学位論文要旨



No 112958
著者(漢字) 門,宏超
著者(英字)
著者(カナ) メン,ホンチョウ
標題(和) タバコガにおける性フェロモンによる交信攪乱に関する行動生理学的研究
標題(洋) Behavioral and physiological studies of mating disruption by using synthetic sex pheromone components in labotory
報告番号 112958
報告番号 甲12958
学位授与日 1997.09.08
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1835号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生産・環境生物学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 田付,貞洋
 東京大学 教授 北原,武
 東京大学 教授 古田,公人
 東京大学 教授 小林,正彦
 東京大学 助教授 石川,幸男
内容要旨

 合成性フェロモン成分などによって害虫の生殖交信を撹乱し交尾の阻害によって次世代の害虫数を減らす交信撹乱法は、性フェロモンが同定された当初から研究が注目された。現在多くの昆虫種で本法による防除が従来の殺虫剤防除と同様に大規模な実行が行われている。しかし、交信撹乱法の適用の可否は従来、試行錯誤を重ねた野外実験によって判断されており、労力的と時間的コストが大きく、しかも有効でない場合にはその生物学的要因の究明が困難であった。世界的に重要な難防除害虫が多く含まれるタバコガ類(HeliothisとHelicoverpa)はこれまで交信撹乱防除が困難とされるグループの一つである。日本でも野菜などの重要害虫であるタバコガの交信撹乱による防除を長期間に試みてきたが安定した効果は得るには至っていない。その要因を解明するため室内での交信撹乱機構に関する研究が不可欠となった。

 本研究では交信撹乱法の適用が困難とされるタバコガを用いて、室内実験により交信撹乱法に関する行動生理学的研究を行い、本種の交信撹乱法の可能性と撹乱機構を行動学的および電気生理学的手法により検討したうえ、交信撹乱法の適用が困難である原因を考察した。さらにこれらの結果をオオタバコガ及び交信撹乱防除法がすでに成功しているシロイチモンジヨトウとの比較実験を行い、タバコガの交信撹乱法の適用の難しさに関連する生理学的性質を考察した。

1.性フェロモンに対するタバコガ雄成虫の行動的および電気生理学的反応とバイオアッセイ系の確立(1)反応行動およびこれらの反応行動に及ぼす雄の日令と時刻の影響

 ガ類の性フェロモン研究で一番広く利用されている風洞を用いて、15L:9D、23±1℃の条件下で実験を行った。タバコガ雄の雌性フェロモンに対する行動反応は多くのガに典型的な行動反応と同様であり、これらの反応に及ぼす雄の日令と時刻の影響は暗期開始後2〜6時間の間の、2〜6日令の雄が比較的に強い反応を示すことが分かった。そのため、本論文では雌性フェロモンに対する行動反応を指標としたすべての実験は暗期開始後2〜6時間の間で2〜6日令の雄成虫を用いて行った。

(2)行動反応におよぼすフェロモン組成と量の影響および歩行距離を指標とした簡易バイオアッセイ法の確立

 風洞実験によるバイオアッセイを行ったが、フェロモン成分および関連成分7種のうち、第1主成分Z9-16:Aldだけ(1成分)ではフェロモン活性がなかった。1成分に第2主成分Z11-16:Aldを加えた2成分では遠距離と近距離反応を含むほとんどの行動反応が引き起こされ、2成分に他の微量成分と関連成分を加えた3〜7成分に対する反応とは、明瞭な差は認められなかった。特に微量成分とされるZ9-16:Acと16:Aldの活性を明らかにはできなかったが、微量成分が性フェロモンによるガ類の交信撹乱には重要な働きを示すこともあるので、本実験では自己製作の「Free Flight Treadmill」という装置を用いて歩行距離を指標をとした新たなバイオアッセイ法を確立した。この方法では両微量成分を加えた4成分は2成分より明かに長い雄の歩行距離を引き起こし、通常の風洞実験で検出にくかった微量成分の行動活性が容易に検出された。また、雄の異なる量の4成分と7成分の合成フェロモンに対する行動反応を、処女雌に対する反応と比較したが、いずれ組成と処理量でも、雄は処女雌に対する反応が合成フェロモンに対する反応よりも高かった。そのため、以下の室内実験によりタバコガの交信撹乱効果および撹乱機構の評価は、撹乱処理中あるいは処理後の雄の処女雌に対する行動反応を調べるバイオアッセイ系を用いた。

(3)合成性フェロモン成分に対するタバコガ成虫の電気生理的反応:

 触角電図(EAG)法を用いて、まず雄成虫の電気生理的反応を調べたが、フェロモン成分と関連成分の7種類に対してはすべてEAG活性が認められた。また、雌成虫自身の反応も第1主成分および各フェロモン成分の混合物である2成分および4成分を用いて雄成虫の反応と比較したが、雌成虫が自ら生産したフェロモン成分に反応しないことが分かった。

2.風洞におけるタバコガの交信撹乱効果の評価(1)野外風洞における交信撹乱の再評価:

 本種の交信撹乱実験では、高濃度の撹乱剤を要するので、それによって起こる汚染を防ぐため、風洞を野外に設置したうえ、頻繁に風洞の側面に透明なビニールを張り換え、撹乱剤の雄の処女雌に対する近距離反応行動である近距離定位、接触およびメーティングダンスの抑制を撹乱効果の指標として観察を行った。その結果、予想より低い処理量でもこれらの行動反応が高い率で抑制され、高い撹乱効果は得られた。32.4mg以上の高い処理量では撹乱剤の成分組成と関係なく各組成の撹乱剤が同様に高い撹乱効果が得られ、撹乱の行動学的機構は主に撹乱剤が雄の処女雌に対する定位飛行以前の行動を抑制することによるものである。しかし、処理量を下げると、撹乱効果が低下する度合いが撹乱剤の成分組成によって異なり、2成分、4成分および7成分は1成分の撹乱剤よりも高い撹乱効果が得られた。この場合の撹乱の機構が撹乱剤と処女雌とが雄に対する誘引競合などが重要であることが分かった。

2)室内二重風洞における交信撹乱効果:

 野外風洞を用いた実験では低い処理量でも撹乱効果が得られ、行動学的には主に雄の処女雌に対する定位飛行以前の行動段階を阻害することが分かったうえ、野外で毎回同じの実験条件を得るのは不可能である。そこで室内風洞の中に小型風洞(二重風洞)を設置し、小型風洞内部に雄を入れ、撹乱剤の雄の処女雌に対する遠距離行動反応である歩行と飛び立ちなど行動の活性化の抑制を撹乱効果として検討した。その結果、1)と同様、これらの遠距離行動反応の抑制効果を指標とした撹乱効果も高い処理量では撹乱剤の成分組成と関係なく高かった。しかし、やはり低い処理量では撹乱剤の成分組成によって異なり、2成分と4成分は1成分よりも高い効果が得られた。

 さらに、同様の二重風洞を用いて高い撹乱効果を示した処理量での交尾阻害効果を調べたが、以上の撹乱効果には交尾阻害効果がないことが分かった。

 以上要する、室内二重風洞実験の結果からも、本種の交信撹乱法では交尾を阻害するより、雄の処女雌に対する遠距離行動反応である歩行と飛び立ちなど行動の活性化を抑制すること戦略が重要であることが示唆された。

3.撹乱効果の機構(1)馴化の評価:

 最初、高い処理量の1成分、2成分、4成分および7成分のゴムセプタムの撹乱製剤を、それぞれプラスチックの丸容器に雄を入れたケージとともに密封して3時間の前処理を行った。処理終了後5〜30分の間に、雄の処女雌に対する行動反応の低下を調べたが、いずれの組成も前処理による馴化効果(雄の中枢神経レベルでの反応性低下)が見られたものの、明かな効果ではなかった。そして、高い行動抑制効果を示した撹乱剤量と二重風洞条件で、2の2)の撹乱処理と同様の前処理を行い、処理終了後一定時間(5分間〜24時間)、雄の行動反応性の回復のにぶりを調べた。その結果、この方法では処理終了5分後、いずれの組成と処理量でも非常に高い馴化効果が認められた。しかし、処理を終了した30分後、馴化効果が撹乱剤の成分組成によって異なり、1成分では馴化がまったく見られなかったのに対して、2成分と4成分では2時間後でも雄の反応性がぜんぜん回復できず、非常に高い馴化効果が見られた。

(2)順応効果:

 実際の交信撹乱の場面を想定し、連続または反復した撹乱剤の刺激による感覚順応、すなわち雄のフェロモン受容器官である触角での反応性の低下を、触角電図(EAG)法を用いて調べた。その結果、高濃度の撹乱剤が含まれる空気を連続的な撹乱剤としてを触角に吹き続ける場合は非常に高い感覚順応を引き起こしたが、刺激の量を下げると順応効果が速やかになくなった。反復した刺激に対しては強いEAG反応を示した0.1〜10ugの範囲では、撹乱剤の処理量と関係なく1秒と5秒間隔の反復刺激は感覚順応を引き起こしたが、10秒以上間隔の反復刺激では感覚順応が認められなかった。これらの結果から、本種の順応を引き起こすには、高濃度の連続的な撹乱剤、または、5秒以上間隔の反復刺激を雄の触角に与え続ければならなく、本種の交信撹乱においては順応が起こりにくいことが示された。

4.交信撹乱の適用しやすさと感覚順応の種間比較

 以上に示したタバコガの感覚順応を、オオタバコガ、それに交信撹乱法がすでに成功しているシロイチモンジの2種と比較した。その結果、同処理量の撹乱剤では反復、または連続的な刺激のいずれの処理においても、シロイチモジの方がタバコガおよびオオタバコガより有意に順応の程度が大きく、順応からの回復も遅いことが分かった。また、同処理量の連続的な刺激ではタバコガの方がオオタバコガよりもEAG測定される順応が起こりにくいことが示された。これらの種間比較からも、交信撹乱の最も重要な機構の一つである感覚順応が、シロイチモンジ、オオタバコガ、タバコガの順に起こりやすく、この結果はシロイチモジとタバコガの野外における交信撹乱法の適用しやすさと関連あるように考えられる。

