本論文は、これまで女性的な範疇として女性学的な見地から論じられることの多かった「恋愛」というテーマを、あえて「男性性」との関連において、主に日本文学を対象として比較文学的に考察することによって、日本文学・日本文化の歴史的変遷を問い、ジェンダー研究にも新たな領域を切り開くことを試みたものである。ただし本論文は、「恋愛」が現実社会の投影であるよりも、むしろ「文芸」という制度の影響下に消長する現象であるという見地から、考察対象をあくまでも文学テクストのみに限定している。 主題をあえて「男の恋」にしぼり、上代から大正時代まで日本の物語・演劇・小説に表明されたそのさまざまな様相を縦覧することで、筆者は今日の恋愛論、ひいては日本文化研究に見られる二つの顕著な傾向に対して一石を投じ、より妥当な視点を導入することをめざしている。その傾向の第一は、西洋で練り上げられたフェミニズム理論の日本文化への無批判な適用である。一九八〇年代に文学研究がフェミニズムの洗礼を受けて以来、女性の立場から文学を読み直す試みがさかんに行なわれている。しかし欧米のフェミニズムは十九世紀の過度に偏狭な道徳観への反動から起こったという側面をもっているために、ロマン主義的な女性の美化や処女崇拝などにひそむ女性蔑視に対抗して、女性自身のセクシュアリティを強調することで女性の解放をめざすという戦略をとることが多い。とはいえ言うまでもなく、日本近世の道徳観は十九世紀欧米のそれとは大きく異なるばかりではなく、西洋的な意味での女性崇拝からも無縁であった。したがって、より日本の現実に即した見地から、こうした戦略を練り直さなければならない。 そして「男の恋」にテーマを限定する理由は、従来の研究が「恋愛」を男女の相思相愛の状態として捉えすぎたこと、その結果として、男の恋と女の恋を区別して考えようとしなかったことである。しかし男女のあいだには、つねにどちらがより多く愛するかといった非対称性がつきまとい、一方の「思い」がゼロという片思いのケースも多い。この点をもっとしぼり込む必要がある。また、徳川期の文芸作品には、恋愛において女性のほうが積極的になる傾向がある。素朴なフェミニズムの視点から見れば、これは近世の女性は性的に解放されていたために、恋愛においても主体性を発揮したことを意味するだろう。しかし、当時の文芸に見られる女性の側の積極性は、かえって男性崇拝の風潮の反映にすぎず、そうした「恋する女」の称揚は、むしろ蔑視を底に秘めた西洋の女性崇拝より以前の段階にあるというべきである。 筆者が乗り越えようとする傾向の第二は、さまざまな批評・研究領域における「日本近代化論」の特権化である。この傾向は、われわれの自明視している諸概念は、すべて近代の国民国家創設とともに作り出されたという予断のもとに、日本の歴史・文化史を近代と前近代の二つに分断し、結果として、古代から明治維新までの日本文化には終始一貫した固有の特質が備っているかのような思い込みを可能にする。しかしじつは、このような図式自体が近代的なものであって、前近代に自然を、近代に作為を見、また前近代のなかに固有の伝統を、近代のなかに西洋文化の圧倒的な影響を見出すといった単純な二分法には、大いに批判の余地がある。 恋愛論の領域でもその傾向はいちじるしい。すでに通念となりつつある見方によれば、「恋愛」は十二世紀の西洋に発生したもので、日本には「色」や「恋」はあったが、「恋愛」は明治期になって輸入されたものだという。 そうした見方を支えているのは、主として明治期の知識人が西洋的な「恋愛」概念に接したときの衝撃と、日本の伝統的な男女関係に対する嫌悪感である。しかし、そうした知識人が日本文化について持ち合せていた知識を観察すると、それはせいぜい近世後期にさかのぼる程度のものであり、また「恋」については、近世の産物である遊廓での女郎との応接にほぼ限られるものであった。かつて内藤湖南が、今日の日本を知るには応仁の乱以降を知ればすむと述べたように、南北朝期に日本文化は大きな変化を経験した。話題を恋愛のみに限っても、近代の言説だけに資料を仰ぐことで見落としがちなのは、すでに前近代日本に生じている差異、断絶であり、近代化以前に近世化という段階があったという事実である。筆者が古代から近代までを通覧したのは、そのような反省の上に立ってのことである。 本論文は序と第一部九章、第二部八章、そして結語から成る。まず第一部第一章で、「愛」(親子愛や隣人愛にも通じ、共同体の維持を妨げないような恋愛感情が男女に共有される)と「恋」(さまざまな障害や片思いのせいで遂げられない苦しい思い)、そして「色」(恋愛遊戯的なもの)が区別される。西洋ではオウィディウスから十七世紀のフランス宮廷に至るまで、「色」の世界が連綿と続く一方、ただ一人の女性への激しい恋を謳い上げる伝統は、ローマ共和制末期の詩人から十二世紀フランスのトゥルバドゥールやダンテ、ペトラルカを経て、近代のロマン主義に至る。重要なのは、女性崇拝の要素がそこに含まれることで、「恋」は必然的に「男の恋」ということになる。 以下、第二章から第九章までは、上代から江戸末期までの日本文学に、共感または称賛の念をこめて描き出された「男の恋」の諸相がたどられる。『伊勢物語』には、すでに「色」と「恋」の混在が見られ、以後の物語・和歌文芸における二つの流れを予告する。そして日本の遊戯的恋愛の源流は、公的生活を儒教で、私的生活を道教で律するという中国の「風流」観に求められよう。