本論文は、アメリカ建国13州のひとつマサチューセッツにおいて、宗教公定制がどのように確立され変遷したかの分析・解明を通じて、今日我々が政教分離を語る場合の原理的視座を確立しようとした研究である。日本の政教分離に関する憲法理論は、アメリカの議論に大きな影響を受けているが、その意味を正しく評価するには、アメリカの政教分離原則が歴史上いかなる内容として確立されたものなのかを正しく理解する必要があるのは言うまでもない。著者は、まず最初、序章において、そのアメリカの理論を理解するためには、連邦ではなく州のレベルの政教分離原則が歴史上いかなるものとして確立されたかを知ることが不可欠であると論じる。すなわち、政教分離に関するアメリカの現代法理論は、最高裁が1947年のエヴァソン(Everson)判決で設定した枠組みの延長上で展開されているが、この判決は、一方で、合衆国憲法修正一条の「公定制条項」(国教樹立禁止条項)の規範的意味を制憲者意思を援用するという「歴史的方法」によって解釈し、他方で、かくして導き出された規範内容を修正十四条を通じて州に適用するという理論構成をとった。しかし、公定制条項の成立史を詳しく検討してみると、この条項が意図したのは、エヴァソン事件で問題となった、私立学校への通学費を援助することが許されるかどうかといった論点とはまったく別の次元の問題であったことがわかる。そもそもアメリカ合衆国憲法の制定に際しては、宗教との関係をどのように定めるかの権限は州にあり、連邦にはないという理解が共有されていた。それを前提に、そのことをどう確保するかという観点から議論がなされ、その結果、連邦レベルでの公定制は各州が自己の権限に基づき採用した宗教秩序を脅かす危険をもちうるという理解に立って、それを禁止したのである。そうだとすれば、連邦レベルの権限がありうることを前提にしてはじめて生じる、どのような援助ならば許されるのかという論点に、この規定が答えるものではないことは明白である。にもかかわらず、エヴァソン判決は、それに答えるものと解釈することにより、公定制条項の解釈に際しての思考の型を、権限の存在を前提にその権限行使の方法を限定するという、本米州に妥当する思考の型に転換する意味をもったのである。その限りで、いわば州憲法が連邦憲法に「編入」されたということになる。アメリカの現代理論が、そのような「編入」の下に展開されているとすれば、各州におけるそれぞれの政教分離がいかなる内容のものとして成立したのかを把握しなければ、公定制条項の歴史的意味は理解しえないはずであろう。 このように各州における政教分離の成立史の研究が重要であることを論証した著者は、建国13州の中でマサチューセッツが重要な地位を占めていたこと、そこにおける政教分離が強靭な宗教公定制との対決を通じて確立されたことなどを理由に、最初の研究対象をマサチューセッツに設定する。マサチューセッツにおいて政教分離が成立するのは1833年のことであるが、植民から宗教公定制の確立を経て政教分離が成立するにいたる歴史過程は、著者によれば、後述の「1735年体制」の確立までとそれ以降の二つの時期に分けることができる。前半の特徴は、その歴史的展開が英本国からの圧力に規定されていたことにある。英国教会制の立場からは、植民地における会衆派の公定制はそのまま承認しうるものではなかったのである。しかし、英本国との軋轢は、1735年体制の確立により解消する。かくして、後半期においては、その歴史が純粋にアメリカの内部的要因を機軸に展開することになる。本論文は、研究時間の制約から、直接の考察対象をこの前半部分に限定し、植民から非分離派会衆制による宗教公定制の確立にいたる歴史過程(第I部)、および、その公定制が変容し1735年体制に至る歴史過程(第II部)の叙述と分析を行うものである。 第I部「一七世紀中葉の会衆派支配体制の確立」は、第一章「非分離派会衆派によるマサチューセッツ植民の遂行」、および、第二章「確立した会衆派支配体制のあり方とその特質」から構成されている。第一章は、マサチューセッツ植民に至る動機を、英国史の文脈で検討する。同植民地は、英国教会体制下の英本国において抑圧されていたピューリタンの一派である非分離派会衆派が、自己の信仰の自由の全き実践、すなわち会衆制に基づく宗教公定制の樹立を第一目的として、設立したものである。会衆派とは、聖書が要求する正しい教会制度のあり方は、主教制や長老制ではなく会衆制であるとする立場をいう。会衆制とは、教会の構成員資格を万人に認めるのではなく、「神により救いに選ばれた者のみによって教会は構成されるべきだ」と考え、かつ、そのような教会(会衆団体)は上部からの命令に服することのない自律的存在であるという基礎のうえに形成される教会制度である。