学位論文要旨



No 112947
著者(漢字) ケスラー,ミハエル
著者(英字)
著者(カナ) ケスラー,ミハエル
標題(和) 植物細胞培養に対する流体ストレスの影響に関する研究
標題(洋) Study on the Effect of Hydrodynamic Stress on Plant Cell Cultures
報告番号 112947
報告番号 甲12947
学位授与日 1997.06.12
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3955号
研究科 工学系研究科
専攻 化学生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 古崎,新太郎
 東京大学 教授 輕部,征夫
 東京大学 教授 長棟,輝行
 東京大学 助教授 関,実
 東京大学 講師 池袋,一典
内容要旨

 植物細胞を懸濁培養することにより多くの有用物質、薬品、食品などを製造することができる。この場合に、細胞密度を大きくして物質生産を行えば当然ながら反応器あたりの生産性は向上するが、一方では十分な量の栄養分や酸素を細胞に供給するのに困難を生じることになる。この問題を解決する一つの手段は培養器における撹拌速度を上げることである。しかしながら、この場合には細胞が大きな流体ストレスにさらされることになり、細胞のストレス耐性が問題になってくる。これまでのところ、植物細胞に関しては流体ストレスの影響はあまり研究されてこなかった。

 本研究においては、少ない実験結果から植物細胞の流体ストレスに対する耐性を評価できる手法を得ることを目的として研究を進めた。まず、バッチ操作において種々の条件変化に対する細胞の挙動を調べるために、いろいろの増殖段階における植物細胞を層流下において剪断応力を与えて細胞の生存性を測定した。生存率に影響の出始めるストレスを臨界剪断応力と定義し、その測定法を提案した。ニチニチソウ細胞は耐性が大きく、剪断応力が15Paまで影響がみられなかった。イチゴ細胞とユーカリ細胞は対数増殖期と静止期において最も耐性が大きかった。臨界応力はそれぞれ12Paと2Paであった。剪断応力の影響が細胞によって違うことは細胞の形態の違いからは説明できなかった。培地の浸透圧が新鮮培地と古い培地で異なっており、新鮮培地のほうが1桁程高かった。この培地の組成も、細胞活性変化の別の因子として寄与しており、特に誘導期において影響がみられた。

 ついで、実際の撹拌槽における状態を検討するために、撹拌翼をいろいろと変え15lの撹拌槽を用いてストレスの影響を調べた。撹拌翼には、平羽根ディスクタービン翼、アンカー翼(櫂型)、ピッチディスク翼の3種を用いた。撹拌を行ったのちに細胞をサンプリングして生存性をモニターし、影響の出始める臨界動力を計算した。この臨界動力は先に求めた臨界剪断応力と相関関係があることを示した。この結果は、著者が以前に行った各種無機物粒子の分散実験の結果とも傾向がよく一致した。すなわち、無機物の粒子を用いて粒子の液中の分散状態を調べて、細胞に与える流体ストレスの影響の程度を予知できることが示された。これによると、無機物粒子による流体ストレスの影響の相関および層流場における剪断応力にによる細胞のダメージのデータの二つがわかれば、撹拌槽中の細胞に対するストレスの影響を知ることができる。また、以上の実験結果を総合して、ピッチディスク翼が最も細胞に対する影響が大きく、次いで平羽根ディスクタービン翼が細胞にダメージを与え、最も害のないのがアンカー翼であることがわかった。なお、適度に制御された撹拌ストレスはイチゴ細胞にとって増殖によい結果となることも示された。

 植物細胞の増殖や代謝活性において酸素は一般に不可欠である。植物細胞の活性の一つの指標として酸素消費量を用いることもできる。そこで、種々の型の撹拌翼を用いて酸素消費量に対する撹拌速度の影響について調べた。その結果、撹拌槽全体の散逸エネルギーではなく、撹拌翼近傍に限定された領域の散逸エネルギーが細胞活性と関係することがわかった。局所散逸エネルギーの値が200kW/m3のときに、酸素消費量の最高値6.0×10-8mol/(s g-fresh cell)の結果が得られた。すなわち、やや大きな撹拌エネルギーにより細胞活性に望ましい効果が得られることが示唆された。

 撹拌の二次代謝産物の生産に与える影響を調べる為に、ニチニチソウにより平羽根ディスクタービン翼(80W/m3)およびアンカー翼(10W/m3)を用いた撹拌槽(容積3l)によりアジマリシンとトリプタミンの生産を比較した。ニチニチソウは先に述べたように流体ストレスに強いので撹拌動力は生存性に対し影響を与えなかった。アジマリシンの生産は撹拌により著しく増大した。ニチニチソウでは二次代謝産物の生産に流体ストレスがよい方向に効いていることがわかった。細胞の凝集体の大きさによりストレスの影響が異なることも示された。小さい凝集体は渦の影響を大きい凝集体に比べて受けにくいが、アジマリシンの生産では大きい凝集体との差がないが、でんぶんの生成が少なかった。生産効率は小さい凝集体の方が良いようである。大きい凝集体では高乱流エネルギーのときに生産性が低いが、乱流エネルギーの小さいときには生産性が向上することが示され、その理由を説明する新しい渦と粒子の間における応力の関係を提案した。

