学位論文要旨



No 112963
著者(漢字) 澤井,和彦
著者(英字)
著者(カナ) サワイ,カズヒコ
標題(和) 覚醒水準が最大筋力に与える影響に関する実験的研究
標題(洋)
報告番号 112963
報告番号 甲12963
学位授与日 1997.09.17
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第56号
研究科 教育学研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 武藤,芳照
 東京大学 教授 矢野,英雄
 東京大学 教授 中田,基昭
 東京大学 助教授 苅谷,剛彦
 東京大学 助教授 山本,義春
内容要旨

 毎年、全国の青少年を対象に行われる文部省体力テストの握力・背筋力測定の結果によれば、子どもの筋力は特にその体格の向上に比較して明らかに低下している。しかし、筋力測定において、筋力発揮を規定している子どもの「努力水準」に関する検討が不十分であるため、今日の子どもの筋力低下が何に起因するものであるのかは全く明らかではない。最大筋力の測定は、測定が被検者の「最大努力」によって行われるということと、その最大努力の水準は常に一定であるという前提のもとに行われている。しかし、実際には同一被検者であっても、筋力測定の結果は時期によってかなり変化するものであり、これはその時々の最大努力の水準に差があることが大きな原因であると考えられる。最大筋力発揮のような、脳神経系の高い興奮(活動)水準が要求される身体運動で、その「努力の程度を」規定している神経過程として最も重要であると考えられているのが、「動機づけ」と「覚醒水準」である。これらは環境的、生活的な要因によって左右されることから、特に生活環境、生活習慣の激変した現代において、子どもの筋力測定に影響している可能性がある。したがって、覚醒水準と最大筋力の関係を実験的、定量的に検討していかなければ、筋力測定の結果を有効に分析し、活用していくことはできない。

 本論文では、睡眠から覚醒した直後という著しく覚醒水準の低下した条件下で、最大筋力、特に子どもに限らず筋力測定として最も一般的な握力を測定し、その変動を定量化することで覚醒水準が最大筋力に与える影響について、検討していくことを目的とした。睡眠から覚醒した直後では、われわれは著しい意識レベル(覚醒水準)の低下と、特に手の掌握運動に無力感を感じている。このようにきわめて特徴的な主観的感覚は、筋力を測るという視点で見た場合、無視できないものであると考えるが、このような条件で最大筋力を測定した例はこれまでにないことから、覚醒水準と身体運動の関係を論ずるうえで有用な証拠を与えるものと期待される。

 本研究は次の2つの実験から構成されていた。

1)睡眠実験(Sleep experiment)

 睡眠実験は次の3つの試行から構成されている。

 (1)睡眠前の通常覚醒時における最大随意筋力の測定(MVC before sleep;BS)

 (2)睡眠からの覚醒直後における最大随意筋力の測定(MVC immediately after sleep;IAS)被検者を睡眠させた後、検者は別の部屋でテレメトリーによって脳波と眼球運動を監視し、被検者の睡眠が徐波睡眠(immediately after slow wave sleep;IAsws)あるいはREM睡眠(immediately after REM sleep;IAREM)に入ったのち、静かにかつ速やかに覚醒させて握力を測定した。

 (3)睡眠後の最大随意筋力の測定(MVC after sleep;AS)

2)覚醒実験(Awake experiment)

 睡眠実験のコントロール実験として、夜間に被検者を継続的に覚醒させておき、睡眠実験時と同じ時間帯に握力を測定した。

 測定データから、最大筋力、主働筋の筋放電量(iEMG)、平均パワー周波数(MPF)を算出した。

 本研究に参加した被検者はいずれも体育学専攻の男子学生であり、運動経験も豊富で本研究のような最大筋力の測定にも慣れていた。さらに、実験後の被検者の報告によれば、睡眠から覚醒した直後の測定についてはよく記憶しており、全員が全力を出したと答えていた。しかしながら、このような被検者においても、睡眠から覚醒した直後では握力がいずれも著しく低下していた。その低下率は平均で70%前後であり、中には50%以下に低下した者もみられた(図2-10)。

図2-10睡眠からの覚醒直後における握力図2-11握力発揮時の前腕の筋活動

 このとき、覚醒実験で測定された握力との差は明らかであるから、こうした握力の著しい低下は睡眠から覚醒した直後という条件に依存した現象と考えられた。一方、肘屈曲筋力も覚醒直後の測定で最大筋力の低下がみられたが、その低下率は握力ほどではなく、覚醒直後における覚醒水準低下の影響は、握力ほど強くなかったものと考えられる。

 われわれは睡眠から覚醒した直後では著しい眠気や倦怠感があり、特に手の掌握動作において無力感を感じているが、このような条件下では握力が著しく低下するということが、本実験によって初めて定量的に示されたといえる。また、肘屈曲筋力にみられたように、こうした現象は握力に限らず、他の四肢筋においても起こりうるものと考えられた

