学位論文要旨



No 112923
著者(漢字) 千住,孝俊
著者(英字) Senju,Takatoshi
著者(カナ) センジュウ,タカトシ
標題(和) ヒドリド還元における面選択正の理論的考察
標題(洋) Theoretical study on the Origin of π-facial Diastereoselectivity of Hydride Reduction.
報告番号 112923
報告番号 甲12923
学位授与日 1997.04.14
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3300号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 友田,修司
 東京大学 教授 中村,栄一
 東京大学 助教授 岩澤,伸治
 東京大学 助教授 川島,隆幸
 東京大学 助教授 古川,行夫
内容要旨

 金属水素化物を用いたケトンやアルデヒドのヒドリド還元反応は,カルボニル化合物の求核付加反応の中でも有機合成上極めて重要な反応である.今日までに,高収率化のための実験的検討,並びに高立体選択的還元剤の開発が多数なされ,これらの成果が種々の天然物合成をはじめ広範な有機合成に応用されている.

 一方,カルボニルπ面ジアスレオ選択性の発現機構の理論的側面に関しては,過去40年間,数多くの実験事実から種々のモデルが提唱され激しい論争が繰り広げられてきた.その中で代表的理論モデルとみなされているのが,Felkin-AnhモデルとCieplakモデルであるが,それぞれに問題が多いことも知られている.従って,定性的にも,また定量的にも様々な系のπ面選択性を統一的に解釈可能な新しいモデルの考案が実験と理論の両面から望まれている.本研究においては,ヒドリド還元面選択性の新しい理論モデルの構築を目的とし,まず歴史的に最も多くの議論の対象とされてきたシクロヘキサノンについて検討を行うことにした.

 まず,非経験的分子軌道計算(HF/6-31G*レベル)の結果より,シクロヘキサノンの最低空軌道(LUMO,π*co)が以下のような特徴を有することが明らかとなった.(1)equatorial面側には分子軌道の節が存在し,ヒドリドのequatorial側からの接近を妨げる"障壁"が分子表面外(カルボニル炭素から1.85-3.31Å)に存在する.これに対し,axial側にはこのような"障壁"は存在しない.このことは選択性が反応早期(分子表面の外側;エクステリア領域)に決定されることを強く示唆する(図1).(2)カルボニル基のπ*co軌道は2s軌道の混合によりaxial側に大きく歪んでいる.同様の計算をSTO-3Gのような低精度の基底関数を用いて行うと2s軌道の混合がほとんど見られず,また歪みの方向が逆転していることが分かった.したがって,STO-3Gを用いた分子軌道計算の結果に基づいたAnhのモデルはその理論的正当性に問題があると考えられる.

図1 equatorial側での接近障壁の位置(カルボニル炭素からの距離)

 これらの結果から,基底状態における基質分子の分子軌道はaxial側からの還元試剤の接近に有利な形を持っていることが分かる.また,MP2/6-3lG*,B3LYP/6-31G*レベルで水素化リチウムによる還元反応モデルの遷移状態構造を求めたところ,H-…Ccoの距離が以前に報告されていたHF/3-21Gレベルでの結果(2.06Å)よりも電子相関を考慮した場合には大きく伸長し(MP2;2.29Å,B3LYP;2.54Å),遷移状態が非常に早期に現われることが明らかとなった(図2).また,実験的にもシクロヘキサノンのヒドリド還元は大きな発熱反応であり,かつ活性化障壁が非常に小さいため(H7kcal mol-1),反応の遷移状態が早期に現われると解釈できる.従って遷移状態は反応系類似であり,基質と還元剤とのフロンティア軌道相互作用が重要な役割を果たすものと期待される.

図2 水素化リチウムによる還元反応の遷移状態(B3LYP/6-31G*)

 このような考察をもとに,以下のような新しい定量的モデルとして「エクステリアフロンティア軌道広がりモデル」(Exterior Frontier Orbital Extension Model,EFOEモデルと略す)を考案した,このモデルでは,攻撃してくるヒドリドとカルボニル基のLUMO(π*co)の相互作用が最大となる空間点を以下のように評価する.まず,前述のようにヒドリド還元では遷移状態が非常に早いためフロンティア軌道相互作用が選択性に重要な役割を果たすと仮定する.そこで,ヒドリド試薬の接近に際し,カルボニル炭素近傍での分子表面外(エクステリア領域)におけるフロンティア軌道(π*co)の広がりと接近可能空間の大きさが選択性を左右すると仮定する.このような前提の下に,π*co軌道のカルボニル面上下における広がりの定量的評価を以下のように行う.すなわち,カルボニル炭素の原子軌道成分がπ*co軌道(LUMO)に対して最大の寄与をする点の波動関数の自乗値(確率密度)をエクステリア領域で積分する(以下これをEFOE電子密度と呼ぶ).このようなEFOE電子密度の評価により,エクステリア領域においてヒドリドのHOMOとカルボニル炭素のLUMOとの相互作用が最大の点のみを抽出することができる.

