生物の遺伝情報の発現はセントラルドグマに基づくタンパク質の生合成によって実現されている。真核生物においてエネルギー産生をつかさどる細胞内小器官であるミトコンドリアには独自の遺伝情報発現系が存在するが、この系には普遍暗号とは異なるコドンの使用や異常構造を持つtRNAの存在などのユニークな特徴のあることが知られている。これらはこれまで細菌や細胞質の系で明らかにされた遺伝子発現系とは異なった未知のメカニズムを示唆するものであり、このような例外的な系を解析することによって、より普遍的な法則を探り出せる可能性がある。これまで細菌などの翻訳システムは無細胞タンパク質合成系を用いて解析されてきた。しかし、ミトコンドリア内の翻訳に関する諸因子は微量しか存在せず、かつ不安定なためそれらの調製は大変困難とされ、そのような解析はほとんど進んでいなかった。 本論文はこれらの困難を克服してミトコンドリアのユニークな系の分子機構を解明することを目指し、すべての因子がミトコンドリア由来の無細胞タンパク質合成系を構築し、それを用いて変則暗号のひとつであるメチオニンのコドンの認識機構の解析を行ったものである。序論、本論、結論から構成されており、序論では最近の分子生物学の進展の中での本研究の位置づけを述べている。 本論は3章から構成されており、第1章では牛肝臓ミトコンドリアからのタンパク質合成に関わる酵素やリボソーム、アミノアシルtRNAの調製法について述べている。人為的に変異が導入され実験操作が容易になっている大腸菌の場合と異なり、ミトコンドリアの抽出液はタンパク質やRNAを分解する酵素が大量に存在する。そのような酵素活性を除去し、かつタンパク質合成に必要な酵素の活性を濃縮するために、種々のカラムクロマトグラフィーを利用した分離操作が詳細に述べられている。また、ミトコンドリアのtRNAはしばしばアミノ酸を受容するCCA末端を欠くためアミノアシル化活性が低いという難点を、酵母由来のCCA末端修復酵素を利用して克服し、さらにアミノアシルtRNA合成酵素の反応条件も最適化することにより、tRNAのアミノアシル化効率を向上させ、無細胞タンパク質合成反応におけるアミノ酸供給体として十分機能し得るアミノアシル-tRNAを調製することに成功した。第2章においては、第1章で調製した各因子を用いたポリ(U)依存ポリフェニルアラニン合成系の構築及びその至適条件の検討と効率化について述べている。この系は無細胞でのタンパク質合成系の解析に最もポピュラーに用いられる反応系であるが、ミトコンドリアについてはようやく活性が検出できるレベルでしかなかった。申請者はミトコンドリアの系の低い合成効率の原因の一つにミトコンドリアtRNAの構造的不安定性があると考え、ミトコンドリアに多く存在するポリアミンであるスペルミンによる安定化を検討した。そして1-2mMという高濃度下で合成効率が飛躍的に上昇し、これまでよく解析されてきた大腸菌の系に比しても遜色のない活性が得られることを明らかにした。これによってミトコンドリアのタンパク質合成系の素過程の解析が初めて可能になった。また、スペルミンはtRNAのX線結晶構造解析において構造安定化への寄与が指摘されているが、ミトコンドリアの反応系においてその至適濃度が大腸菌の10倍も高いことと、ミトコンドリアtRNAの特異な構造の不安定性との関連について考察している。 第3章では、無細胞系における変則暗号解読機構を取り上げている。脊椎動物ミトコンドリアにおいては遺伝子とその翻訳産物であるタンパク質の解析から、普遍暗号であるAUGと通常はイソロイシンのコドンであるAUAコドンが共にメチオニンに翻訳される考えられてきたが、この論文において初めて唯一つのメチオニンtRNA(tRNAMet)が2つの異なるコドンを認識することが実験的に証明された。またこれはミトコンドリアの変則暗号の翻訳を無細胞系で実証した初めての報告でもある。第2章で構築した無細胞タンパク質合成系を用いて、ミトコトコンドリアtRNAMetによる翻訳実験を行い、修飾塩基を持たない合成tRNAMetや、アンチコドンの修飾が異なる大腸菌や細胞質のtRNAMetを用いた解析結果との比較から、変則暗号AUAの認識にはアンチコドン1字目の修飾塩基5-ホルミルシチジン(f5C)が本質的な役割を果たしていることが示された。さらに、f5Cの化学的性質とアンチコドンループの立体構造との関係から変則暗号AUAの認識機構を考察している。また同じく脊椎動物であるニワトリとラットのミトコンドリアtRNAMetにもアンチコドン1字目にf5Cが発見されたことから、f5Cによる暗号認識のメカニズムは脊椎動物ミトコンドリアに共通に存在する可能性が指摘された。結論では本論文で得られた知見を整理した上で、未解決の問題点を指摘し、その解明の方法と可能性について考察している。 以上要するに本論文は、これまで未踏であったミトコンドリアの無細胞タンパク質合成系を効率よく稼働させる条件を見出し、それを用いてミトコンドリアにおけるAUAという変則暗号の解読機構を解明したものであり、タンパク質生合成系の分子機構解明に大きく貢献した。従って生体系を利用したタンパク質生産の基礎研究として工学に資するところ大である。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。 |