学位論文要旨



No 112969
著者(漢字) 下坂,琢哉
著者(英字)
著者(カナ) シモサカ,タクヤ
標題(和) 新しい理論・手法に基づくレーザー蛍光法による非破壊深さ方向分析の研究
標題(洋)
報告番号 112969
報告番号 甲12969
学位授与日 1997.09.18
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3961号
研究科 工学系研究科
専攻 応用化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 澤田,嗣郎
 東京大学 教授 二瓶,好正
 東京大学 教授 山下,晃一
 東京大学 助教授 北森,武彦
 東京大学 助教授 樋口,精一郎
内容要旨

 高分子膜中での拡散の様子、生体膜中でのイオンなどの移動、電極界面でのイオンの挙動など、物質中の特定の化学種の挙動をありのままに追跡することは、物質化学の研究に極めて重要であり、非破壊・in situでnmの領域の深さ方向濃度分布を測定する要望が高まっている。角度依存レーザー蛍光法は、全反射条件下での光のしみこみ(エバネッセント波)を利用する非破壊濃度分布測定法の一つであり、1960年代に非破壊で深さ方向濃度分布測定が可能であることが、N.J.Harickらによって提案されている。約1/10波長程度のごく表面・界面近傍の濃度分布を選択的に測定できる方法であり、濃度分布型が既知の場合高い空間分解能を持ち、非破壊深さ方向分析法として非常に有望である。

 しかし、30年以上たった現在においても、未知の濃度分布型に対して濃度分布推定を行った例はなく、濃度分布推定がどこまで可能か理論的に必ずしも明らかにされていない。濃度分布型が既知の場合でも、原理的に、わずかな測定値の変化により推定される濃度分布が大きく変わり、測定値中の誤差の影響が問題となっている。また、測定時間については、従来の方法では角度を変えながら測定するため測定時間が長く、短時間で変化する系の動的な挙動を測定することは不可能であり、実際、数時間で濃度分布が変化する系に応用されるにとどまっている。

 そこで、本研究は、新しい理論手法に基づく測定法・データ処理法を提案し、全反射現象に基づくnm領域での物質中の化学種を非破壊でモニタリングする測定法の基礎を築くことを目的とする。まず第一に、濃度分布推定の理論的限界を明らかにする。第二に測定時間を短縮化するために、光ファイバを光学遅延路として用いた新たな同時多チャンネル測定系を開発した。第三に、測定値中の誤差をファジー理論におけるあいまいさと考え、誤差を定量的に取り扱う新たなデータ処理法を提案した。

 本論文は、第1章から第5章より構成されている。

 第1章は序論であり、本研究の背景および位置づけを述べた。

 第2章では、まず、相反原理を用い、試料が光の波長より薄い場合と、十分厚い場合の角度依存性と深さ方向濃度分布の関係式を導いた。この結果を用い、表面から濃度が減衰する誤差補関数型・直線型・ステップ型の代表的な3種類の濃度分布型から導かれる角度依存性を比較し、濃度分布型を角度依存性から識別可能かを検討した。次に、深さ方向濃度分布が既知の場合の深さ方向の分解能を検討した。

 蛍光強度の角度依存性は、相反原理、Fresnelの公式などから求めることができ、プリズムや試料の屈折率により決まる関数(透過関数)を核とした深さ方向濃度分布の積分変換の形になる。数学的には、逆積分変換を行うことにより深さ方向濃度分布が求まる。しかし、3種類の濃度分布についての角度依存性を比較すると、3種類の濃度分布型を識別するのに、約0.1%の測定の正確さ、任意の濃度分布型の場合はそれを上回る正確さが要求され、実際の測定の精度・正確度を考えると、現時点では任意の濃度分布を求めることは非常に困難である。これは、透過関数がエバネッセント光の減衰を表す項に主に支配されているためと推定した。1960年代より、同種の方法による多数の濃度分布測定例があるが、導いた理論式は一般的に適用できるので、この限界は方法論的限界であると結論した。

 しかし、濃度分布型が既知の場合、測定精度を5%として、表面からの分子種の平均距離を数nmで推定可能であり、位置特定に有力となることがわかった。これは、表面化学において重要な情報を与える。以下、有力な測定法に発展する可能性を第3章・第4章で検討した。

 第3章では、光ファイバを用いた新たな同時多チャンネル角度依存測定法について述べた。多チャンネル角度依存測定法は例がなく、いくつかの多チャンネル化の試案について検討した。その結果、以下に述べる方法が最も実現しやすく、その試作を行い測定法の妥当性・測定時間の限界について検討した。パルス幅80psのパルスYAGレーザーにより励起された蛍光は、各角度に固定された光ファイバに入る。光ファイバの長さはそれぞれ異なり、その分検出器に時間がずれて到達する。検出器の出力をデジタルオシロスコープにより時間分解・積算処理することで、それぞれの角度での蛍光強度を同時に測定する。個々の光ファイバからの信号は、光ファイバの断面の形状、光ファイバと光電子増倍管受光面との位置関係などにより感度が異なる。そこで、ローダミン水溶液を入れた試験管からの蛍光が等方的であることを利用し、角度依存データを補正した。

