学位論文要旨



No 112956
著者(漢字) 李,雄賢
著者(英字)
著者(カナ) リ,ウンヒョン
標題(和) ソ連アフガニスタン出兵の政策決定過程に関する研究
標題(洋)
報告番号 112956
報告番号 甲12956
学位授与日 1997.07.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第123号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 和田,春樹
 東京大学 教授 石井,明
 東京大学 教授 中井,和夫
 東京大学 教授 小松,久男
 慶応義塾大学 教授 横手,慎二
内容要旨

 ソ連はアフガニスタンで何の計画を持ち何の目的を追求していたのだろうか。果たして、最初からそのような計画と目的は確かに存在していたのだろうか。地政学理論家と現実主義者たちはソ連のアフガニスタン侵攻を説明するのに伝統的なソ連の膨張主義あるいは国家としての「利益」の追求などを強調する。本論文は、このような冷戦時代の感覚から同事件を分析した既存の研究を批判的に検討し、新しい資料に基づいて既存の視角や学説の限界を超えて新しい観点からソ連とアフガニスタンの関係を照明しようとしたものである。

 アフガニスタン出兵は、ソ連のグランド・プランや膨張への狙いから始まったのではないという基本前提に対する検証をはじめ、第3世界の共産主義国家としてのアフガニスタン政権と、理念的にその政権を支援せざるを得なかったソ連との関係の中で、ソ連内部の外務省、党国際部、国防省、それからKGBが、アフガニスタン問題にどう対処していったのか、どうして極端な措置を取らざるを得なかったのか、アメリカおよびイスラム原理主義勢力は出兵の促進要因であったのか、などを究明する。もちろん1979年当時のソ連指導部のさまざまな人物、カブール現地でモスクワに報告書を送ったソ連人代表たちの色々な人間模様も研究の対象となる。

 第1章では、ソ連のアフガニスタン出兵に関する既存研究と、出兵の原因に関する諸説やソ連政府の立場の検討し、第2章では1979年の出兵の前史として1978年4月革命以前からのカブールとモスクワの関係を再考察する。第3章では、いわゆるアフガニスタン人民民主党の内訌を中心とするアフガニスタン問題を外交的に解決しようとしたソ連外務省筋の努力とその限界を見る。それから、第4章ではアフガニスタン問題におけるソ連軍部の動向を、その構成員の経歴やキャラクタから分析し、第5章ではソ連、米国、カブール、それからアフガン叛軍の間の熾烈な情報合戦あるいは葛藤などを描く。それから第6章では大破局としてカブール侵攻作戦とその後始末を検討する。

 不思議なことに、1979年のソ連指導部の誰一人、アフガニスタンへの出兵が「ソ連のベトナム」を創ってしまいかねないと憂慮する者はいなかった。参謀本部からの異議はあったものの、結局それも第3世界で第2のベトナムを創ることなく成功を収めた豊富な経験に埋没してしまい、第3世界の共産主義者たちはソ連共産党の指示する路線から離れてはいけないというソ連政治指導部の「傲慢」さは、どこでも敗北したことのないソ連軍指導部の「自信感」によってますます強められていったのである。もちろん部分的には、イスラム勢力が猖獗しているとか、米・中が脅威を加えているとかといった「危機意識」も加えられていた。1979年のソ連指導部には、軍事的自信感と政治的焦りが錯綜していたのである。