 流体ストレスは細胞壁への影響の他に細胞内部にも影響を与える。そこで、イチゴ細胞を用いて、オルガネラに対する流体ストレスの影響についても検討を行った。300mlの撹拌槽において細胞培養を行い、オルガネラ中のアシッドフォスファターゼ(EC.3.1.3.2)の量と撹拌ストレスの関係を検討した。この値はライソソームの状態を表すと考えられる。すなわち,ライソソームの細胞膜が破壊されればアシッドフォスファターゼは細胞質に放出され、細胞をプロトプラストの状態にすれば培養液中に検出される。実験では、オルガネラ混合物、ライソソーム、ミトコンドリア・プラスチド画分および細胞質ゾルそれぞれの中のアシッドフォスファターゼを分析した。その結果、細胞のどの分画においても、また、増殖のどの時期においても撹拌によりアシッドフォスファターゼが増加していた。一方、エバンスブルーによる細胞活性の測定では大きな活性の低下はみられなかった。以上の結果から、アシッドフォスファターゼの細胞内濃度の上昇は、細胞へのストレスの効果の早い段階で現れるものと思われる。

 細胞の生存性を測定する手段として、色素を用いる方法がある。例えば、よく用いられる方法の一つにエバンスブルーによる染色がある。これは、細胞膜が破壊されれば、色素が細胞内に入り細胞質を染色することを利用するものである。一方、2,3,5-triphenyl-2H-tetrazolium chloride(TTC)を用いる方法は呼吸における代謝経路の活性を示し、呼吸活性によりフォルモザン色素の発色を利用するものである。種々の条件下でこの両者を比較したところ、両者の結果は相関性に欠けろことがわかった。TTC法は、代謝経路が関係するので、培養時間やストレスなどの多くの因子の影響を受け、定量的な評価手段としては、使用に注意を要することがわかった。

 以上、本研究においては、流体ストレスの植物細胞の生存性や代謝活性に与える影響を種々の大きさの撹拌槽に種々の撹拌翼を用いて検討し、撹拌槽における影響は層流状態における剪断応力による影響と相関性があり、測定の簡単な後者の方法でストレスの影響を予測できることを明らかにした。また、ストレスと細胞塊との関係も検討し、細胞塊の大きさでストレスの影響の程度が異なること、適度のストレスが代謝を促進することを示した。ストレスがオルガネラにも影響することを示し、細胞破壊の前に代謝が影響されることが示唆された。総括すれば、ストレスの制御が今後の植物細胞の利用において重要な操作因子となることを指摘したといえる。

審査要旨

 植物培養細胞を用いて医薬品、食品添加物など多くの有用物質を製造するプロセスは、季節や天候に左右されない有利な点があり、開発に向けての基礎的ならびに工学的研究が広く行われている。植物細胞は撹拌槽で懸濁状態で培養されることが一般に行われているが、この場合に細胞は流体の動きによる機械的ストレスを受けることになる。本研究は、このような流体ストレスに対する植物細胞の応答を調べ、培養槽の操作指針を得ることを目的としたもので、全9章からなっている。

 まず、第1章においてはこれまでの生体触媒に対する流体ストレスの影響に関する研究について概要を報告し、それらの結果を基に細胞のストレス下での生存性の研究がさらに必要なことを述べ、研究の対象としてストレスに強いニチニチソウ細胞と、影響を受けやすいイチゴ細胞、ストレスに非常に弱いユーカリ細胞を用いることを述べた。

 第2章においては、少ない実験結果を利用して細胞のストレスに対する耐性を評価することを目的に、層流場における剪断応力の効果を検討した。生存率に影響の出始めるストレスの値を臨界剪断応力と定義し、回転二重円筒を利用した測定装置とそれによる測定法を提案した。その結果、ニチニチソウ細胞は剪断応力に対して耐性が大きく、イチゴとユーカリはそれより弱かった。臨界剪断応力の値はそれぞれの細胞の種類により異なるが、その理由については細胞の形状や凝集の状態にもよるがその他の原因も考えられ明確な説明はできなかった。

