韓国近代詩の形成は、伝統詩歌の流れと西欧詩からの多大な影響との相互作用により生み出されたことは言うまでもない。ところが、韓国近代詩と西欧詩との相関関係に注目すると、<西欧思潮>といわれるものの殆どが、実際には日本近代詩壇を通じて受け入れられた。そして外来思潮の移入と、その韓国的な変容を模索したのは、日本への留学経験を持つ二十代前後の若い人々であった。ということは、韓国近代詩の背景には、西欧だけではなく、日本近代詩からも少なからぬ影響があったことを意味する。 韓国近代詩の比較文学的な考察は、近年に入って日本近代詩からの影響研究を中心に多角的に試みられている。ところが、西欧詩と日本近代詩における詩的美を韓国詩壇に移植させた仲介者である留学生の日本文壇での活動は、これまでのところ、全く注目されていない。その理由は、まず未成熟の文学修業期のしかも日本語による作品であることに対する偏見と、そしてそれ以上に実作品を眼にすることが困難であったからである。しかし実際に作品に当たって検討してみれば、韓国留学生が発表した多くの日本語による作品は、充分味読に値する水準のものを含んでいる。またそれらの作品には、憧憬の対象であった西欧詩や、実際彼等が体得していた日本近代詩から受けた影響の諸相が如実に反映されている。後に韓国語で発表した作品と照らし合わせてみると、模倣と影響から韓国的な詩想への旋回といった、いわば近代詩の韓国的な変容を見いだすことができるのである。 とりわけ、韓国近代詩壇の新しい時代を切り開いた孤高の先駆者といえる朱耀翰(1900-1979)の日本近代詩壇での活躍には目を見張るものがある。朱耀翰は一九一二年来日して、明治学院中等部及び第一高等学校で修学する。この間に『文藝雜誌』 『秀才文壇』 『文章世界』などに詩、俳句、随筆などを投稿する傍ら、川路柳虹が設立した曙光詩社の同人詩集『伴奏』(季刊・全五巻)や、続いて刊行された詩専門誌『現代詩歌』(月刊)の同人になって次々と詩を発表する。一九一九年、三・一独立運動が起こり、その二カ月後、朱耀翰は上海に亡命するが、それまでに創作詩三十七篇、俳句三篇、エッセイ一篇、多くの短評などを発表している。また大正期の日本詩壇の大黒柱の一人として名をあげていた川路柳虹によって、三回も新人詩人として紹介されると共に、未来派の提唱者・平戸廉吉や先鋭的なアナキスト・萩原恭次郎らと親密な交友関係を維持するなど、日本の詩人たちと深く関わっている。このような日本での経歴が彼の日本語による創作詩に大きな影響を与え、またその後、彼の優れた韓国語詩文学に投影されたことは容易に推察できる。 本論文では、新発見の詩と、言及されていない新資料を補足して、耀翰の日本語による全作品を紹介・検討することを目標とした。しかし筆者が最も意を用いたのは、耀翰の日本語作品における文学性の検証である。特に比較文学的な観点から、西欧詩と日本近代詩との影響関係に注目するかたわら、耀翰詩研究の欠落を埋める研究の一助として、日本語で書かれた作品と、後に韓国語で発表された作品との関連性について検討・分析した。 本論文は第三章となっている。第一章では、耀翰の日本文壇でデビューや詩人としての成長を、新史料を中心に検討・考察した。彼の詩人としての出発点が、明治学院の校誌『白金學報』ではなく、文学同友会の一つである「燕」「小さき叫び」であり、その実体の一部を確認した。そして、『文藝雜誌』や『文章世界』への投稿、また「曙光詩社」の『伴奏』や続いての後継誌『現代詩歌』での同人活動など、日本詩壇における耀翰の詩文業の形跡を殆ど確認することができた。とりわけ、『現代詩歌』における耀翰の詩は、『白金學報』『伴奏』に発表した初期日本語詩に見られるセンチメンタリズム的傾向の主調から抜け出し、詩人としての確かな成長を示すものであった。それは日本詩壇での活動が、詩文学修業期であるという学説を覆すに充分な文学性を秘めている。そしてその背景に目を向けると、当時の西欧の最新の詩的流れといえるホイットマン、ポール・フォール、そしてイマジズム詩群から多大な影響を受けていた。