本論文は、明治二十年代の舞台において独特な思想的体験・実験と詩的冒険に若き命を燃え尽くした、日本近代「最初の詩人批評家」と称される北村透谷を研究対象とする。 本論文は二部五章十四節により構成され、第一部は透谷の思想的形成に重大な影響を与えたに思われる中国思想・文学の受容及び類似性に関する研究であり、第二部は詩人透谷の創作実践に関する考察である。ここでは、各章の主旨を次のようにまとめたい。 本論文の目的の一つは、これまでに研究視野に入れられなかった透谷における『菜根譚』受容問題を取り上げ、その受容の実態を「山庵雑記」の構成に対する分析を通して、その思想形成における原形質の一部を明らかにするところにあった。そこで得た結論はつぎのようである。(一)透谷の『菜根譚』受容は彼の文学生涯の全般に及ぶものであり、形式上から思想的内容まで幅広い摂取であった。透谷の思想形成における儒・仏・道・キリスト教など諸思想の混戦が常時的に行われ、固定された軸的存在がないままに共存する状態であったが、それを根底から支えていたのは、三教融合を特徴とする『菜根譚』であったと言える。(二)透谷の思想形成における重要な要素であるキリスト教思想のあり方は『菜根譚』受容に緊密に絡んである。「山庵雑記」の構成上のアンバランス様相は葛藤が常時的であることを語ってくれる。(三)最小単位としての用字用語及び情緒的情報が載せやすい対句などの多量摂取という事実から、透谷文字の漢文脈の形成は『菜根譚』の受容と大きく関連することがわかった。 第一章の受容関係研究に対して、第二章のねらいは、比較的視点から、「万物の声と詩人」を取り上げ、それと中国六朝文論との思想的親近性及び表現的類似を考察することにより、晩年透谷における多宗教、諸思想融合の位相に接近するところにあった。はじめての試みであったが、両者における思想上及び表現上の類似が驚くほどのものと解ったのである。この考察を通してはっきりと見えたもう一つのことは、「山庵雑記」時期の思想的混戦にすでに育てられていた「普遍性」への関心は、晩年透谷において明白な形となり、静かに燃えていることである。「万物の声と詩人」の中に、抵抗無しに「無為」「不変」と「社会」「国民」意識とを一緒に持ち込む営為に、このときの透谷が普遍性への立脚により、一種の思想的超越ができたに思われる。 第三章は透谷における陽明学受容とエマソン受容の意義について論じたものである。陽明学受容については、「心」重視に対して「行」に注意を払っていた透谷を考察した。エマソン受容については、透谷のエマソン受容は逆方向からの儒教受容でもあり、特にエマソンの思想的融合態度を吸収したところにあるという考え方を提示した。 本論文のもう一つの重要に思われる試みは第四章の透谷の代表作『蓬莱曲』の読みである。多義多層的性格もつ「鬼」は透谷の思想的構成のイメージ化であるという考えの上、重心を透谷の詩想的到達点を示す「他界に対する観念」としての「鬼」に置いた。日本伝統における「鬼」、中国の近代創出の屈折を語る魯迅の「鬼」との比較を通して、透谷のオリジナルな建設性を大きく評価した。 最後の第五章は短篇抒情詩(「蝶」三連作)の体質を論じたものである。当時としては前例のない言語実験、(抽象的名詞概念の多量投入、口語風セリフの挿入など)観念的冒険については高く評価し、物語的性格による象徴交換の限界、欠陥を指摘した。透谷の可能性は「宇宙的創造」の実験に情熱を注いた野間宏氏に、人間的「情況」を見つめる北川透氏に継承されたところに、表現としての詩と思想としての詩の分離と接近、近代と現代との継受における一本の太い線が見える。 透谷は日本近代の象徴的存在であり、彼の可能性は彼が生きた日本近代--多宗教、諸思想の融合を歴史的課され、中心軸が曖昧になりつつある近代の可能性でもあり、その可能性の核的なものを言うと普遍性への覚醒であろう。本論文におけるささやかな発見と試みは透谷及び彼が生きた時代の真実への小さな接近であることを信じたい。 |