他方、分離派とは、英国教会の行なう教会活動に参加するのを拒否し、自分たちで会衆団体を形成して独自の宗教実践を行なう者たちをいう。この立場は、「国王至上性」と「宗教的統一性」に反するとして、政府の弾圧を受けた。これに対し、非分離派とは、国王至上性と宗教的統一性を受け入れ、英国教会の内部にとどまりながら、改革を訴えた人々である。非分離派会衆派は、会衆制こそが聖書の求める正しい教会のあり方だとしながら、英国教会も本質的にはそのような体制を実現しているとして、教会内にとどまった。しかし、内部からの改革の展望を失い、新天地でそれを実現することを通じて、イギリスさらにはヨーロッパにも改革を及ぼしていくという戦略を選ぶことになる。 第二章は、植民開始からほぼ二〇年を経て確立される宗教公定制のあり方を描写する。著者は、この体制を確立した文書「ケンブリッジ綱領」および植民地初の成文法典「一六四八年の一般法典」の成立年にちなんで、これを「一六四八年体制」と呼ぶ。叙述は、会衆制を基礎とする教会の内部秩序を検討する第一節と、その教会と世俗政府の関係を扱う第二節に分けられている。まず、教会の内部秩序に関しては、教会員資格、個別教会内部の統治関係として長老と平信徒の関係、それと個別教会相互の関係に焦点が当てられる。地域住民をすべて教会員に包摂する英国教会や長老派と異なり、神に選ばれた者のみが教会員となるという立場にたつ会衆派にとり、教会員資格をどう決めるかは重要な問題となるし、また、教会員の平等原則の下では長老と平信徒の関係をどう説明するか、さらに、個別教会の独立を原則とする下で全体の統一性をどう確保するかは、重要な問題となるからである。ついで、教会と世俗政府の関係が分析される。会衆派の構想によれば、世俗政府は教会にある限度まで自律を認めながら、同時に正しい教会を保護して宗教的統一性を実現する役割を負っていた。そこで、国家の役割は、正統信仰に基づく教会秩序を作り出していくのを援助するという活動(その一つとして、宗教を支持するための課税がある)と、正統信仰に基づく教会秩序を脅かすものを規制する、とくに反対宗派を抑圧・排除するという活動として捉えられる。そのような役割を果たしえたのは、一方で、参政権が体制教会の教会員に限定されていたこと、他方で、当時は英国本国の介入を排除しうる状況が存在したことが重要な要因であったことが指摘される。そして、以上の分析を踏まえて、この体制は、教会制度として会衆制を採用し、世俗政府はその会衆制を規準とした「宗教的統一性」を実現すべく「周到に意欲的にかつ一貫して不寛容」であるような会衆派支配体制であったと特徴づけられる。 第II部「会衆派支配体制の変容」は、最盛期の宗教公定制が変容していく様子を三つの段階に分け、第三、四、五章の三章構成で叙述する。第三章「自治植民地時代」が扱うのは、会衆派支配体制の動揺を生み出す要因となった教会構成員資格の問題である。会衆制においては、教会は回心体験をもつ「見える聖徒」(神が自己を選びに予定したことを回心体験によって証だてることのできた者)により構成されるのであるが、この正会員の子どもは、未回心の間は聖餐や教会事項の決定に参与する資格はないものの、会員として洗礼などの特典に与る資格は認められ、成長とともに回心体験を得て正会員となっていくことが期待されていた。ところが、植民第二世代以降、幼児洗礼は受けたものの成人しても回心体験をもてない者が増大し、さらにはそのような未回心の成人の子どもも生まれてくるという、植民第―世代が予想しなかった事態が生じてきた。そこで、未回心の成人をどう扱うか、その子どもに洗礼を授けてもよいのかという問題に直面することになる。これに回答を与えようとしたのが、1662年の宗教会議であるが、そこでは、未回心の成人は正会員とはなれず、従来の資格のまま継続する(そのような者を「半途教会員」(half-way members)と呼んだ)が、その子どもについては、親が「契約をみずから保持する」誓い(彼らの親がなした教会契約を今度は彼らが自分自身で確認することを意味する)をたてれば、洗礼を授けてもよいとされた。この聖書解釈は、平信徒の抵抗にあい、すぐには受け入れられなかったが、75年以降の不穏な世相の中で信仰心が高揚するのを背景にして各教会に普及していくことになる。これは信仰の純粋性を維持しようという理念から信仰を周辺に拡大していこうという宣教の理念へと強調点が移動していくことを意味した。しかし、個別教会は独立性を有するので、この動きをどこまで受け入れるかは個別教会に委ねられ、教会員資格については個別教会ごとの多様化が進展することになる。 このように正統信仰の多様化が生じる中で、平行して出てきたのが洗礼派の問題であった。