 第3章においては、容積1Lから15Lの撹拌槽を用いてイチゴ細胞に対する流体ストレスの影響を検討した。撹拌翼としては平羽根ディスクタービン翼、アンカー(櫂型)翼、ピッチディスク(スクリュー)翼の3種を用いた。細胞を撹拌槽に入れて撹拌を行った後に細胞を採取して生存性を調べ、影響の生じ始める臨界動力を求めた。この結果を、無機物の粒子の撹拌による分散実験と比較し、ここでの臨界動力と第2章で求めた臨界剪断応力との相関を行った。植物細胞による結果と無機粒子を用いた結果とは傾向がよく似ていることが認められた。ピッチディスク翼は最も細胞に損傷を与え,最も損傷の少ないのはアンカー翼であった。また、イチゴ細胞においては適度の撹拌ストレスが細胞増殖によい結果を与えることも示された。

 第4章においては、イチゴ細胞の酸素消費量に対する撹拌速度の影響を15Lの撹拌槽によりタービン翼とアンカー翼を用いて検討した。その結果、酸素消費量は撹拌槽全体の散逸エネルギーではなく、撹拌翼近傍の局所散逸エネルギーが関係し、やや大きな撹拌エネルギーのところに酸素消費量が最大となる点のあることが見出された。また、少々ストレスを与えても細胞の生存性に影響はなく、撹拌により酸素の培地への吸収速度が大きくなるメリットが示された。これは、バイオリアクターの設計方針に有用な知見を与える結果と評価できる。

 第5章においては、流体ストレスが細胞内部に影響を与える点を調べる目的で、イチゴ細胞のオルガネラ中および細胞質に放出されたアシッドフォスファターゼの量と撹拌ストレスの関係について検討した。すなわち、ライソソームの膜が破壊されればアシッドフォスファターゼが細胞質に放出され、細胞膜が破壊されれば培養液中に放出される。実験では、細胞をプロトプラストにして密度沈降法により分画し、ライソソーム、ミトコンドリア・プラスチド画分および細胞質ゾルに分け、それらのアシッドフォスファターゼ濃度を分析した。その結果、どの分画においても、またどの増殖期においても早期から撹拌によりアシッドフォスファターゼが放出されることが見られた。このことから、増殖の早い時期に撹拌ストレスが細胞に影響を与え、ライソソームが損傷を受けることが示された。

 第6章においては、細胞の生存性を調べる為の色素を用いる方法について検討した。そのうち、2,3,5-triphenyl-2H-tetrazolium chloride(TTC)を用いてフォルモザン色素の発色を利用し呼吸活性を測定する方法は、培養時間やストレスなど多くの因子の影響を受ける為、定量的な解析には適当でないことを示した。この結果は、細胞培養の研究に多大のインパクトを与えるものと思われる。

 第7章においては、二次代謝産物の生産に対する撹拌の影響を調べるためにニチニチソウ細胞を用いて、3Lの撹拌槽によりアジマリシンとトリプタミンの生産性に対する細胞の凝集体の大きさの効果を検討した。その結果、250m以上の大きい凝集体では生産性が著しく小さくなったが、それよりも小さい細胞塊では生産性は変わらなかった。酸素などの物質移動速度は凝集体の大きさによって影響されないことは計算で明らかであった。一方、大きい細胞塊では渦の振動に追随して振動できず、細胞自身が振動しないことが示された。アジマリシンの生産には何らかのストレスが必要なことは既に知られており、振動が一種のストレスと考えると、大きい細胞の凝集体では振動のストレスが細胞に伝わらない為にアジマリシンの生産性が低かったと説明している。これは、ニチニチソウによるアジマリシンの生産に対して工業的に流体ストレスを利用できるという提案であると評価できる。

 第8章においては、タービン翼(80W/m3)とアンカー翼(10W/m3)により3Lの培養槽で培養実験を行いアジマリシンとトリプタミンの生産性を比較した。ニチニチソウは流体ストレスに抵抗力があり生存性に影響が見られず、むしろタービン翼を用いることによりアジマリシンの生産は著しく増大した。アンカー翼ではトリプタミンの生産性は変わらないがアジマリシンの生産性が低かった。これは、タービン翼の方が局所散逸エネルギーが大きく、細胞に与えるストレスがアジマリシン生産に好結果をもたらしたと解釈している。

 第9章では論文の総括を述べ、流体ストレスが細胞の生存性や二次代謝産物の生産性に複雑な影響を与えることを、多くの実験例により示したと述べている。

 以上、本論文はこれまで研究の少なかった植物細胞に対する流体ストレスの影響を撹拌槽を中心に用いて、細胞の種類、種々の撹拌翼、細胞塊の大きさを変えて実験を行い、時には流体ストレスが生産性を向上させることを示した。また、回転二重円筒による層流場で剪断応力を受けたときの結果と比較し、層流場の効果を乱流場へ当てはめることができることを示した。等方性乱流理論を植物細胞培養に応用した有用で興味ある論文といえる。これらの成果を総括して、細胞工学ひろくは生物化学工学の発展に寄与するものと評価できる。よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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