奈良から平安の宮廷では、和歌を通しての恋愛遊戯、すなわち「みやび」「色好み」の風儀が行き渡る。しかし、平安中期以降には、『源氏物語』における光源氏の藤壺への恋や柏木の恋など、「色好み」に背反する真剣な恋が焦点化され、読者の共感を誘うようになる。『狭衣物語』や『夜の寝覚』で、男性主人公の女性崇拝的な恋は頂点に達する。そして鎌倉時代物語では、多く男性の悲恋遁世譚の形をとる。 西洋にはもともと古代ギリシャ以来、女性蔑視の伝統が強く、ペトラルカのように一人の恋人に身を捧げた男も、その裏に抜き難い女性蔑視の要素を秘めている。日本では、中世中期から力を増してきた仏教や儒教の影響で、やはり「恋」の世界にも女性蔑視が影を投げかける。女が男の恋に答えようとしないとき、恋は呪詛に変わり、中世の物語や謡曲では、男の恋をこばむ冷たい女が地獄の苦患に逢うというモチーフが見られる。また『徒然草』に見られるような、エゴイスティックでナルシスティックな恋愛観も特徴的である。ここでは上記の宗教的な事情とともに、武士階級の興隆、家父長制度の浸透との関連も見落とせない。西洋中世もまた、キリスト教の影響下で性の罪悪視、女性蔑視などが、マリア崇拝や恋愛詩の盛行と同時に進んでいた。 ついで御伽草子や室町時代物語では、夫婦愛の称揚とも見られる現象が起こる。ただし、これは「愛」の勝利であって、必ずしも平安朝女流文学に見られたような「恋」への共感とはいえない。しかも男の「恋」は伝統的に、相手の女性に歌を贈って求愛するという習慣に結びついていたため、貴族文化の衰退とともに衰えていき、仮名草子を最後に途絶えることになる。 近世に成立した遊廓は、「恋」をそのなかに封じ込め、「色」の世界を制度化することで、社会の秩序維持をはかる。阿部次郎が「享保の分水嶺」と名付けた時期以前の十七世紀には、女郎相手にも何程かは「恋」的なものが残っていたが、柳沢淇園の登場する十八世紀以後は、「色」の美学が「いき」や「粋」と呼ばれる形で定着する。徳川時代後期でも、浄瑠璃や歌舞伎と同様、文芸の世界にも素人女との恋愛沙汰が描かれているが、そこでは恋に身をやつすのはもっぱら女の役割で、男は多くの女に愛されることを誇っている。ここでは「女の恋」が美化され、焦点化されるのである。 第二部では、明治以後の様相が述べられる。日本では西欧世界のように、市民階級のなかから新しい恋愛の理想が生まれたり、恋愛結婚の制度化が行なわれることはなく、明治維新後、西洋思想とともに輸入されたものである。そして明治期知識人のあいだには、西洋の恋愛は精神的で高尚、日本の色恋は肉体的で下劣だという短絡的な見方がひろまる。かれらは遊里文学との対立の上でのみ「恋愛」を考え、平安女流文学までさかのぼって日本の伝統を考察するという姿勢に欠けていた。それとともに、男が求愛し、女が相手を選んで受け入れるという西洋の近代的な恋愛マナーもじゅうぶんには理解されなかった。 坪内逍遥は『小説神髄』で新しい小説が描くべき恋愛を理論化し、『当世書生気質』でそれを実践しようとしたが、人情本の延長にあるこの作品では成功せず、続く『妹と背かゞみ』で女の恋に応じた形での男の恋を糾弾し、日本的恋愛の限界を指摘するにとどまった。北村透谷は、遊里文学の男の恋を強く批判し、恋愛の「狂気」性を鋭く指摘したが、「相愛」という理念に足をとられ、その両者の矛盾を一身に引き受ける形で自己破滅に至る。文芸の世界で「男の恋」をはじめて復活させたのは、二葉亭四迷である。彼は『浮雲』『其面影』で男女の葛藤性を前面に押し出し、近代文学の第一歩を記したが、彼自身は「男らしさ」と「恋」との矛盾に悩み続けた。逆に森鴎外のような男性的人物は、女を捨てる男(『舞姫』)や女の恋(『雁』)のようなテーマしか扱えない。明治四十年、田山花袋は『蒲団』によって、恋という「感傷」を「性慾」に読み替えるという「近代的な」転倒の素地を作った。また尾崎紅葉は、当初の徳川文芸的な姿勢から、『源氏物語』と西洋文学の影響のもとに、『多情多恨』や『金色夜叉』のような「男の恋」の物語に到達するが、明治四十年以前の世界は、依然として「女の恋」が流通しやすい状態にあった。 そして明治四十年以降、男女の葛藤を正面から描いたのは夏目漱石である。瀬石自身は根強い漢文学的教養のゆえに西洋的恋愛を苦手とし、女性蔑視の傾向さえあったが、『虞美人草』以下の作品群には、西洋的恋愛を理解しないままに実践しようとする男たちの内的葛藤がみごとに描かれている。 しかし、こうした「色」や「恋」の変遷交替を経験しながら、日本文化は「男」がいかにして「愛」するかをじゅうぶんに考察してこなかったのではないか、「男の恋」とはつまるところ、女を母と見立てての「甘え」に過ぎなかったのではないかというのが、筆者の結語である。 以上のように本論文は、秀抜な視点、膨大な文献の博捜と鋭い分析によって日本文化の重要な一面に斬新な光を当てたもので、今後の日本文学研究やジェンダー研究に大きな寄与を果たすものと考えられる。ただし、個々の作品の読み取りに周到さを欠く場合や、時代情況を踏まえないで速断が下される個所があり、また古代女性史研究の積み重ねがじゅうぶんに咀嚼されていないなどの批判もあった。 このように、なお今後の論考に俟つ余地はあるものの、それは本研究の価値を損なうものではない。よって審査委員は、論文審査の結果として、本論文を博士(学術)の学位を授与するに値するものと判定する。 |