 アフガニスタンで共産主義者たちが政権を握った時、ソ連指導部は早々とアフガニスタンの共産主義的発展モデルを作り、そのための経済支援に乗り出す一方、アフガニスタンの国内的政治基盤の拡大のための連合戦線の形成などを促し始めた。1979年の春、軍事介入問題がアフガン人自身によって提起された際も、直ちに軍事介入はしないものの、「アフガニスタンを失うわけには行かない」という前提は、必ず守るべきこととしてソ連指導部の認識の根底に敷かれていたのである。そのような決意を貫こうと、ソ連指導部はアフガニスタンで10カ月余りを、あらゆる手(エピシェフ、サフロンチュク、ポノマリョフ、パヴロフスキーの派遣)を打ち消耗したのである。その渦中にもアフガニスタン革命を支援すべきという固定観念(強迫観念)は彼らの頭から離れたことはなかった。1979年ソ連指導部の対アフガニスタン政策は、こういった間違った軍事的自信感と過剰な政治的危機意識、それから革命支援の義務感の上に成り立っていたのである。

 この問題の解決過程を、官僚主義モデルで分析する研究者もいるが、確かに1978年と1979年にカブールからモスクワへさまざまな報告を送っていたソ連代表たちの間には、「縄張り主義」とも言えるこのような官僚主義的利害関係、あるいは見解の衝突があったと見られる。親タラキー的性向のソ連大使プザノフの権力闘争的観点から見たNDPAに関する報告や提案、アフガニスタンに対する文化的偏見に満ちたサフロンチュクの反アミン的な報告、親アミン的態度で軍事的要請を続けたゴレーロフの報告、それからアミンに対する疑惑を募らせながらパルチャムには同情的だったイヴァノフ、モロゾフらのKGBの報告などからそのような様子が窺える。プザノフの態度は、結局アミン政権とモスクワの関係における破局を呼び起こしたし、サフロンチュクの報告はハルクに対するモスクワの不信を助長する結果となった。そしてゴレーロフは、ソ連がアフガニスタンに軍事的に深い関わりを持つようになるのに一役を担っているし、カブールのKGBはアミンに対するモスクワの疑惑を深めるに貢献している。

 しかし、ソ連のアフガニスタン出兵の政策決定過程は、このモデルだけでは説明されがたい。ブレジネフ政権末期のモスクワの政策決定のスタイル、力の分布状態、それから固定観念をも考慮に入れなければならないのである。カブールからの情報報告や問題解決の方法に関する提案における食い違いがあったのは確かであるが、そのような矛盾した諸報告のせいでモスクワが混乱をきわめていたのではない。問題はいつもアフガニスタン委員会で検討・妥結され、政治局に回付されているが、その過程でアフガニスタン委員会内でしかるべき政策をめぐって深刻な衝突があったと思わせるかけらもないのである。むしろ、問題を解決していく10カ月の間、グロムイコ、アンドロポフ、ウスチノフ、ポノマリョフの4人は適切な役割分担(対外交渉、対外情報の収集分析、軍事力の使用)に基づいて協調し合いながら、適切な手順を辿って行ったかのようにさえ見られる。言い換えれば、カブールからの報告のプロセスを観察するには、「官僚政治モデル」が有用であるが、しかしそれだけでは、なぜモスクワが10年戦争の泥沼に引き込まれるようになったのかに関する全体的な説明は出来ないのである。

 そのようなモスクワも、ベトナムでのアメリカの悲劇をまったく無視し、すでに「アフガニスタンを諦めることは出来ない」という方針を固めた時点から「愚かな行進」を始めていたとも言える。彼らは、結局介入せざるを得ない前提の上で、介入するかどうかに関する討論を交わしていたのである。モスクワの政策決定者たちは、1978年4月と1979年3月に、それぞれ「ソ連の提示するモデルによるアフガニスタン革命の完成」および「アフガニスタンを敵に渡すことは出来ない」という前提の上で、アフガニスタン問題を討議していた。ソ連に近付いてきた第3世界の共産政権を支援すべく、イデオロギー的にも革命政権を救い出すべきだという固定観念に、支配されていたのである。

