神経栄養因子は神経細胞の分化や生存促進といった長期的な栄養効果をもたらす一方で、私が修士課程で研究・報告した塩基性線維芽細胞成長因子のように神経伝達を数分以内に調節するという急速な作用を持つことが知られている。本研究では神経栄養効果を持ちながらそのように神経調節因子として機能する可能性を持つものとして脳由来神経栄養因子(Brain-derived neurotrophic factor:BDNF)に注目した。BDNFは末梢及び中枢神経系の発達・維持に関与するneurotrophin familyの一つである。脳の発達においてそれぞれの神経栄養因子、及びその受容体は段階特異的、部位特異的な発現を示す。特にBDNF発現は既に胎児期よりみられ、さらに生後その発現量は神経活動により調節を受ける。一方、BDNFの受容体であるTrkBの発現は胎生発達期より上昇し、生後4週間までその上昇が持続、その後プラトーに達する。これらの観察からBDNFは未熟な神経細胞の生存・分化といった神経系の構築に関与するだけでなく、成熟した中枢神経系でも生理的機能を担っていることが考えられる。特に成熟脳の重要な性質である神経可塑性に関与することは、BDNFが神経活動の高まりに従って神経細胞より放出されることからも示唆される。実際、Kangらによって海馬においてBDNFがシナプスの伝達効率を上昇させる作用が、またFigurovらによってBDNFが記憶の基礎過程と考えられている長期増強(LTP)の誘導を促進する作用が報告されてきた。しかしながらこの2つの報告は互いに相反する結果を報告しており、しかもBDNFがもたらすそのような神経伝達調節作用に関しての作用点、メカニズムは依然として曖昧なままである。これらの問題点はシナプス伝達に対するBDNFの作用を細胞外記録のみで評価している限り解決されない。細胞外記録は簡便かつ安定な記録方法であるが、様々な電気生理学的応答が混入するため作用メカニズムの検討には不向きである。本研究では細胞外記録のみならずパッチクランプ法を用い単一神経細胞から記録することによりBDNFの神経シナプス伝達調節作用のメカニズムを詳細に検討し、BDNFがラット海馬において-アミノ酪酸(GABA)作動性神経伝達を抑制する、すなわち脱抑制することにより興奮性シナプス伝達を間接的に調節していることを明らかにした。 1興奮性シナプス後電位に対するBDNFの作用(細胞外記録法による検討)図1 CA1錐体細胞に誘発されたfPSPに対するBDNFの減弱効果(左)及びGABAA受容体遮断薬ビククリン、ベンゾジアゼピン受容体作動薬ジアゼパムによる減弱効果(右)。 2-3週齢のWistar ratより400m厚の海馬切片を作成しSchaffer側枝を刺激することによりCA3-CA1錐体細胞間のシナプス伝達を記録した。放線層(stratum radiatum:SR)で記録した場合、生じた興奮性シナプス後電位(field excitatory postsynaptic potential:fEPSP)はBDNF(50ng/ml,30min)の灌流によって影響を受けなかった。ところが、錐体細胞層(stratum pyramidal:SP)で記録したシナプス後電位(field postsynaptic potential:fPSP)に対してBDNFはfPSPの振幅を持続的に減少した(図1)。SPで記録されるfPSPの特徴を薬理学的に検討するとグルタミン酸受容体遮断薬キヌレン酸、GABAA受容体遮断薬ビククリン、ベンゾジアゼピン受容体作動薬ジアゼパムでそれぞれ減弱作用が認められた。SRはグルタミン酸作動性神経の終末が存在するため、そこで記録されるfEPSPは興奮性入力を直接反映すると考えられる。一方SP記録で得られたfPSPは樹状突起から伝播してきたEPSP、及び樹上突起部及び細胞体近傍でのGABA性入力、活動電位といった多成分の総和を反映している。従って本結果からBDNFはグルタミン酸性興奮性シナプス伝達を調節するのではなく、他の成分、GABA性入力または活動電位の発生といったメカニズムを調節していることが示唆された。 2興奮性シナプス後電流(EPSCs)及び抑制性シナプス後電流(inhibitory postsynaptic currents:IPSCs)に対するBDNFの作用(パッチクランプ法よる検討)図2 CA1錐体細胞に誘発されたEPSCs及びIPSCsにたいするBDNFの効果(上).BDNFのIPSCs抑制効果に対する濃度依存性及び時間経過(下)。 海馬ではグルタミン酸とGABAによって主要なシナプス伝達が行われている。正確なBDNFのシナプス伝達調節の作用点を明らかにするためには、この2つの成分を分離して解析することが望まれる。そこでパッチクランプ法を用いて単一細胞からグルタミン酸受容体性EPSCsとGABAA受容体性IPSCsの測定を行い、BDNFの作用を検討した。2週齢のWistar ratより250m厚の海馬切片を作成し、パッチ電極をブラインド法によりSPに誘導し、-60mVでwhole-cell clampすることによりCA1錐体細胞よりPSCsを記録した。EPSCsを測定するときにはビククリン(20M)存在下でGABA系を遮断した状態でSchaffer側枝を刺激し、またIPSCsを測定するときにはグルタミン酸受容体遮断薬のAPV(50M)、CNQX(20M)共存在下にSPに刺激電極を刺入し近傍に位置するGABA作動性介在神経細胞を刺激することによりCA1錐体細胞に生ずるシナプス電流を測定した。BDNFはEPSCsに対しては影響を与えなかったが、IPSCsを5分以内に有意に抑制した[means±S.E.M.