一方では祖国韓国を取り囲んでいる外部的な環境を見極め、現実認識を深めていく。 生の問題から次第に現実洞察へ派生していく「書と夜の祈祷」詩群は、自然の生命の健やかさを題材に取り上げ、健康志向的であり、未来指向的な詩想を描いている。ホイットマンから受けた影響の例は<嬰児>のイメージを中心に比較してみた。自然の充溢する力やその治癒力を詩的素材として取り上げ、理想的な世界の具現と新天地の到来を歌ったホイットマンの詩想と、有り触れた自然の現象に注目してそこ力強い生命力を鼓吹しながら新時代の到来を確信する耀翰の詩想は確かに類似している。このような明るくて健康志向の詩想は、耀翰の詩文学全体に変わりなく内在している最も大きな特性の一つである。 ポール・フォールからは、自由詩を更に広げた奥深い散文詩の世界の洗礼を受ける。耀翰が日本語で書いた「微光」には、ポール・フォールから受けた影響を直に確かめられる。そして後に韓国語で試みた彼の代表詩「雪」「火祭り」においては単なる影響から抜け出て韓国的な素材や情緒、そして伝統的なリズムを受け継いでいることを確認した。いわば近代詩の韓国的な変容の好例を、ポール・フォールと耀翰との影響関係からかいま見ることが出来た。 表現面や詩的技巧において耀翰が心酔していたのは、当時世界的に新しい潮流として台頭していたイマジズムであった。客体について模糊で抽象的な描写を否定し、出来るだけ明瞭で簡潔に、しかも客観的な具象性のイメージを追求していくこの詩運動に、耀翰はすばやく反応し、積極的に受け入れた。彼が『現代詩歌』に発表した「卓上の静物」、「女」、「夕暮れの誘惑」、「まどろむ女」、「食卓」などは、多様な感覚語とその転移、そして美しい線の描写に主力を尽くした詩作であり、イマジズムに多大な影響を受けた具体的な形跡と見なされてよかろう。 このように最新の西欧思潮に強く感化を受け、自ら積極的に同化していき、後に彼の韓国詩にも投影させた背景には、「新しき詩歌の研究と創作」を目的とした『現代詩歌』の理念がある。その一環としてもうけられた「ホイットマン」、「ポール・フォール」、「イマジズム」などの特集は耀翰に大きな刺激をあたえた。これは、韓国近代詩の成立において、西欧思潮の多くが実は日本を通じて流入されたという一般論を確かめられる好例である。ただし、今まで論じられてきた、日本を仲介にして韓国詩壇に植えつけられた西欧思潮とは、大概フランス象徴詩派の移入を指していた。が、耀翰はイマジズムなど最新の西欧の詩的流れを日本詩壇の中央文芸誌で、他の日本詩人とほぼ同時期に受容し、自ら多様に繰り広げ、多彩な形で試み、それを密かに韓国詩壇に植え付けた。ここで耀翰の先駆者的な姿をみることが出来るのである。 ところが、耀翰は個人感情の美的昇華のみのために創作活動を続けることが出来なかった。それは彼が属していた集団、つまり祖国韓国に強いられている現実の政治的な状況が彼に危機意識や、民族への自覚心を呼び起こしたのである。一九一九年、在日韓国留学生による二・八独立宣言、そして三・一独立運動などを前後にして発表した時調の翻訳「朝鮮歌曲鈔」、最後の日本語詩「霧と太陽」や、『創造』第二号に発表された「太陽の季節」等は、そうした現実の危機感の表れである。そして耀翰は韓国の留学生としては初めて入学した一高生としての誇りと、『現代詩歌』の同人として自ら築き上げてきた詩人の名誉も捨てて上海に亡命する。日本詩壇で発表した耀翰の詩は、西欧の新たな詩的流れの積極的な受容と、その一方で韓国への回帰という両軸に支えられている。 第二章では耀翰と日本近代詩人との関係について影響関係を中心に検討・考察した。耀翰の滞日期間は、一九一二年末から一九一九年五月までの七年あまりである。この間の日本詩壇の推移をみると、白露時代、そして朔太郎の出現、それから民衆詩派、白樺派など、近代詩の黄金期としてモダニズムの台頭を目前にしていた時期である。当然ながら耀翰もこうした日本の詩的流れに少なからず影響を受けていた。 