 一方、前腕の筋である橈側手根伸筋(CR)では、握力の低下に相関した筋放電量の減少がみられた(図2-11)。また、肘屈曲筋力でも、主働筋の筋放電量が筋力と相関して顕著に減少していた。表面筋電図は運動ニューロンの活動を表しており、そのiEMGは中枢神経系の興奮性の指標と考えられている。したがって、睡眠から覚醒した直後では、中枢神経系の興奮入力の減少によって最大筋力が低下したもの考えられる。

 また、睡眠から覚醒した直後における握力測定直前の脳波の各周波数帯域のパワーを算出すると、波と波という基本律動のパワーが明らかに低下していた。

 これらは睡眠から覚醒した直後において、脳の興奮性(活動)が低下していることを示している。波の減衰は、臨床的にも入眠気などにみられ、覚醒水準の低下を示すものと考えられている。さらに、覚醒実験においても経時的に波、波のパワーが低下しており、これは覚醒実験の後半にみられる強度の眠気や倦怠感といった被検者の主観的な感覚とも一致する(図4-3)。これはまた、覚醒実験でみられた筋力(握力・背筋力)や筋放電量の低下とも一致している。したがって、これらの結果を眺めてみると、本研究で睡眠から覚醒した直後に筋力を低下させた中枢神経系の働きは、こうした脳活動の覚醒水準に起因するものであることが強く示唆される。

図4-3筋力覚醒直前の騒波の周波数成分にみられる変動

 以上の実験結果から、ヒトの最大筋力は、睡眠から覚醒した直後のような覚醒水準の著し低下した状態では30%前後は低下するものであり、特に握力ではその影響が大きい。また、筋放電量の減少にみられる中枢神経系の興奮性の低下による筋力低下は、脳の活動に由来する神経過程によって引き起こされるものと考えられる。

 現実には、睡眠から覚醒した直後に筋力を測定するということはあり得ないが、本実験において、特に握力で30%近い変動があったという実験的事実と、(1)測定の対象が子どもであるということ、(2)大規模調査である体力診断テストでは、検者による動機づけが常に適度に与えられているとは限らないこと、(3)視覚等への発揮筋力のフィードバックが与えられていないことから、体力診断テストにおける子どもの筋力測定では、覚醒水準の影響は無視できない要因になりうるものと考えられる。

 したがって、これまでの文部省体力診断テストの筋力測定についても子どもの覚醒水準などの環境、生活因子に配慮し研究、分析によって再検討する必要がある。また、これからの子どもの筋力測定およびその評価・分析については、単にその数値を比較するにとどまらず、その背景にある子どもの生活全体を見つめる視点でそのデータを利用し、教育に活用していく工夫が重要であると考える。

審査要旨

 ヒトの最大筋力は、構造的にあらかじめ決定されている生理的限界の範囲内において、心理学的限界が外的、内的な様々な要因に影響された結果、外部に表出されたものと考えられている。一般の筋力測定は、被検者の「最大努力」によって行われ、その「努力水準」は一定であるという前提の下で行われ、その値がそのヒトのからだの「最大筋力」とみなされている。

 しかし、ヒトの「最大努力」の水準は、その時のからだと心の状態や外的働きかけによってかなり変動するものであり、表出される筋力レベルもまた変化する。例えば、睡眠から目覚めた直後では「手に力が入らない」という感覚を自覚的に体験する。これは、覚醒水準が筋力発揮に関係することを示唆している。

 本論文は、この睡眠直後の「無力感」をモデルにして、日常生活で起こり得る範囲の覚醒水準の変化が、実際にヒトの筋力発揮の「努力水準」と筋力レベルに影響するかどうかを実験的・定量的に検証しようと試みたものである。

 実験は、1)睡眠実験と2)覚醒実験とからなる。1)では被検者(成人男子9名)を、脳波と睡眠段階をモニターしながら夜間に睡眠させ、徐波睡眠あるいはレム睡眠時に強制的に覚醒させて、直後の筋力と主働筋の筋放電量を測定した。2)では、夜間に被検者(成人男子4名)を継続的に覚醒させておき、1)と同様の手順により同じ時間帯に測定した。

 その結果、(1)睡眠から覚醒した直後では、最大筋力が著しく低下すること、(2)このとき主働筋の筋放電量の減少を伴うこと、(3)その低下は握力(約67%)と通常は「無力感」を伴わない肘屈曲筋力(約82%)共にみられるが、前者において大きいことが明らかにされた。これにより、睡眠から覚醒した直後では中枢神経系からの興奮入力の減少によってヒトの最大筋力が著しく低下することを示し、覚醒水準がヒトの筋力発揮レベルに影響することを実証した。

 本論文では、睡眠直後の無力感と筋力発揮との関係を初めて定量的に示した。このことにより、日常生活に起こりうる範囲の覚醒水準の変化が筋力発揮レベルに影響するという、日常体験するからだの主観的現象の生理学的機構を明らかにするための方向性を示したことに、本論文の独自性がある。

 また、ヒトのからだの特性を知るために行われる筋力測定に際しては、覚醒水準等の内的要因を考慮することの重要性を示しており、体育科学及び教育学に貢献する基礎資料を提示した。

 以上より、本論文は博士(教育学)の学位論文として十分優れたものであると判断された。

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