 このモデルにより種々のシクロヘキサノン誘導体のLUMOを定量的に解析したところ,既知の実験結果を良好に説明することができた(表1).

表1 シクロヘキサノン誘導体のEFOE電子密度(HF/6-31G*レベル)

 次に,このモデルの適用限界を検討する目的で,種々の置換シクロヘキサノン誘導体,デカロン誘導体や,主にCiepl akモデルで選択性が説明されているビシクロ化合物,アダマンタノン誘導体などを検討したところ,いずれも選択性を良好に説明できることが明らかとなった.

 分子表面外のフロンティア軌道の広がり(EFOE電子密度の大小)によってジアステレオ面選択性が定性的に説明できることが明らかとなったが.EFOE電子密度は実際の反応の速度論的パラメータと以下のような定量的関係を有することも見出した.同一条件(NaBH4,MeOH)での還元反応の速度論的パラメータが決定されている10種のアルキル置換シクロヘキサノン誘導体のEFOE電子密度の自乗値のπ面両側での差と活性化エンタルピーとの間には,図4に示すような良好な比例関係が認められた.これはEFOE電子密度がヒドリドのHOMOと基質のLUMO間の軌道の重なり積分と近似的に相関する量であり,重なり積分は反応の安定化エネルギーに直接関係することから理解できる.

図4.アルキル置換シクロヘキサノン誘導体におけるEFOE電子密度と活性化エンタルピーの相関(HF/6-31G*)レベル

 また,Natural Bond Orbitral法により種々のモデル系の遷移状態におけるantiperiplanarの関係にある結合間の軌道相互作用を検討したところ,その差は小さく,Felkin-Anh,Cieplakのモデルはいずれも妥当ではないことも見出した.

 以上の結果より,環式ケトンにおいては反応選択性の決定因子として基質のLUMOのπ面両側での広がりの差が重要であると結論できる.

審査要旨

 本論文は3章と結論から成る.第1章は序章であり,ヒドリド還元における面選択性に関する従来の理論モデルについての簡単な歴史とその問題点を指摘している.第2章は,これらの理論モデルの問題点を克服するため,本論文の主骨格となる新しい理論モデル(EFOEモデル;EFOE=Exterior Frontier Orbital Extension;分子表面外側のフロンティア軌道の広がり)を提唱した.第3章ではこの新しい理論モデルを種々の環式ケトンの面選択性に適用しその有用性を述べた.種々のシクロヘキサノン系に適用し,ヒドリド還元の活性化エンタルピーとEFOE電子密度との良好な相関関係について議論している.

 結論では,従来の理論モデルでは,遷移状態における超共役や骨格の歪みについて詳細に議論しているが,これらは面選択性の本質とは無縁の因子であること,および面選択性の本質が基質ケトンのフロンティア軌道(最低空軌道;LUMO;Lowest Unoccupied Molecular Orbital)のπ面両側の広がりにあることを結論づけている.

 ほぼ40年の間信じられてきた基本的有機化学反応の面選択性の理論モデルを覆し,面選択性の本質を初めて明らかにした傑作であると同時に,福井のフロンティア軌道理論の奥の深さを物語る結果となった.

第1章:

 金属水素化物を用いたケトンやアルデヒドのヒドリド還元反応は,カルボニル化合物の求核付加反応の中でも有機合成上極めて重要な反応であり,カルボニルπ面ジアスレオ選択性の発現機構の理論的側面に関しては,過去40年間,数多くの実験事実から種々のモデルが提唱され激しい論争が繰り広げられてきた.その中で代表的理論モデルとみなされているのが,Felkin-AnhモデルとCieplakモデルであるが,それぞれに問題が多いことも知られている.従って,定性的にも,また定量的にも様々な系のπ面選択性を統一的に解釈可能な新しいモデルの考案が実験と理論の両面から望まれている.本研究においては,ヒドリド還元面選択性の新しい理論モデルの構築を目的とし,まず歴史的に最も多くの議論の対象とされてきたシクロヘキサノンについて検討を行うことにした.