洗礼派とは、幼児洗礼を否定し成人洗礼のみを認める宗派である。半途契約が幼児洗礼の範囲を拡大する方向からの問題であったとすれば、洗礼派が提起したのは幼児洗礼を否定する方向からの問題であった。幼児洗礼をどの範囲に認めるかを個別教会に委ねるのなら、幼児洗礼を否定するかどうかも個別教会の決定に委ねてもよいはずだとの主張が、そこで提起されたのである。洗礼派は、体制教会の内部に留まることを欲し、弾圧と闘いながらついに「寛容」をかち取ることになる。しかし、体制教会を支えるための宗教課税には服せしめられたし、また、公民資格は体制教会の教会員でない彼らには認められなかったのである。 第四章「王領植民地化」においては、まず、これまでの非分離派会衆派体制の基礎となっていた1629年特許状が1684年に英本国により無効にされ、1691年に新特許状が授けられるに至る経緯が叙述され、次いで、新特許状の下で再構築される宗教公定制の特質が分析される。新特許状の特徴は、第一に、選挙権につき、財産を資格要件としたことである。これにより、正統信仰を有する者だけが公の政治に関与するという思想から、資産所有という形で社会に恒久的な利害を有するものが関与するという思想への変化が生じ、世俗政府の目的が脱・聖化された。第二に、カトリックを除くすべての宗派に「良心の自由」が保障された。アングリカン(英国教会派)やクエイカーも許容されなければならない。ただし、このことは、教会公定制が禁止されたことを意味するわけではない。特定の教会の公定制の下に、他宗派への「寛容」が要求されたのである。この変化に対応して新たな宗教公定制にとっての核心的課題となったのは、課税により公定教会(聖職者)を支持する法的仕組みの再構築であった。会衆派の教会公定制が維持されるためには、会衆派の聖職者のみが各タウン・教区の公定牧師となり、全住民からの課税によって支持される必要がある。しかし、教会側による聖職者の選定は、タウン・ミーティングによる同意を得なければならないが、そのタウン・ミーティングは、教会員以外を含む公民から成るのである。この前提の下に、会衆派の聖職者が常に公定牧師として選定・同意されることを保障するための宗教課税諸法が1692年から95年にかけて制定・整備される(1695年体制)が、その過程および解釈・運用のメカニズムが詳細に分析される。そして、それを踏まえて、世俗秩序の教会への関わり方が、会衆派の教義から反れる形で変化したことが指摘される。すなわち、本来、教会秩序は、第一次的には教会自身の手により、教会の論理にしたがって整序されるものであり、世俗政府は教会の力の及ばないところを整序するために、教会の自治を尊重しつつ教会の論理に従って関与するにすぎないとされていたのであり、したがって、世俗政府が自己の都合で、自己の論理にしたがって、教会を利用するために介入するということはなかった。ところが、新たな教会課税法の下では、教会のないタウンに対しても世俗権力を用いて公定牧師を設置・維持させるという政策をとっており、その正当化として「無神論、無宗教、および不敬の成長を阻止するため」と主張されたことから言えば、公定牧師をいわば世俗の公務員のごとく各タウンに設置することにより、人々に道徳性を涵養し、もって良き世俗秩序を保つという考えが出てきている、というのである。 第五章「宗教課税免除法」は、宗教課税法体制の下で主要な反対宗派に対する課税免除法が制定されていく過程を分析する。1695年体制は、クエイカー、洗礼派、アングリカンにとっては、会衆派を体制教会として押し付けられることを意味したので、これらの宗派は植民地内部で反対闘争を展開することになるが、同時に、英本国に働きかけて救済を求める運動も行う。英本国は、宗教課税法をあえて拒絶はしなかったが、英国教会が単に「寛容」されるだけで会衆派の下位におかれるこの体制を積極的に是認したわけでもなかった。そこで、反対宗派からの訴えを受けて英本国は、新特許状の下で留保した植民地への介入権限をてこに、植民地の体制派に対し圧力をかけることになる。これへの対応として、英本国も受け入れ得る法制の確立が必要と感じた体制派は、クエイカー、洗礼派、アングリカンそれぞれに対する個別の宗教課税免除法を制定して行く。かくして成立する体制を、著者は1735年体制と呼び、その特徴を1695年体制と比較しながら次のように指摘する。第一に、この体制は、1695年体制の基本構造は維持しつつ、三つの主要な反対宗派に課税免除を与えたものであるが、課税を免除された人々が宗教を支持するために献金する「義務」から解放されたわけではないということ。第二に、そこにおいて承認されることになった宗教的自由は、個人が宗教をもつももたないも自由という観念ではなく、特定の教団を支持する自由として観念されていたということ。