学位論文要旨



No 112927
著者(漢字) 竹本,千重
著者(英字)
著者(カナ) タケモト,チエ
標題(和) ミトコンドリアのタンパク質合成系の研究
標題(洋)
報告番号 112927
報告番号 甲12927
学位授与日 1997.04.17
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3948号
研究科 工学系研究科
専攻 化学生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 渡辺,公網
 東京大学 教授 輕部,征夫
 東京大学 教授 西郷,和彦
 東京大学 助教授 鈴木,栄二
 東京大学 助教授 上田,卓也
内容要旨 研究目的と背景

 生物の本質である自己の複製はセントラルドグマに基づくタンパク質の生合成によって実現されている。生命の存続には正確な複製とともに多様性の獲得も必要であることは生物の進化の歴史に明らかな事実である。

 ミトコンドリアは真核生物においてエネルギー産生をつかさどる細胞内小器官でありながら核のものとは区別されるDNAを持つことが知られている。さらに、リボソームやtRNAの実在が確認され、独自の遺伝情報発現系が存在することが示唆された。このことはミトコンドリアがかつて独立した生命体であり現在の生物に共生したという仮説の有力な証拠となっている。すなわち、その遺伝情報系は、細胞質の系に影響を受けながら変化してきたのである。ミトコンドリアの系のユニークな特徴は、普遍暗号とは異なるコドンの使用や異常構造を持つtRNAの存在、mRNAの先導配列が無いことなどである。これらはこれまで細菌や細胞質の系で明らかにされた遺伝子発現系とは異なった未知のメカニズムを示唆するものである。このような系を解析することによって遺伝情報系そのものの変化の過程を探ることができる可能性がある。

 これまで細菌などの翻訳システムはin vitroタンパク質合成系を用いて解析がなされてきた。しかし、ミトコンドリア内の翻訳に関する諸因子の調製は微量で不安定なために、解析はほとんど進んでおらず、tRNAがアミノアシル化されることと、いくつかのタンパク性因子が大腸菌の系で機能することが示されているだけである。そこで本研究では、すべての因子がミトコンドリア由来のin vitroタンパク質合成系を構築することによって、その系のユニークなメカニズムを解明することを目指した。まず、牛肝臓からミトコンドリアを調製し、タンパク合成に関与するタンパク性因子の部分精製を行った。これらを用いてin vitroポリウリジル酸依存ポリフェニルアラニン合成(poly(U)-poly(Phe)合成)系を構築し、その効率化をはかり、解析のために十分な活性を持つ系の構築に成功した。次にこれを応用して、変則暗号のひとつであるMetのコドンの解読機構を解析した。 なお本研究は、米国North Carolina大学のLinda L.Spremulli博士との共同研究である。

(1)翻訳過程に関わる諸因子の調製

 タンパク質合成に関わる酵素やリボソームは非常に不安定なので、その不活化を抑えるため、屠殺後30分以内に肝臓をしょ糖溶液に浸す処理が必須である。このため食肉処理センターで解体作業をしている現場で肝臓を入手している。持ち帰った肝臓から常法にしたがってできるだけ手早くミトコンドリアを調製した。細胞質因子の混入を防ぐために界面活性剤ジギトニンにより外膜を取り除いてミトプラストを調製した。

1・1タンパク合成に関与するタンパク性因子の調製

 アミノアシルtRNA合成酵素(ARS)および伸長因子(EF-Tu/Ts,EF-G)は、ミトプラストを超音波破砕した後、100,000xgの遠心によって得られる上清(S100)から調製する。EF-Tu/Tsは特に不安定なため、牛の屠殺後3日以内に最初のカラムクロマトグラフィー(図1)によって第一段の精製を行わなくてはならない。それぞれの酵素の活性画分を集め、さらに他のカラムを用いて部分精製した。リボソームと伸長因子の活性は、大腸菌のpoly(U)-poly(Phe)合成系の構成成分と置き換えたとき、37℃20分間に1pmolのPheをペプチドに取り込む活性を1unitと定義した。ARSはミトコンドリアtRNAmixを基質として37℃10分間に1pmolのアミノアシルtRNAを生成する活性を1unitとした。