耀翰の初期詩の中の感傷的なロマンチシズムに浸っている幾つかの作品は、露風の純正なロマンチシズム的傾向の詩と類似している。特に微かな光のイメージを背景に悲哀と追憶の情緒を織り込んていることは両者の共通したところである。白秋からは異国情趣と官能美、そして非日常的な素材の詩的昇華という詩精神が耀翰に受け継がれた。それは白秋の「物理學校裏」と耀翰の「實驗室」にみられる異質的な素材の詩的昇華が象徴的に物語っている。が、耀翰の場合、単に文学性の追求という立場ではなく、文明の媒体として科学を受けとめて詩文学に表出していたことも忘れてはいけない。 耀翰が詩的表現や技巧の面で、最も深い関心を表明していた詩人は朔太郎であった。語り手の計り知れない内面世界を描写するために、「-ように」を畳み重ねて、語彙の意味を意図的に朦朧化したことと、「心と心」「手と手」など身体用語を積み重ねた官能的な表現は、朔太郎ならではの口語感覚といえる。耀翰は「言葉の空洞化」の技能を秘めている「-ように」文体の反復と、身体用語を重畳して孤独にさいなまれる語り手の切ない心境が秘められている官能表現に注目した。しかし、その二つの表現を借用するものの、耀翰は「―ように」体を、より明瞭な意味を探ることに用い、更に等時性といった音楽性に重点をおいた。また身体用語を積み重ねた表現「肌と肌」「掌と掌」は、希望と理想を待ち望む語り手の未来指向の所産である。耀翰は朔太郎から借用した二つの口語的な表現を、彼特有の理想と健康的な詩想をかもす表現へと変容させたのである。一九二〇年代の韓国近代詩に大きな影響を及ぼした朔太郎に最初に注目した韓国詩人が耀翰であったことは注目すべき事であろう。 耀翰が誰よりも深く文学的な交遊関係を維持した人は言うまでもなく、「曙光詩社」の同人であった。その中で『伴奏』『現代詩歌』の主宰者であった川路柳虹からは相当深い影響を受けていた。両者は確かに時代の変化に極めて敏感だった詩人である。柳虹は本格的に口語自由詩を切り開いた存在にとどまらず、常に大正詩壇の先端に立っていた詩人であった。柳虹の下で耀翰も新しい詩的流れに絶えず挑み続けたのである。また、平戸廉吉、萩原恭次郎など、他の同人との関係は、「前月の詩歌」や、同人同士の文学的な交遊場であった「小曲集」に具体的に表れている。これらは、耀翰が日本詩壇の中で成熟した詩人として位置を固めつつあったことを示す。 第三章では、耀翰の韓国詩の特徴を処女詩集『美しき曙』を中心に考察した。自由詩形を追求し、散文詩の領域を切り拓いたことや、個人的な自我より集団的な自我としての未来志向の詩想を描き続けたことが、彼の詩文学の特徴として取り上げられる。ところが、耀翰の過度の集団的な自我の表出は、やがて民謡詩や定型詩歌である時調詩人として彼を変貌させる。とはいえ、耀翰が韓国語で試みたイマジズムをはじめ、未来志向の詩想は、韓国の近代詩の確立や現代詩の成立に大きく貢献した。 一方、本論文の付録「史料集」では、上海滬江大学で、校誌編集部、英文弁論部、合唱団、科学部、野球部などのリーダーとして活躍した耀翰の姿を伝える一部の写真を抜粋し収めた。 耀翰の日本文壇時代から、後に詩人活動から遠ざかっていく時までの詩作の推移過程をみると、個人の感情の描写から次第に集団の感情を重んじる詩想へ移行していったことが分かる。これは彼が民族意識の所有者であり、現実状況に実に敏感であったことを物語る。そして想像の空間である詩文学の上に、あまりに集団の情緒を強調したために、詩人としての更なる発展を果たす事が出来なかった。その後、耀翰は、新聞記者、商工人、国会議員、長官、新聞社社長といった道を歩むが、それは現実に陥没していく姿に他ならない。が、耀翰が十代後半から十年あまりの詩人活動の中で発表した多くの詩作は、韓国詩の水準を高める触媒の役割をし、さらに現代詩にもその影響が受け継がれた。韓国近代詩、現代詩が多くの人にこよなく愛される限り、その中に耀翰の先駆的な詩作も見事に生きているといって決して言い過ぎではないのである。 |