5.まとめ

 本研究では、風洞を用いたタバコガの交信撹乱評価システムを確立し、このシステムにおいて低い処理量でも高い撹乱効果が得られ、撹乱効果およびその機構が撹乱剤の組成によって異なることが分かった。また、本種の交信撹乱における撹乱剤の重要な働きは、雄の定位飛行以前の活動を抑制することであり、その原因の一つは、撹乱剤の刺激による雄の中枢神経での反応性の低下と思われる馴化効果である。なお、馴化効果も撹乱剤の成分組成によって異なり、1成分の馴化効果がより低いことが施設栽培で行われてきた交信撹乱防除の難しさに関連あると考えられる。さらに、交信撹乱のもう一つの重要な機構と考えられる感覚順応の生じやすさは、昆虫種によって異なり、タバコガでは順応が起こりにくかったという結果は、本種における交信撹乱法の実用化が困難であることと関連あると思われる。

審査要旨

 タバコガ(Helicoverpa assulta)は交信攪乱による防除が困難であり、これを成功に導くには攪乱機構の解明が不可欠である。本研究では本種の交信攪乱機構を行動生理学的および電気生理学的に追求し、交信攪乱が困難である原因および交信攪乱法適用の条件を検討した。さらに交信攪乱防除に成功した種との間で比較を行い、交信攪乱法の適用の難易に関連する生理学的性質を考察した。

1.性フェロモンに対するタバコガ雄成虫の行動的および電気生理的反応

 性フェロモンに対する雄の行動反応を室内風洞を用いて調べたところ、雄は、遠距離、近距離いずれの行動反応も明瞭に示し、これらの反応を指標としたバイオアッセイが可能であった。反応が強く現われる羽化後日齢、暗期開始後の時間などの条件を検討した。

 雌から同定されている7成分(2種の主成分、2種の微量成分と3種の関連成分)の行動活性を調べた。主成分単独(1成分)では活性がなかったが、2種の主成分の混合物(2成分)にはフェロモン活性が認められた。これに微量成分や関連成分を加えても活性に明瞭な差はなかった。しかし、歩行距離を指標とする新しいバイオアッセイ法(Free Flight Treadmill法)により微量成分の行動活性が検出された。

 行動活性をもたない成分も電気生理的活性があれば交信攪乱作用を示す可能性があるので、上記7成分をEAG(触角電図)法で調べた結果いずれも活性が示された。そこで交信攪乱実験には1成分、2成分、4成分、7成分の4種の攪乱剤を用いた。

2.風洞を用いた交信攪乱効果の評価

 高濃度の攪乱剤による汚染を防ぐため野外に設置した風洞を用いて、攪乱処理条件下での雄の行動反応を調べた。その結果、攪乱剤の成分組成と関係なく遠距離行動反応の抑制による高い攪乱効果が示された。しかし、低濃度では2成分、4成分、7成分の攪乱効果が明らかに1成分よりも高かった。さらに、低濃度の攪乱剤を用いて室内二重風洞で調べたところ、遠距離行動反応を抑制する効果は上と同様、2成分、4成分が1成分より高かった。なお、高い攪乱効果を示した処理濃度でも交尾阻害効果は認められなかった。

3.交信攪乱機構としての順応と馴化

 交信攪乱効果を得るのに重要な遠距離行動反応の抑制には、攪乱剤により性フェロモン感受性の低下が生じる必要がある。これには感覚器における「順応」と、中枢における「馴化」が想定されたので、まず順応を触角電図(EAG)法を用いて調べたところ、順応は生じるが回復が早いこと、また、攪乱剤の組成は順応の程度に影響しないことがわかった。つぎに、馴化を二重風洞で攪乱処理後に所定の回復時間を与えた雄の行動反応で調べたところ、馴化を起こす効果は2成分と4成分が明らかに1成分よりも高かった。

4.交信攪乱の適用しやすさと順応の種間比較

 タバコガと交信攪乱法が成功しているシロイチモジヨトウの2種間で順応を比較したところ、シロイチモジヨトウの方がより順応を生じやすく、しかもより回復が遅かった。この結果と交信攪乱法の適用しやすさの関連性が示唆された。

 本研究ではタバコガを用いて行動学的および電気生理学的手法による交信攪乱効果の評価システムを確立した。このシステムにより攪乱効果および攪乱機構が攪乱剤の組成によって異なること、交信攪乱には雄の遠距離行動反応の抑制が重要であることなど、重要な知見が得られた。遠距離行動反応の抑制には順応や馴化により性フェロモン感受性が低下することが重要であるが、タバコガでは順応が生じにくく、これが本種に交信攪乱法の適用を困難にしている一因と考察した。本研究で確立したシステムに準じれば、交信攪乱法の合理的適用拡大につながることが期待される。

 本論文は性フェロモンによる害虫制御の進展に有用な方策を示すとともに、学術的にも多くの生理学的知見を与えるものであり、よって、審査員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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