学位論文要旨



No 112961
著者(漢字) 中田,光紀
著者(英字)
著者(カナ) ナカタ,アキノリ
標題(和) 心理的ストレスが動物とヒトの免疫系におよぼす影響
標題(洋) Immunological effects of psychological stress in animals and humans.
報告番号 112961
報告番号 甲12961
学位授与日 1997.09.10
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1241号
研究科 医学系研究科
専攻 社会医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 久保木,富房
 東京大学 教授 栗田,廣
 東京大学 教授 谷口,維紹
 東京大学 助教授 草間,朋子
 東京大学 助教授 真鍋,重夫
内容要旨 I.はじめに

 近年、各種のストレスが生体の免疫系に及ぼす影響に関する研究が報告されるようになった。しかし、いかなる条件下のストレッサーが免疫能の低下を導くかは十分に明らかにされていない。この条件を明らかにするためにこれまでに1)ストッレサーへのコントロール可能性と2)ストレッサーへの暴露期間(慢性か急性)が免疫系に及ぼす影響が研究されてきた。1)では、ストレッサーに対して自らの学習で回避または逃避できるか、あるいはストレッサーを軽減することができるかという対処行動を持つことが可能(コントロール可能)な場合では、対処行動を持たない(コントロール不可能)動物よりも免疫学的に異なる反応を示すことが報告されている。例えば、末梢血中のT細胞のリンパ球幼若化反応、脾NK細胞活性ならびに移植腫瘍に対する拒絶率などの低下がコントロール不可能群でのみ認められる。ヒトを対象とした実験でも末梢血NK細胞活性の低下がコントロール不可能群でのみ報告されている。しかし、これらの研究は再現性に乏しいため、この心理的条件の差を明確に特定できる免疫指標が必要となった。2)では、生体がたとえ同じストレッサーを負荷されても、その暴露期間によって免疫反応が異なることが報告されている。例えば、ヒトに急性ストレスを負荷した場合、末梢血中のCD4陽性T細胞とCD8陽性T細胞の比(CD4+/CD8+T細胞比)が低下するが、慢性ストレス時には上昇することが報告されている。逆に、急性時にはNK細胞活性の上昇が認められるが、慢性時にはNK細胞活性の変化は起こらないと報告されている。以上二つの観点から、急性および慢性の心理的ストレッサーがコントロール可能または不可能状況において免疫系にどの様な影響を及ぼすかを検討することが必要であると考えられた。

 一方、職場における心理的ストレス度を測定する目的で、欧米ではKarasek(1979)が仕事の要求(仕事の量的負担等)、仕事のコントロール(仕事の進め方の裁量権、意志決定への参加等)および職場の人間関係(上司および同僚からの支援)の3要因の組合せによって従業員の心理的ストレスが決定されるとするいわゆるKarasekモデルを提唱している。同モデルは、米国およびスウェーデンにおいて身体疾患(高血圧、心疾患、感染症等)および精神疾患(うつ病およびアルコール依存症)の優れた予測因子となることが検証され、高い評価を受けている。最近、上記のストレスモデルをもとに開発された質問紙を用いて職場におけるストレスに対するコントロール可能性が免疫系に及ぼす影響が報告されている。例えば、職場での仕事の要求度が高くコントロール度が低い場合では、血清IgG値の上昇が認められる。また、仕事の要求度およびコントロール度と末梢血CD4+T細胞数との間で有意な正の相関関係があることが報告されている。しかし、これらの研究では年齢、喫煙習慣、薬物使用の有無などの交絡因子の影響を考慮していないことおよびほとんどが欧米の男性勤労者を対象としたもので、欧米以外の文化圏での報告は見られないことなどの理由により、さらなる検討が必要と考えられた。

 本研究では、ラットにコントロール不可能または可能な急性の電撃ストレッサーを負荷した際の末梢血、脾臓および胸腺のTリンパ球分画(CD4,CD8およびCD25)の変化と職場における慢性の心理的ストレスに対するコントロール可能性がヒトの細胞性(T,BおよびNK細胞分画)および液性(血清免疫グロブリンG,A,M,DおよびE)免疫におよぼす影響を同上の職業性ストレスモデルに基づいた質問紙を用いて横断研究により検討した。