% of baseline:BDNF 20 ng/ml,70.9±6.9(n=6),P<0.05;100 ng/ml,55.6±9.9(n=6),P<0.01]。この作用はBDNFの存在している間持続し、濃度依存的であった。またこの作用がwhole-cell clampによって生じたアーチファクト即ち細胞内因子の電極内への拡散が原因でないことを示すために、グラミシジン穿孔パッチクランプ法を用いた。グラミシジンは膜に1価の陽イオンのみを透過する穴を形成する。従ってグラミシジンを電極内に充填し電極先端を細胞表面に密着させると電極内と細胞内を導通させることができ、しかも生体内因子の細胞内環境を保持したままパッチ記録できる。この方法によってもIPSCsに対するBDNFの抑制効果が確認できた。これらの結果は細胞外記録の結果と対応しており、BDNFがGABA性シナプス伝達を調節していることが明らかとなった。 3BDNFのGABA性シナプス伝達抑制のメカニズムの検討 BDNFのGABA性シナプス伝達抑制作用がシナプス前か後かであるかを検討するため、介在神経の自発的な発火により錐体細胞に生じたspontaneous IPSCs(sIPSCs)の大きさと頻度とを解析した。BDNFはsIPSCsの振幅を減少させたが[control,32.7±10.2pA;BDNF,23.9±9.9pA,P<0.01,paired t-test,n=5]、その頻度には影響しなかった[control,2.85±0.62 Hz;BDNF,2.56±0.77Hz]。このことからBDNFは介在神経からのGABA放出を抑制するのではなく、シナプス後細胞のGABAA受容体応答を抑制するためであることが示唆された。この結果は細胞外に直接GABA(10M)を適用したときに生じるGABAA性電流も有意に抑制したこと[control,96.4±4.8%;BDNF,64.4±8.8%,p<0.01(n=4)]から支持される。 図3 シナプス後細胞のTrkタイプ受容体の活性化と細胞内カルシウム動員の関与。(**P<0.01.Dunnett test,n=5-6) 一方細胞内情報伝達系の関与を薬理学的に検討した。海馬切片をTrkタイプ受容体蛋白質リン酸化酵素阻害剤K252a(200nM)で1時間以上前処置をした場合、及びK252a(200nM)を含む電極内液をパッチ電極に充填しシナプス後細胞に負荷した場合、ともにBDNFによるIPSCs抑制作用は消失した。K252aよりも酵素阻害活性の低いK252b(200nM)ではBDNFの作用を抑制できなかった。海馬ではTrkBと同様にホスホリパーゼC-1も細胞体や樹状突起に広範囲に発現している。ホスホリパーゼC-1はTrkBに活性化されIPを産生し、細胞内カルシウムストアからのカルシウムの遊離を引き起こす。従ってBDNFのIPSCs抑制作用に対する細胞内カルシウム動員の関与を検討した。パッチ電極にホスホリパーゼC阻害剤U73122(5M)、Ca2+キレーターBAPTA(10mM)を充填したときもBDNFのIPSCs抑制作用は抑制された[means=S.E.M.% of baseline:ext.K252a,90.2±10.6;int.K252a,88.5±13.0;int.K252b,61.6±6.1;int.U73122,84.3±4.4;BAPTA,97.7±3.7]。以上の結果からBDNFはシナプス後細胞のTrKB受容体の活性化とそれに引き続く細胞内カルシウム動員を引き起こすことにより、シナプス後のGABAA受容体の機能を阻害することが示唆された。 4興奮性シナプス後電位に対するBDNFの作用 GABA性シナプスは興奮性シナプスより細胞体に近い位置に存在し、樹状突起で生じたEPSPが細胞体に伝播するのを妨げる役割をしている(shunting効果)。また細胞体に投射するGABA性入力は活動電位の発生を抑える役割を担う。Cl-の逆転電位は静止膜電位に近いことからGABAA受容体による過分極作用は弱いと考えられ、むしろ膜コンダクタンスを上昇させることによりEPSPや活動電位の減衰をさせること(shuntin効果)がGABAA受容体の主作用であると考えられている。これらの機能に対するBDNFの作用を解析するために、カレントクランプ法により樹状突起で発生したEPSPの伝播を細胞体で記録した。SRに刺激電極を刺入しSchaffer側技を刺激することにより樹状突起にEPSPを発生させた。記録細胞の静止膜電位を-70±1mVに電流固定するとBDNF(100ng/ml,15min)の灌流適用によりPSPの振幅は増大した。また静止膜電位をやや浅め-65±1mVに保持した場合、EPSPの振幅の増大とともに、活動電位を生じるようになった。同様の作用は低濃度(3M)のGABAA遮断薬ビククリンによっても得られた。以上の結果からBDNFはGABAA受容体を遮断することにより樹状突起で生じたEPSPの伝導を高め活動電位の発生を促進する役割が示唆された。 図4 BDNFによるPSP増大(左)と活動電位発生の促進(右)。まとめ 本研究によりBDNFがグルタミン酸シナプス伝達に影響せず、GABAA受容体応答を抑制すること、その抑制作用にはシナプス後細胞TrkB受容体の活性化とそれに引き続く細胞内Ca2+動員が必要であることが初めて明らかになった。このようなBDNFによる脱抑制はNMDA受容体の活性化を促進しLTPの誘導を促進するだけでなく、樹状突起を伝播するEPSPの減衰を和らげ活動電位の発生を促進する。従ってFigurovらの報告のようにBDNFはLTP誘導促進というにシナプスの伝達効率を上昇させる、すなわち入力を増強するだけでなく、興奮性シナプスからの入力が活動電位として出力されるのを促進する役割も果たしていると考えられる。 |