 確かに、1979年3月から12月までの間、アフガニスタン内政だけではなく、国際情勢においても変化が起こったのは事実である。3月に出兵の抑制要因として作用した西側に対するモスクワの意識が12月に近づくにつれ、弱まりつつあったのも否認しがたい。しかし、それは米国をはじめとする西側の政策がソ連に対して挑戦的に変わっていたからではなく、モスクワがアミン政権を媒介として見た米国に不信感を抱くようになったからである。すなわち問題の核心はアミン政権であり、ワシントンではなかったのである。アフガニスタン委員会がアミンを破門に処し、徹底的に欺こうと腹を決めたのは、テヘラン駐在米国大使館がイラン過激派により占拠される(11月)前のことであり、なおNATOで中距離ミサイルのヨーロッパ配置が決まる(12月)だいぶ前のことだったのである。

 ソ連にとっては、アフガニスタン問題の処理過程においては両方の手段、すなわち政治的基盤の拡大要求と経済支援という措置を同時に使うということが、基本方針であり、そもそもそれは第3世界共産主義革命運動に対する政策の骨幹でもあっただろう。しかし、自力で政権を掌握したアフガニスタンの共産主義者たちへの政策としては、それは判断ミスだったに違いない。

 固定観念に支配されていたソ連指導部は、1979年9月以前はタラキー=アミン・チームの支援要請の攻勢に、それ以後はアミンの主導するカブール政局の予測不可能性に圧倒されつつ、結局クライアントのアフガニスタンに動かされたのである。言い換えれば、モスクワの対アフガニスタン路線は、カブール政権の執拗な要求に呑みこまれ、カブールの急激な政局変化に呑みこまれてしまったのである。カブールの政局変化の中でソ連の政策や指導部は、第3世界諸国に対する革命支援という固定観念の虜になって、結局はアフガニスタンという泥沼に呑み込まれてしまったということである。

審査要旨

 従来、冷戦期のソ連外交政策決定過程の研究は、具体的な内部資料がとぼしいもとで、さまざまな仮説的理論を構築して分析をおこなってきた。1979年にはじまったソ連のアフガニスタン出兵はベトナム戦争における米国の失敗と比較され、どうしてあのような政策決定がなされたのか、関心を集めてきたが、研究者がとりうる方法は他のケースの場合と変わらなかった。

 本論文は、このような既成の理論分析の限界性を意識するところから出発している。まずソ連が合理主義的に自国の安全保障を追求しているという前提から出発する地政学的、現実主義的理論については、結局その説明はソ連の公式の「口実」の枠を越えることができないものと批判されている。また外務省、KGB、軍部といった部局毎の利害と方針の間の対立を前提にして、政策の変化をも説明しようという、ヴァレンタなどの官僚主義政治モデルについては、こちらの方がよりきめ細かく分析することを可能にしたが、結局、対立した部局利害の調整がどのようになされたかはブラックボックスの中に残ってしまい、わからないままに終わると批判されている。

 本論文がこのような既成の研究の批判から出発するさい、依拠するのは、きわめて豊富な新資料である。ペレストロイカ以後のロシアで、アフガニスタン出兵について多くの回想証言が刊行されたが、それらが網羅的に検討されている。さらにソ連の党と政府の文書資料の公開もはじまっているが、アメリカ側が特別な努力で獲得した文書がワシントンの National Security Archiveで公開されているのを探して入手した。その他、ロシアの新聞、雑誌に公表された文書も丹念に渉猟している。最後にカブール駐在のアメリカ大使館の文書を入手したことも画期的である。これはイラン革命でテヘランのアメリカ大使館占拠者たちが奪って公表した資料集からえられたのである。

 このような資料を駆使することによって、本論文はアフガニスタン出兵を決定し、実行する政治過程をオーソドックスな外交史の手法によって研究することができている。ソ連やアメリカで新資料に基づく研究や叙述(リャホフスキー、ウェスタッド、ガーソフら)が出ているが、本論文は、それらの分析を深め、アフガニスタン政府、在カブールのソ連代表、それにモスクワの各部局との間の相互関係の分析に集中することによって、出兵という政策決定が帰結した「真の内部的『原因』」をさぐろうしたのである。