II.対象と方法1.ラットを対象とした実験

 8週齢のSprague-Dawley系雄ラット48匹を以下の3群に分け、各群より1匹取り出し3匹ずつ計16回実験を行った。1)コントロール可能群:拘束箱内の前方に垂れ下がる円盤状のレバーを引くことで電撃を停止することができる条件下で60秒間持続する電撃パルスショックを計100回(1.0mA,1.3mA,1.6mA,1.9mA,2.2mAを各20回ずつ)30秒間隔で与えた。2)コントロール不可能群:コントロール可能群と同時に電撃を与えかつコントロール可能群がレバーを引いた場合のみ電撃を停止させた。3)対照群:電撃を受けずにコントロール不可能および可能群と同じ時間だけ拘束箱に入れた。これら拘束箱に入れられた3群のラットをさらに別々の防音箱に入れ、互いの鳴き声、臭い、様子などを知ることはできないようにした(トリアディックデザイン)。また、コントロール可能群では電撃刺激を受けた回数と電撃刺激後ディスクを引くまでの反応時間を調べた。以上の電撃ショック負荷の24時間後に、さらに0.6mAの電撃をすべてのラットに5秒間5回与えた。その直後にラットをエーテル麻酔し、胸腺および脾臓からリンパ球を採取した。また、後大静脈から2K-EDTA加採血した。リンパ球ならびに静脈血をレーザー光線によって励起光を発する色素fluorescein isothiocyanateを結合させた抗ラットモノクローナル抗体と共にインキュベートした。その後、溶血剤により赤血球を溶血し、残った白血球成分をリン酸緩衡生理食塩水により洗浄後、フローサイトメーター(FACScan,Becton Dickinson社製)によりクラスII主要組織適合抗原(MHC)を認識するCD4+TおよびクラスI MHCを認識するCD8+T細胞のリンパ球総数に対する割合(%)を求めた。末梢血単位体積当り(細胞数/mm3)の白血球数は自動血球計数装置F-800(東亜医用電子社製)により測定した。統計解析は、一元配置の分散分析を用いた。

2.ヒトを対象とした実験

 某企業(従業員数約800人)の勤務者の40歳未満の男子の電気技術者を各部署から無作為に10〜15人ずつ、合計124人を抽出した。これらのうち、免疫学的検討に影響を及ぼす可能性のある感冒症状ならびに下痢等の身体症状を有した者、ステロイド等の薬剤投与中の者、および質問票に無記入の者(計8人)を除く116人を解析の対象とした。なお、交代勤務者はいなかった。

 Karasek(1985)のJob Content Questionnaire(日本語版、川上ほか、1992)により、仕事の要求度、仕事のコントロール度、社会的支援度を調べた。またストレイン指数(要求度得点とコントロール得点の比)を算出した。ストレイン指数を平均値で二分し、高ストレイン群(ストレイン指数が平均値以上、年齢24-38,平均31歳,n=41)と低ストレス群(ストレイン指数が平均値以上が平均値未満、年齢20-39,平均31歳,n=75)との間でT、BおよびNK細胞分画数ならびに血清免疫グロブリンG,A,M,DおよびE値を年齢および一日の喫煙本数を共変量とした共分散分析により比較した。さらに、各ストレス尺度およびストレイン指数と各リンパ球分画および血清免疫グロブリン値との間で年齢および一日の喫煙本数を調整した偏相関係数を計算した。

 対象者の静脈血を午前11時から12時の間に採取し、二重免疫染色法により総リンパ球に対する上記の各リンパ球分画の百分率を測定した。末梢血中のリンパ球数は自動血球計算機(SV-VI,Coulter社)で算出し、その値と各リンパ球分画の百分率との積から各リンパ球分画数(細胞数/mm3)を算出した。血清IgG、IgAおよびIgM値は免疫比濁法(日立自動分析装置7150)で、IgE値は蛍光酵素免疫測定法(ファルマシアキャップラージシステム)で、またIgD値はネフェロメトリー法(Behring Nepherometer Analyzer)で測定した。

III.結果1.ラットの末梢血、脾臓および胸腺のTリンパ球分画への影響

 コントロール不可能群では、対照群よりCD4+T細胞率が末梢血および脾臓で有意に低く、CD8+T細胞率が胸腺で対照群より有意に高かった。コントロール可能群の脾臓および胸腺のCD4+T細胞率は対照群よりも有意に低かった。同様に、コントロール不可能群のCD4+/CD8+T細胞比は、脾臓および胸腺で対照群よりも有意に低く、コントロール可能群の胸腺のCD4+/CD8+T細胞比より有意に低かった。また、コントロール可能群のCD4+/CD8+T細胞比は、脾臓で対照群よりも有意に低かった。さらに、コントロール不可能群および可能群の末梢血白血球数は対照群より有意に低かった。コントロール可能群では電撃に対する平均反応時間(秒)と電撃負荷回数との間に有意な相関関係が認められた(スペアマンの順位相関係数の99%信頼区間は-0.456から-0.238)。