1・2リボソームの調製

 ミトプラストをTritonX-100で可溶化し30,000xgの遠心によって得られる上清をしょ糖を含む高塩濃度(300mM KCl)の溶液に重層する。これを100,000xg、20時間遠心した後の沈殿がリボソームである。さらに、TritonX-100を完全に除去するために再び少量の緩衝液に懸濁し、200mM KClとしょ糖を含む溶液に重層して、同様の遠心操作を行い、得られる沈殿をミトコンドリアのリボソーム画分として、以後の実験に用いた。

(図1)DEAEカラムクロマトグラフィーによるタンパク性因子の分画肝臓2kgから調製したミトプラストから得られるS-100を150mlのDEAEカラムにチャージし、5mMから400mMのKClの直線濃度勾配により分画した。
1・3tRNA粗画分の調製とアミノ酸特異tRNAの精製

 mRNAの調製に用いられるAcid-Guanidine-Phenol-Chloroform(AGPC)法によってミトプラストからtRNA粗画分を調製した.肝臓1kgあたりのtRNAの収量は約10mgである。ここから、目的のtRNAを、そのtRNA遺伝子の3’末端から30塩基に相補的なDNAプローブにハイブリダイゼーションさせる固相化プローブ法により精製した。精製されたアミノ酸特異tRNAは約0.1-0.05mgである。

(2)poly(U)-poly(Phe)合成系の構築及び至適条件の検討と効率化2・1[14C]-フェニルアラニルtRNAの調製(Phe-tRNAPhe)

 ミトコンドリアのtRNAは3’末端が欠けていることが多いので、酵母から調製したCCA付加酵素により精製したtRNAPheのCCA末端を修復処理した後に、部分精製したPheRSによってアミノアシル化した。この反応液に酸性条件下で除タンパク処理とイソプロピルアルコール沈殿を行い、Phe-tRNAPheを調製した。得られたアミノアシルtRNAの収率は15-20%である。

2・2poly(U)-poly(Phe)合成系の構築及び至適条件の検討

 (1)で調製したRbs、EF-Tu/Ts、EF-Gを用いてpoly(U)-poly(phe)合成系を構築した。反応は37℃で行い、5%TCAの添加により停止させる。これを95℃に10分間おいて、未反応のPhe-tRNAPheをデアシル化させる。反応産物はこのTCA液をニトロセルロースフィルターに通し、1%TCAで洗浄した後、フィルターに吸着したペプチドのアイソトープ量を液体シンチレーションカウンターにより測定した。pH、塩濃度等の条件検討を行い、至適化した。。また、ポリアミンのひとつであるスペルミン存在下で著しく合成効率が上昇することを見い出した。(図2)に、至適条件におけるpoly(Phe)合成活性のスペルミン濃度依存性を示した。1-2mMスペルミン存在下では、これまで広く用いられてきた大腸菌の系と遜色のない活性が得られた。

(図2)poly(Phe)合成活性のスペルミン濃度依存性標準的な反応液組成を以下に示す。 50mM Tris/HCl(pH8.5) 1mM DTT 7mM MgCl 30mM KCl 0.2mM GTP 2.5mM phopsphoenolpiruvate 1unit/ml piruvate kinase 100pmol/ml[14C]Phe-tRNA 500unit/ml mtEF-Tu/Ts 3200unit/ml mtEF-G 200poly unit/ml mt ribosomes
(3)メチオニン(Met)のコドンの解読機構の解析