 本論文は、研究史と資料の状況を概観した第一章につづいて、第二章「前史:カブールとモスクワの距離」で、1978年4月のクーデターとソ連との関係を論じるところからはじめている。このクーデターの前は、アメリカはダーウド政権のもとでのアフガニスタンとの関係の改善に満足しており、アフガニスタンとソ連との関係は冷却していた。だからダーウド政権を倒したアフガニスタン人民党の「四月革命」はソ連に喜びを与えることになり、モスクワはアフガニスタンがすくなくともモンゴル型の社会主義へ進むと判断した。しかし、生まれた人民党政権の中ではハルク派とパルチャム派の対立が激化し、ついに7月にはパルチャム派は追放される。この過程で、ソ連の現地大使館は、黙認路線をとった。その後ソ連の影響力がカブールで増し、79年2月の米大使殺害事件もあって、アメリカの影響力は低下した。

 第三章「外交時代:1979年3月から7月まで」では、まず79年3月のヘラートの反乱がおこると、タラキー=アミンのハルク派政権がソ連への軍事介入を要請しはじめることが確認される。だが3月17、18日のソ連共産党政治局会議で、グロムイコ外相もアフガニスタンを失うことはあってはならないが、軍隊の介入はしてはならないと主張し、アンドロポフKGB議長もこれに強く同調するにいたる。この結果、タラキーをモスクワへよんで、コスイギン、ブレジネフが政権基盤を拡大するなど、自助努力をせよときびしく求めた。モスクワはこの直後外相、国防相、KGB議長らからなるアフガニスタン問題検討委員会を政治局内部につくっている。この委員会も不出兵決定を確認し、タラキーにつきつけられた勧告にひとしい意見書をまとめた。ヴァレンタはこのときカブールに派遣された軍の代表エビシェフが軍事介入を主張したと推定しているが、正しくないとしりぞけられている。だがこの直後にもアミン新首相は飛行士付きで武装ヘリコプター20機程度を派遣するように要請し、ソ連側はただちに拒絶した。ここで外務省はあらたにサフロンチュクを特使としてカブールにおくるが、彼はアミンと厳しく対立する。6月29日、アフガニスタン委員会はタラキー=アミンを批判し、政権基盤強化を求めるとともに、将軍たちの視察団やソ連要員護衛のためのKGB部隊を派遣することを決定する。明らかにソ連は一歩踏み出したのである。7月には党のポノマリョフも派遣される。

 第4章「将軍たちの日々:1979年8月から9月まで」は軍の動きを中心に分析している。まず現地軍事顧問団長ゴレーロフが親アミン的傾向をあらわし、軍事介入をモスクワに要請する。モスクワでは参謀総長オガルコフが出兵に反対しているが、このころ第三世界との関係を担当してきた国防第一次官ソコロフがアフガニスタンとの関係に乗りだしてくる。そのもとでパヴロフスキー将軍の視察団がを8月に現地に派遣される。しかし、この使節団もタラキーの強い要請をしりぞけ、ソ連軍の投入には反対であるとの意見を変えなかった。9月14日、タラキーとアミンの衝突がおこり、モスクワがもっとも警戒していたアミンが権力をにぎる。グロムイコは不愉快だが、アミンとの関係は維持せよとの指示を出した。現地の代表の中では、KGB代表も反アミンの立場を取っていた。

 第5章「見えない戦争:1979年10月から11月まで」はアミンのクーデターがソ連の態度を決定的に変えさせる過程を検討している。アミンは当初アメリカへ接近するポーズを示したが、すぐにソ連から信任をえて、軍事介入を要請する道に立ち戻ったのである。ソ連の反応がはかばかしくないということに苛立ったアミンは大使の召還と10月9日のタラキーの殺害をモスクワへ突きつけた。タラキー殺害は、モスクワのアミン反発を決定的にし、KGBがアフガニスタン政策の中心に立つようになった。10月29日のアフガニスタン委員会決定は、事実上アミン破門を決めたにひとしく、アミンに対するソ連側の不信をさとらせずに、アミンの真意をさぐることが決められた。アメリカは、このさいもアミンの接近のポーズにも動かなかったし、アフガニスタンの反政府反乱者への援助にも乗り出していなかった。逆にKGBの庇護下にあったパルチャム派のカルマルがモスクワで反アミン連合戦線のために動き始めることになったのである。

