最大とするもので3分をピークとしたFAK、ERKとは異なるものであった。また0.1g/mlをEC50としたFAK、ERKとは異なり、その値は3g/mlでc-jun mRNAの誘導の場合とほぼ一致した。濃度依存性の観点から、このJNK活性化と細胞性癌遺伝子c-jun mRNAの誘導は、LPAの増殖応答発現の鍵となる初期応答である可能性が考えられた。

 LPAによるJNK活性化は、ERKの場合と濃度依存性、経時変化において上記のように大きく異なった。そこで、これらの活性化に至るシグナル伝達機構を比較し、解析した。LPAによるERK、JNKの活性化に対する百日咳毒素(IAP)の効果を検討した(図7)。ERKの活性化はIAP処理によりほぼ完全に抑制されたが、一方でJNKの活性化はほとんど作用を受けなかった。次にsuraminという薬物を用いた。これは特異性は低いものの、ある種のアゴニストの細胞膜受容体への結合を阻害することが報告されている薬物である。細胞のsuramin処理によりLPAによるERK活性化はほとんど作用を受けなかったが、JNKの活性化はほぼ完全に抑制された(図8)。スフィンゴミエリナーゼ(SMase)は細胞膜受容体を介さずに、細胞膜のスフィンゴミエリンをセラミドに加水分解することでJNK活性化を引き起こす酵素である。このSMaseのJNK活性化作用をsuraminは阻害しなかったことから、LPA作用の抑制はJNK活性化の基本的メカニズムの阻害ではないと考えられ、ERKとJNKの活性化は異なるレセプターを介したLPA作用であることが示唆された。これらの結果から、JNKを含む情報伝達系と、ERKを含む情報伝達系は質的に異なるものと考えられた。

図7 百日咳毒素(IAP)感受性の相違図8 suramin感受性の相違
5.まとめ

 LPAの情報伝達系にFAK、ERK、JNKといったキナーゼの活性化が関与することを見い出した。これらのうち、ERKとJNKの活性化が増殖応答の発現に関与することが示唆された。

 LPAの初期応答はEC50値約0.1g/mlで発現する低濃度作用(FAK、ERKの活性化、paxillinのリン酸化)とEC50値約3g/mlで発現する高濃度作用(JNK活性化、c-jun mRNA誘導)に大別されたが(図9)、低濃度作用はIAPに感受性であったことから、三量体型GTP結合蛋白質(特にGi)を介する系に属すると考えられた。一方、高濃度のLPAによってのみ惹起される細胞初期応答が本研究で新たに示されたが、この作用はIAPに非感受性であることから、低濃度作用とは独立した情報伝達系を構成するものと考えられた。また、suraminを用いた実験結果から、低濃度作用と高濃度作用は異なるレセプターを介したLPA作用である可能性が示唆された(図10)。

図9 各細胞応答に対するLPA濃度依存性の比較図10 LPAにより発動する二つの情報伝達系と生理作用
審査要旨

 リゾホスファチジン酸(LPA)は種々の細胞において、細胞増殖やアクチンストレス線維形成などの細胞応答を引き起こすことが知られており、生体内でも生理的あるいは病態生理的に重要な機能を有する細胞外情報伝達物質と考えられている。形質膜上にはLPAと結合する受容体の存在が想定されており、その受容体刺激の情報の一部は、少なくても三量体型GTP結合蛋白質を介して、アデニル酸シクラーゼやホスホリパーゼCなどのセカンドメッセンジャー産生酵素の活性制御に向けられている。しかしながら、LPAのすべての生理作用をこれらのセカンドメッセンジャー産生酵素の活性制御のみで説明するには無理があり、未知の情報伝達系の介在が予想されていた。「マウス3T3線維芽細胞におけるリゾホスファチジン酸の生理作用とその情報伝達系」と題する本論文では、Swiss 3T3培養細胞をモデルにLPA刺激に伴う初期応答として、focal adhesion kinase(FAK)、extracellular signal-regulated kinase(ERK)、c-Jun N-terminal kinase(JNK)といった蛋白質キナーゼ系が新たに活性化されることを見い出している。さらに、LPAによるこれらキナーゼの活性化機構の差異について検討を加え、LPAの生理作用発現(特に細胞増殖とストレス線維形成)におけるこれらのキナーゼの役割を解析している。

LPAによるFAK,ERK,JNKの活性化とその生理的役割の解析

 LPAによってFAKがチロシンリン酸化され、そのキナーゼ活性が増大することが見い出された。この活性化は比較的低濃度のLPA (EC50値は約0.1g/ml)で認められ、刺激後約3分までに最大に達するという早い経時変化を示した。このLPAによるFAKのチロシンリン酸化は、血小板由来増殖因子(PDGF)により抑制される特性を示し、LPAのもつアクチンストレス線維形成作用もPDGFによって同様に抑制された。一方、LPAの細胞増殖作用はPDGFにより逆に増強された。また、サイトカラシンDという薬物に対する感受性の解析からも、LPAによるFAKの活性化とアクチンストレス線維形成が関連付けられた。すなわち、LPAによるFAKのチロシンリン酸化という初期応答は、細胞増殖ではなく、アクチンストレス線維形成に関与することが示された。

 一方、LPA刺激に伴いERKだけではなくJNKが活性化されることが見い出された。また、JNKにより制御されると考えられる細胞性癌遺伝子c-junのmRNA、も誘導された。これらの初期応答はLPA刺激後20分までに最大に達するという経時変化を示した。またJNKの活性化に必要なLPAの有効濃度は比較的高く(EC50値は約3g/ml)、増殖促進作用に必要なLPAの有効濃度とよく一致しており、JNKの活性化がLPAの細胞増殖作用の鍵となる初期応答であることが示された。以上の解析からLPAの主要な生理作用であるアクチンストレス線維形成にFAKが、一方の細胞増殖にはERKとJNKが関与することが明らかにされた。

LPAによるERK,JNKの活性化機構の解析

 以上のように、LPAによるERKとJNKの活性化は共に細胞増殖と関連することが示されたが、両者のLPA濃度依存性や経時変化は大きく異なっていた。百日咳毒素を用いた解析から、LPAによるERKの活性化には三量体型GTP結合蛋白質(Gi)が関与するが、JNKの活性化にはGiが介在しないこと、また、プロテインキナーゼC(PKC)の阻害薬を用いた解析から、LPAによるERKの活性化にはPKCが部分的に関与するが、JNKの活性化には関与しないことが明らかにされた。さらに、非特異的受容体アンタゴニストのスラミンは、LPAによるJNKの活性化をほぼ完全に抑制したが、ERKの活性化には影響を与えなかった。これらの結果から、LPAによってERKとJNKが活性化される機構は、その濃度依存性や経時変化、さらに阻害薬に対する感受性において互いに異なるものであり、両者はおそらく異なるタイプのLPA受容体を介して発現している可能性が示唆された。

 以上を要するに、本論文はLPAによって引き起こされる細胞内情報伝達系と生理応答との関連を詳細に解析し、いくつかの蛋白質キナーゼがLPA刺激によって新たに活性化されること明らかにしている。特に、従来は細胞死(アポトーシス)の誘導に重要であると考えられていたJNKが、細胞の増殖にも関与することを初めて指摘している。これらの成果は、複雑なLPAの情報伝達機構の解明に有益な情報を提供するだけでなく、哺乳動物での細胞増殖や細胞死といった基本的な生命現象の理解に手掛かりを与えており、博士(薬学)の学位論文として十分な価値があるものと認められる。

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