 動物ミトコンドリアDNAにはtRNAMet遺伝子がひとつしかないが、DNAの全塩基配列とミトコンドリアの膜酵素のアミノ酸配列の比較からAUGだけでなくAUAもMetのコドンであることが示唆されている。また細胞質のtRNAは移入されていないことが報告されている。従ってミトコンドリアでは唯一つのtRNAが2つのコドンを認識できなければならない。Moriyaらは、牛ミトコンドリアtRNAMetを単離精製し、アンチコドン1文字目に新規修飾塩基5-formylcytidine(f5C)を発見した。本研究では、実際にこの修飾塩基をもつtRNAMetがふたつのコドンを認識しているかどうかを検証した。さらに、修飾塩基の役割を明確にするために合成RNAでf5Cを持たないtRNAMetを作製し、これを用いることによって、その認識機構の解析を試みた。

3・1EF-Tu/Ts存在下でのコドンに依存したリボソーム結合能の測定

 [35S]-Met-tRNAMetの調製はPhe-tRNAPheと同様に行った。リボソーム上でコドンを認識して複合体を形成しているMet-tRNAMetをニトロセルロースフィルターに吸着させ、アッセイを行った。アンチコドンf5CAUをもつtRNAMetのみがAUGだけでなくAUAも認識できることが示された。また、もうひとつの修飾塩基であるpseudouridine()は、その有無に関わらずAUGしか認識できないことからAUAの認識には関わっていないことが分かった。修飾塩基f5Cが変則暗号の認識に重要な役割を果たしていることが示されたが、AUAコドンを用いた場合のバインディング効率がAUGコドンのそれの3分の1程度であった。これは、コドン-アンチコドンの対合による複合体として安定性の違いによるものである可能性が考えられたので、翻訳効率によるアッセイを行った。

(図3)poly(AUN)を鋳型としたpoly(Met)合成活性(A)天然のtRNAMetを用いた系 (B)を含む合成tRNAMetを用いた系1点当たり16lの反応系に、1.6pmolのMet-tRNAを用いている。mRNAを加えないときの値をバックグラウンドとして差し引いてある。
3・2poly(AUN)-poly(Met)合成系によるアッセイ

 反応条件はpoly(U)-poly(Phe)合成とほぼ同じであるが、バックグラウンドを下げるために、反応液と5%TCAに1mM Metを加えた。mRNAとしてはAUN(N=A,C,G)のコドンが11回繰り返されている合成RNAを用いた。(図3)この結果からAUGとAUAのふたつのコドンを認識するために、修飾塩基f5Cが本質的な役割を果たしていることが明らかになった。これは動物ミトコンドリアのin vitro系で、Phe以外のアミノ酸のポリマーが合成された初めての報告である。

審査要旨

 生物の遺伝情報の発現はセントラルドグマに基づくタンパク質の生合成によって実現されている。真核生物においてエネルギー産生をつかさどる細胞内小器官であるミトコンドリアには独自の遺伝情報発現系が存在するが、この系には普遍暗号とは異なるコドンの使用や異常構造を持つtRNAの存在などのユニークな特徴のあることが知られている。これらはこれまで細菌や細胞質の系で明らかにされた遺伝子発現系とは異なった未知のメカニズムを示唆するものであり、このような例外的な系を解析することによって、より普遍的な法則を探り出せる可能性がある。これまで細菌などの翻訳システムは無細胞タンパク質合成系を用いて解析されてきた。しかし、ミトコンドリア内の翻訳に関する諸因子は微量しか存在せず、かつ不安定なためそれらの調製は大変困難とされ、そのような解析はほとんど進んでいなかった。

 本論文はこれらの困難を克服してミトコンドリアのユニークな系の分子機構を解明することを目指し、すべての因子がミトコンドリア由来の無細胞タンパク質合成系を構築し、それを用いて変則暗号のひとつであるメチオニンのコドンの認識機構の解析を行ったものである。序論、本論、結論から構成されており、序論では最近の分子生物学の進展の中での本研究の位置づけを述べている。