 第6章「トンネルの入り口:1979年12月から1980年2月まで」は最終章で、アミンがソ連の信任を得ようとしてやることがすべてソ連の不信を決定的にしていく様子を明らかにしている。モスクワはアンドロポフの主導で、12月の中旬にアミン除去を試みる案を立てたようだが、実行されず、結局この月末の軍事行動によってアミン除去を断行することになる。予定された兵力動員では軍事的に問題を解決しえないとして、参謀本部側が最後の抵抗を試みたが、政治家が押し切った。12月12日政治局はアフガニスタン委員会の決定を承認した。作戦は二段階に分かれ、まず12月27日にKGBと軍の特殊部隊がアミンの宮殿を攻撃して、アミンを殺害した。カルマル政権の成立が発表される。第二段階はソ連派遣軍主力部隊の作戦だが、部隊がカブールに到着したのは12月29日のことであった。アフガニスタン委員会の報告は31日に政治局に提出された。

 以上のような論文の内容を検討してみると、次のような長所を挙げることができる。第一に、カブール現地でのソ連の出先機関、大使館、KGB代表、軍代表のそれぞれの状況判断、政策提言の分かれと変化を明らかにして、分析の基礎に据えたことである。これは研究の新境地であり、大きな貢献である。第二に、テヘラン米大使館文書を利用して、カブールの米大使の状況判断、政策提言をも明らかにしたこと、米側はアフガニスタンに対し基本的に消極的な態度であったと明らかにしたことが重要である。

 第三に、モスクワ中央では、参謀本部内に終始有力な出兵反対論があったことを明示し、それとは対象的な出兵積極論の存在も指摘したことである。軍内の異なった意見の析出はとくにあざやかである。第四に、党政治局のアフガニスタン委員会は、カブールから異なった状況判断、政策提言を受け取りながら、むしろ共通の判断をに立つようにし、時とともに全体として出兵反対論から出兵推進論に変化して行ったこと、その変化によって政策推進の主たる担当部局が変化していくことを指摘していることである。第五に、出兵という決定に行き着いた原因は、革命アフガニスタンを諦めることはできないというモスクワの指導者たちの固定観念、革命主義とモスクワに軍事介入を要請してやまないアフガニスタン政権というクライアントの執拗さにあったという結論である。「呪文による介入、注文による出兵」と簡潔に表現されている結論は、大国ソ連がアフガニスタンの状況に呑み込まれたとするもので、説得的かつ斬新である。

 全体として、日本語の力量も相当なものであり、文章は洗練されており、表現力がゆたかであると評することができる。

 もとより問題点がないわけではない。KGBと外務省の組織的体質、それに人物としてはプレジネフのものの考え方などについては、もうすこし掘り下げる余地があると思われる。またソ連科学アカデミー東洋学研究所などに蓄積された帝政期以来のアフガニスタン研究が危機的な状況の中でのソ連の政策の決定に影響しているのか、いないのかといった問題は検討されていない。さらにアフガニスタンの人名、地名の表記にも修正を要する点があるし、資料の翻訳に一部問題があったことも指摘された。しかし、そのような諸点は本論文の長所を打ち消すものではない。

 本論文は全体としてソ連のアフガニスタン出兵に関する完成度の高い、すぐれた研究として、世界の学界への大きな貢献といえる仕事である。よって、本論文の執筆者である李雄賢は、博士(学術)の学位を授与される資格があると認める。

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