第2章:

 まず,非経験的分子軌道計算(HF/6-31G*レベル)の結果より,シクロヘキサノンの最低空軌道(LUMO,π*)が以下のような特徴を有することが明らかとなった.(1)equatorial面側には分子軌道の節が存在し,ヒドリドのequatorial側からの接近を妨げる"障壁"が分子表面外(カルボニル炭素から1.85-3.31)に存在する.これに対し,axial側にはこのような"障壁"は存在しない.このことは選択性が反応早期(分子表面の外側;エクステリア領域)に決定されることを強く示唆する.(2)カルボニル基のπ*CO軌道は2s軌道の混合によりaxial側に大きく歪んでいる.

 これらの結果から,基底状態における基質分子の分子軌道はaxial側からの還元試剤の接近に有利な形を持っていることがわかる.また,MP2/6-31G*,B3LYP/6-31G*レベルで水素化リチウムによる還元反応モデルの遷移状態構造を求めたところ,H―…CCOの距離が以前に報告されていたHF/3-21Gレベルでの結果(2.06Å)よりも電子相関を考慮した場合には大きく伸長し(MP2;2.29Å,B3LYP;2.54Å),遷移状態が非常に早期に現われることが明らかとなった.また 実験的にもシクロヘキサノンのヒドリド還元は大きな発熱反応であり,かつ活性化障壁が非常に小さいため(H≠7kcal mol-1),反応の遷移状態が早期に現われると解釈できる.従って遷移状態は反応系類似であり,基質と還元剤とのフロンティア軌道相互作用が重要な役割を果たすものと期待される.

 このような考察をもとに,以下のような新しい定量的モデルとして「エクステリアフロンティア軌道広がりモデル」(Exterior Frontier Orbital Extension Model,EFOEモデルと略す)を考案した.このモデルでは,攻撃してくるヒドリドとカルボニル基のLUMO(π*CO)の相互作用が最大となる空間点を以下のように評価する.まず,前述のようにヒドリド還元では遷移状態が非常に早いためフロンティア軌道相互作用が選択性に重要な役割を果たすと仮定する.そこで,ヒドリド試薬の接近に際し,カルボニル炭素近傍での分子表面外(エクステリア領域)におけるフロンティア軌道(π*CO)の広がりと接近可能空間の大きさが選択性を左右すると仮定する.このような前提の下に,π*CO軌道のカルボニル面上下における広がりの定量的評価を以下のように行う.すなわち,カルボニル炭素の原子軌道成分がπ*CO軌道(LUMO)の波動関数に対して最大の寄与をする点のπ*CO軌道の波動関数の自乗値(確率密度)をエクステリア領域で積分する(以下これをEFOE電子密度と呼ぶ).このようなEFOE電子密度の評価により,エクステリア領域においてヒドリドのHOMOとカルボニル炭素のLUMOとの相互作用が最大の点のみを抽出することができる.

 このモデルにより種々のシクロヘキサノン誘導体のLUMOを定量的に解析したところ,既知の実験結果を良好に説明することができた.

第3章:

 次に,このモデルの適用限界を検討する目的で,種々の置換シクロヘキサノン誘導体,デカロン誘導体や,主にCieplakモデルで選択性が説明されているビシクロ化合物,アダマンタノン誘導体などを検討したところ,いずれも選択性を良好に説明できることが明らかとなった.

 分子表面外のフロンティア軌道の広がり(EFOE電子密度の大小)によってジアステレオ面選択性が定性的に説明できることが明らかとなったが,EFOE電子密度は実際の反応の速度論的パラメータと以下のような定量的関係を有することも見出した.同一条件(NaBH4,MeOH)での還元反応の速度論的パラメータが決定されている10種のアルキル置換シクロヘキサノン誘導体のEFOE電子密度の自乗値のπ面両側での差と活性化エンタルピーとの間には,良好な比例関係が認められた.これはEFOE電子密度がヒドリドのHOMOと基質のLUMO間の軌道の重なり積分と近似的に相関する量であり,重なり積分は反応の安定化エネルギーに直接関係することから理解できる.

 また,Natural Bond Orbitral法により種々のモデル系の遷移状態構造でのantiperiplanarの関係にある結合間の軌道相互作用を検討したところ,その差は小さく,Felkin-Anh,Cieplakのモデルはいずれも妥当ではないことも分かった.以上の結果より,環式ケトンにおいては反応選択性の決定因子として基質のLUMOのπ面両側での広がりの差が重要であると結論した.

 なお,第2章と3章をまとめた論文2報(速報および本論文)は主査との協同論文であるが,論文提出者が主体となって計算および解析を行ったもので,論文提出者の寄与が十分であると判断する.

 よって,博士(理学)の学位を授与できると認める.

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54601