 本論は3章から構成されており、第1章では牛肝臓ミトコンドリアからのタンパク質合成に関わる酵素やリボソーム、アミノアシルtRNAの調製法について述べている。人為的に変異が導入され実験操作が容易になっている大腸菌の場合と異なり、ミトコンドリアの抽出液はタンパク質やRNAを分解する酵素が大量に存在する。そのような酵素活性を除去し、かつタンパク質合成に必要な酵素の活性を濃縮するために、種々のカラムクロマトグラフィーを利用した分離操作が詳細に述べられている。また、ミトコンドリアのtRNAはしばしばアミノ酸を受容するCCA末端を欠くためアミノアシル化活性が低いという難点を、酵母由来のCCA末端修復酵素を利用して克服し、さらにアミノアシルtRNA合成酵素の反応条件も最適化することにより、tRNAのアミノアシル化効率を向上させ、無細胞タンパク質合成反応におけるアミノ酸供給体として十分機能し得るアミノアシル-tRNAを調製することに成功した。第2章においては、第1章で調製した各因子を用いたポリ(U)依存ポリフェニルアラニン合成系の構築及びその至適条件の検討と効率化について述べている。この系は無細胞でのタンパク質合成系の解析に最もポピュラーに用いられる反応系であるが、ミトコンドリアについてはようやく活性が検出できるレベルでしかなかった。申請者はミトコンドリアの系の低い合成効率の原因の一つにミトコンドリアtRNAの構造的不安定性があると考え、ミトコンドリアに多く存在するポリアミンであるスペルミンによる安定化を検討した。そして1-2mMという高濃度下で合成効率が飛躍的に上昇し、これまでよく解析されてきた大腸菌の系に比しても遜色のない活性が得られることを明らかにした。これによってミトコンドリアのタンパク質合成系の素過程の解析が初めて可能になった。また、スペルミンはtRNAのX線結晶構造解析において構造安定化への寄与が指摘されているが、ミトコンドリアの反応系においてその至適濃度が大腸菌の10倍も高いことと、ミトコンドリアtRNAの特異な構造の不安定性との関連について考察している。

 第3章では、無細胞系における変則暗号解読機構を取り上げている。脊椎動物ミトコンドリアにおいては遺伝子とその翻訳産物であるタンパク質の解析から、普遍暗号であるAUGと通常はイソロイシンのコドンであるAUAコドンが共にメチオニンに翻訳される考えられてきたが、この論文において初めて唯一つのメチオニンtRNA(tRNAMet)が2つの異なるコドンを認識することが実験的に証明された。またこれはミトコンドリアの変則暗号の翻訳を無細胞系で実証した初めての報告でもある。第2章で構築した無細胞タンパク質合成系を用いて、ミトコトコンドリアtRNAMetによる翻訳実験を行い、修飾塩基を持たない合成tRNAMetや、アンチコドンの修飾が異なる大腸菌や細胞質のtRNAMetを用いた解析結果との比較から、変則暗号AUAの認識にはアンチコドン1字目の修飾塩基5-ホルミルシチジン(f5C)が本質的な役割を果たしていることが示された。さらに、f5Cの化学的性質とアンチコドンループの立体構造との関係から変則暗号AUAの認識機構を考察している。また同じく脊椎動物であるニワトリとラットのミトコンドリアtRNAMetにもアンチコドン1字目にf5Cが発見されたことから、f5Cによる暗号認識のメカニズムは脊椎動物ミトコンドリアに共通に存在する可能性が指摘された。結論では本論文で得られた知見を整理した上で、未解決の問題点を指摘し、その解明の方法と可能性について考察している。

 以上要するに本論文は、これまで未踏であったミトコンドリアの無細胞タンパク質合成系を効率よく稼働させる条件を見出し、それを用いてミトコンドリアにおけるAUAという変則暗号の解読機構を解明したものであり、タンパク質生合成系の分子機構解明に大きく貢献した。従って生体系を利用したタンパク質生産の基礎研究として工学に資するところ大である。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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