植物培養細胞を用いて医薬品、食品添加物など多くの有用物質を製造するプロセスは、季節や天候に左右されない有利な点があり、開発に向けての基礎的ならびに工学的研究が広く行われている。植物細胞は撹拌槽で懸濁状態で培養されることが一般に行われているが、この場合に細胞は流体の動きによる機械的ストレスを受けることになる。本研究は、このような流体ストレスに対する植物細胞の応答を調べ、培養槽の操作指針を得ることを目的としたもので、全9章からなっている。 まず、第1章においてはこれまでの生体触媒に対する流体ストレスの影響に関する研究について概要を報告し、それらの結果を基に細胞のストレス下での生存性の研究がさらに必要なことを述べ、研究の対象としてストレスに強いニチニチソウ細胞と、影響を受けやすいイチゴ細胞、ストレスに非常に弱いユーカリ細胞を用いることを述べた。 第2章においては、少ない実験結果を利用して細胞のストレスに対する耐性を評価することを目的に、層流場における剪断応力の効果を検討した。生存率に影響の出始めるストレスの値を臨界剪断応力と定義し、回転二重円筒を利用した測定装置とそれによる測定法を提案した。その結果、ニチニチソウ細胞は剪断応力に対して耐性が大きく、イチゴとユーカリはそれより弱かった。臨界剪断応力の値はそれぞれの細胞の種類により異なるが、その理由については細胞の形状や凝集の状態にもよるがその他の原因も考えられ明確な説明はできなかった。 第3章においては、容積1Lから15Lの撹拌槽を用いてイチゴ細胞に対する流体ストレスの影響を検討した。撹拌翼としては平羽根ディスクタービン翼、アンカー(櫂型)翼、ピッチディスク(スクリュー)翼の3種を用いた。細胞を撹拌槽に入れて撹拌を行った後に細胞を採取して生存性を調べ、影響の生じ始める臨界動力を求めた。この結果を、無機物の粒子の撹拌による分散実験と比較し、ここでの臨界動力と第2章で求めた臨界剪断応力との相関を行った。植物細胞による結果と無機粒子を用いた結果とは傾向がよく似ていることが認められた。ピッチディスク翼は最も細胞に損傷を与え,最も損傷の少ないのはアンカー翼であった。また、イチゴ細胞においては適度の撹拌ストレスが細胞増殖によい結果を与えることも示された。 第4章においては、イチゴ細胞の酸素消費量に対する撹拌速度の影響を15Lの撹拌槽によりタービン翼とアンカー翼を用いて検討した。その結果、酸素消費量は撹拌槽全体の散逸エネルギーではなく、撹拌翼近傍の局所散逸エネルギーが関係し、やや大きな撹拌エネルギーのところに酸素消費量が最大となる点のあることが見出された。また、少々ストレスを与えても細胞の生存性に影響はなく、撹拌により酸素の培地への吸収速度が大きくなるメリットが示された。これは、バイオリアクターの設計方針に有用な知見を与える結果と評価できる。 第5章においては、流体ストレスが細胞内部に影響を与える点を調べる目的で、イチゴ細胞のオルガネラ中および細胞質に放出されたアシッドフォスファターゼの量と撹拌ストレスの関係について検討した。すなわち、ライソソームの膜が破壊されればアシッドフォスファターゼが細胞質に放出され、細胞膜が破壊されれば培養液中に放出される。実験では、細胞をプロトプラストにして密度沈降法により分画し、ライソソーム、ミトコンドリア・プラスチド画分および細胞質ゾルに分け、それらのアシッドフォスファターゼ濃度を分析した。その結果、どの分画においても、またどの増殖期においても早期から撹拌によりアシッドフォスファターゼが放出されることが見られた。このことから、増殖の早い時期に撹拌ストレスが細胞に影響を与え、ライソソームが損傷を受けることが示された。 第6章においては、細胞の生存性を調べる為の色素を用いる方法について検討した。そのうち、2,3,5-triphenyl-2H-tetrazolium chloride(TTC)を用いてフォルモザン色素の発色を利用し呼吸活性を測定する方法は、培養時間やストレスなど多くの因子の影響を受ける為、定量的な解析には適当でないことを示した。この結果は、細胞培養の研究に多大のインパクトを与えるものと思われる。 第7章においては、二次代謝産物の生産に対する撹拌の影響を調べるためにニチニチソウ細胞を用いて、3Lの撹拌槽によりアジマリシンとトリプタミンの生産性に対する細胞の凝集体の大きさの効果を検討した。その結果、250m以上の大きい凝集体では生産性が著しく小さくなったが、それよりも小さい細胞塊では生産性は変わらなかった。酸素などの物質移動速度は凝集体の大きさによって影響されないことは計算で明らかであった。一方、大きい細胞塊では渦の振動に追随して振動できず、細胞自身が振動しないことが示された。アジマリシンの生産には何らかのストレスが必要なことは既に知られており、振動が一種のストレスと考えると、大きい細胞の凝集体では振動のストレスが細胞に伝わらない為にアジマリシンの生産性が低かったと説明している。これは、ニチニチソウによるアジマリシンの生産に対して工業的に流体ストレスを利用できるという提案であると評価できる。 第8章においては、タービン翼(80W/m3)とアンカー翼(10W/m3)により3Lの培養槽で培養実験を行いアジマリシンとトリプタミンの生産性を比較した。ニチニチソウは流体ストレスに抵抗力があり生存性に影響が見られず、むしろタービン翼を用いることによりアジマリシンの生産は著しく増大した。アンカー翼ではトリプタミンの生産性は変わらないがアジマリシンの生産性が低かった。これは、タービン翼の方が局所散逸エネルギーが大きく、細胞に与えるストレスがアジマリシン生産に好結果をもたらしたと解釈している。 第9章では論文の総括を述べ、流体ストレスが細胞の生存性や二次代謝産物の生産性に複雑な影響を与えることを、多くの実験例により示したと述べている。 以上、本論文はこれまで研究の少なかった植物細胞に対する流体ストレスの影響を撹拌槽を中心に用いて、細胞の種類、種々の撹拌翼、細胞塊の大きさを変えて実験を行い、時には流体ストレスが生産性を向上させることを示した。また、回転二重円筒による層流場で剪断応力を受けたときの結果と比較し、層流場の効果を乱流場へ当てはめることができることを示した。等方性乱流理論を植物細胞培養に応用した有用で興味ある論文といえる。これらの成果を総括して、細胞工学ひろくは生物化学工学の発展に寄与するものと評価できる。よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。 |