第三に、そこでは「無宗教」と対比される「宗教」が会衆派以外の三宗派も包含することになったとはいえ、体制教会とそうでない宗派という格差は存在したということ。 以上の歴史的分析を踏まえて、著者は終章において、憲法学にとっての示唆に言及する。政教分離原則は、宗教公定制の否定として成立した。そのために、特に日本の議論では、信教の自由にとって宗教公定制のもつマイナス面のみが強調されてきた。しかし、本研究が明らかにしたマサチューセッツの歴史においては、宗教公定制は、信教の自由を求めた人々により信教の自由をより良く実現するものとして構想されていた。そうだとすれば、政教分離も宗教公定制も、ともに信教の自由を促進するための制度という性格を負わされている。違いは、そこで前提となっている信教の自由の観念なのである。一方は、「信じるも信じないも自由」という点に焦点を当て、国家に中立的な態度を要求している。他方は、「信じる自由」を強調し、宗教が健全に発展するために国家の積極的役割を期待している。そうすると、つきつめれば、宗教を人間および社会にとって積極的意義をもつ営為と認め、公共的問題としてその促進を図るべきなのかどうなのかという基本問題に直面することになろう。日本の憲法学は、この基本問題を回避してきたのではないか。著者は、こう問題提起をして、本論文を結んでいる。 本論文の長所として、次の点が挙げられる。第一に、政教分離に関するアメリカの現代理論が、その思考パターンの源流を州における政教分離にもっており、したがって、州において宗教公定制が克服されていった歴史の研究が重要であることを、合衆国憲法修正一条の国教樹立禁止条項制定史の分析を通じて解明したことである。この点は、従来の研究が、もっぱら修正一条の制憲者意思にリファーするアプローチを取ってきたことに対する重要な問題提起となっている。第二に、マサチューセッツにおける宗教公定制の確立と変容の過程を法的観点から包括的に分析・整序した研究は、内外にも見あたらず、本論文はこの領域の法制史研究として価値ある業績である。また、宗教公定制の内容、宗教課税法、課税免除法の分析に当たっては、当時の立法資料等を丹念に翻訳・紹介し、その無理のない解釈を基礎に議論を実証的に展開している点も評価される。第三に、対極的に理解されてきた政教分離と宗教公定制を、実はともに信教の自由を保護しようとするものであり、違いは信教の自由の捉え方にあるという指摘は、従来の日本の憲法学の盲点をつく重要なパースペクティヴを提供するものである。歴史学的な観点からすれば、宗教が「公共的」なものであって、著者の言う「信じるも信じないも自由」という状態は全くの例外に属するということは、前近代ヨーロッパに関する限り特に新しい認識ではないとはいえ、憲法理論の枠組の中でこのことをあらためて確認することは、独自の意味を有する。というのは、現代国家においては、何らかの形での「助成」なくしては宗教団体の存立は困難となってきており、国家が宗教および宗教団体とどう関わるべきかが、新たに問題となっているが、それを考える上で、本論文は、視野を近代における政教分離の成立以前の段階にまで拡大した歴史的パースペクティヴの下に問題を考察することの重要性に気づかせてくれるからである。 他方、本論文にも、次のような短所を指摘できる。第一に、歴史研究が公定制の廃止に至る時点にまで及ばず、その前半部分で終わっている点は、本研究が政教分離の成立史を最終的な目標とする以上、道半ばの感を否めない。後半部分まで扱うことができたなら、前半部分の研究だけでは得られない知見を得て、より一層広い視野からの分析が可能になったのではないかと想像すると、惜しまれる点である。第二に、著者は、教会秩序と世俗秩序の関係という点に焦点を当てるあまり、両秩序が明確に分離された近代的イメージに災いされて、植民地がもともと一種の「宗教国家」を建設することを目的としていたという点を見えにくくさせてしまったきらいがある。第三に、研究が制定法等の規範的資料の分析に偏り、それらの制定法等がその中に存在するところの様々な歴史的コンテクストへの目配りが多少おろそかになった感がある。特に、立法資料等の分析・意義づけを、ヨーロッパをも含めたキリスト教思想史の文脈全体を視野に入れて行うことができたならば、より深みのある研究となったのではないかと、惜しまれる。 しかし、以上に指摘した短所は、主としては望蜀に属し、本論文の価値を大きく損なうものではない。本論文は、わが国の政教分離の研究に新たな方向を提示し、その先鞭をつけたものであり、学界に多大の貢献をなすものと評価しうる。したがって、本論文は博士(法学)の学位にふさわしい内容と認められる。 |