2.ヒトの末梢血中のリンパ球分画および免疫グロブリンへの影響

 高ストレイン群は、低ストレイン群よりCD3+,CD4+,CD4+CD29+,CD4+CD45RO+,CD4+CD45RA+およびCD8bright+CD11a-T細胞数が有意に低く、血清IgG値は有意に高かった。また、ストレイン指数と血清IgGならびにIgM値との間で有意な正の相関、CD57+CD16+NK細胞数との間で有意な負の相関が認められた。さらに、仕事の要求度とCD57+CD16+NK細胞数との間で有意な負の相関、社会的支援度とCD8+T細胞数との間で有意な正の相関が認められた。

IV.考察

 本研究では、1)電撃ストレスを制御・処理する対処学習の機会を与えられなかったコントロール不可能群では新たな電撃ショック時に、末梢血および脾臓でCD4+T細胞率の低下および胸腺でCD8+T細胞率の上昇が観察された。一方、対処学習の機会を与えられたコントロール可能群はストレスの回避が可能であったために対処不可能群ほど強い変化は観察されなかった。2)職場での仕事のストレインが高いことすなわち仕事に対するコントロールの可能性が低い場合T細胞分画数の低下と血清IgG値の上昇が認められた。また、ストレイン指数と血清IgG値の間に有意な相関関係があることから、血清IgG値は慢性ストレスと密接に関連していることが示唆された。以上の二つ結果を合わせると、負荷されたストレッサーに対してコントロールの可能性が低いか無い場合では、コントロールの可能性が高いかある場合に比べて細胞性免疫系の低下と液性免疫系の上昇の変動が大きいことが明らかとなった。また、これらの変化は急性および慢性ストレス状況下でも共通して認められる現象であることも示唆された。

V.結論

 急性および慢性の心理的ストレスにより細胞性免疫が抑制されることが動物およびヒトで示唆された。逆に、慢性の心理的ストレスは液性免疫を活性化することがヒトで明らかとなった。これらの変化はストレスがコントロール可能な場合よりも不可能な場合の方が顕著であった。また、細胞性免疫ではCD4+T細胞分画が、液性免疫では血清IgGが心理的ストレスに対して鋭敏であることが示された。

審査要旨

 本研究は心理的ストレスへのコントロール可能性の有無が動物とヒトの免疫系におよぼす影響を明らかにするため、ラットへ急性の電撃ストレスとヒトへの職業性の慢性ストレスを負荷した際のリンパ球分画と血清免疫グロブリンの変化を検討したものであり、下記の結果を得ている。

 1.急性のコントロール不可能電撃を負荷されたラットでは、対照群と比べCD4陽性T細胞率(CD4+T細胞率)の低下(末梢血と脾臓)とCD8+T細胞率の上昇(胸腺)が観察された。コントロール可能ラットでは、脾臓でのみCD4+T細胞率の低下が観察された。その結果、コントロール不可能ラットでは、CD4+/CD8+T細胞比の低下が脾臓と胸腺の両者で認められたがコントロール可能ラットでは、脾臓でのみ認められた。また、末梢血白血球数は、コントロール不可能および可能ラットの両者で対照群より低下していた。以上の結果から、コントロール不可能状況では可能状況よりもCD4+T細胞率の低下やCD8+T細胞率の上昇等のリンパ球分画の変動が顕著であることが示された。

 2.職業性の慢性ストレス状況下で仕事上のコントロールの可能性のなさは、末梢血中のCD3+、CD4+、CD4+CD29+、CD4+CD45RO+、CD4+CD45RA+およびCD8bright+CD11a-T細胞数を低下させ、血清IgG値を上昇させることが明らかとなった。また、仕事の要求度(仕事の量的負担等)と仕事のコントロール(仕事の進め方の裁量権、意志決定への参加等)の比よりなるストレイン指数と血清IgGならびにIgM値との間で正の相関、CD57+CDl6+NK細胞数との間で負の相関が認められた。さらに、仕事の要求度とCD57+CDl6+NK細胞数との間で負の相関、社会的支援度とCD8+T細胞数との間で正の相関が認められた。以上の結果より、仕事上のコントロールの可能性のなさは細胞性免疫の低下と液性免疫の上昇をもたらすことが示された。

 以上、本論文は心理的ストレスにより細胞性免疫が抑制されることを動物およびヒトで明らかにした。逆に、慢性の心理的ストレスは液性免疫を活性化することをヒトで明らかにした。これらの変化はストレスがコントロール可能な場合よりも不可能な場合の方が顕著であることまた、急性および慢性ストレス状況下でも共通して認められる現象であることを示した。さらに、細胞性免疫ではCD4+T細胞分画が、液性免疫では血清IgGが心理的ストレスに対して鋭敏であることを明らかにした。以上、本研究は今まで十分に明らかにされていなかった心理的ストレスに対する免疫系の変化とその受けとめ方によって修飾が異なることを明らかにしたことから、学位の授与に値するものと考えられる。

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