 濃度分布が既知である試料として、21層積層した蛍光色素とアラキジン酸の混合LB膜を用い、本測定法による実験値と理論値の比較を行った。理論値とだいたいよく一致しており、提案した方法が設計通りに機能することを確認した。測定時間は、4000回積算で約3分であった。従来の一点ずつの測定法での測定時間は約30分であり、本多チャンネル同時測定法により大きく時間を短縮化できた。

 本法の測定時間は、時間分解装置のサンプリング速度、レーザーの繰り返し発振周波数、検出器の応答速度、蛍光寿命により決まる。現在は、デジタルオシロスコープのサンプリング速度が律速段階であるが、入手可能なよりサンプリング速度の速い時間分解装置を用いれば1000回積算で約1秒まで短縮することができ、短時間に変化する動的な系の測定が可能となった。

 第4章では、ファジー理論を用いた新たなデータ処理法の提案を行った。濃度分布推定結果は、測定値中の誤差に敏感であり、誤差を定量的に評価して濃度分布推定を行う必要がある。従来のデータ処理法では誤差の影響を評価することは困難である。そこで、誤差をファジー理論におけるあいまいさと考え、ファジー理論により誤差を定量化するデータ処理法を提案した。

 まず、測定値の信頼性を定量的に表すためにファジー数を導入した。測定値の信頼性に平均値で最も大きく、そこから離れるほど小さな数値を割当てると、信頼性は測定値の上に凸な関数になる。この様に表した測定値をファジー数と呼ぶ。ファジー数の幅は測定値のばらつきの程度を表し、測定値の代表値とばらつきを同時に定量的に表す。ファジー数で表された測定値に対して、ニューラルネット=ファジー回帰法を用いて曲線回帰を行う。この方法は、ファジー数をある信頼性レベルで含み、かつその面積が最小となる領域を求める方法である。この領域は、上限曲線と下限曲線により決まり、これらの曲線をニューラルネットにより近似的に求めた。角度依存データから濃度分布を求め、そのときの濃度分布の推定範囲を、ニューラルネット=ファジー回帰法より推定した。膜厚を100nmとして、理論値に標準偏差が5%の正規分布型の誤差を加えたデータをシミュレーションにより作製した。深さ方向濃度分布は表面で濃度1、深さ100nmで0となる直線型とした。正規分布型のファジー数により誤差を定量化し、ニューラルネット=ファジー回帰法により得られた領域を用い濃度分布推定を行った。角度依存データが領域内に全て入るように直線型濃度分布の減衰率を変化させたところ、濃度が0となる深さが最小値80nm最大値120nmとなり、濃度分布の許容範囲を決めることができた。

 第2節では、ニューラルネット=ファジー回帰法が曲線での誤差の定量的評価に適していることを活かし、非線形な検量線に適用した。広範囲の濃度で光熱変換法により測定した免疫分析の実測値へ応用・展開し、得られる領域を「検量域」と定義して定量法に関する新しい概念を導出し、その意味・有用性について検討した。本研究で用いた免疫分析においては、濃度と信号強度の関係はシグモイド型曲線の関係にあり、測定値のばらつきは各濃度で異なる。検量域は免疫分析に特有なシグモイド型曲線を良く近似できている。各濃度での測定値のばらつきの変化に対応して検量域の幅が変化していることから、濃度・信号強度・推定値の信頼性の3者の関係を定量的に表していることが検証された。曲線における信頼区間を定量的に表現することは、従来の統計的手法では非常に困難である。また、今回導出した検量域は解析的な関数の形で表され、信号強度から容易に濃度およびある信頼性における誤差範囲を推定することができる。検量域の幅が狭いところほど推定値の誤差範囲は狭くなり、妥当な結果がえられた。回帰を行うときの信頼性レベルが、統計的回帰法における信頼区間の(1-)%に相当するものであることを、信頼性レベルを変化させたときの検量域の幅の変化から検証した。この信頼性レベルにより、必要とする推定値の信頼性を決めることができ、非線形な濃度分布推定の評価に有効であることが分かった。従来の統計的手法では、誤差が濃度分布推定に与える影響を評価することは困難であるが、このファジー回帰法を用いることにより、容易に評価できることを検証した。

 第5章においては、本研究を総括し、今後の展望について述べた。

 以上のように、本論文では、測定時間の問題、測定値中の誤差の影響の問題を解決し、全反射現象に基づいた、nmの領域での物質中の化学種を非破壊で追跡できる新たな方法の基礎を築いた。濃度分布推定の限界、分解能の評価を行い、本法での濃度分布推定の性質を明らかにし、測定値中の濃度分布推定への影響は、ファジー理論により定量的に評価した。新たな多チャンネル同時測定法を関発し測定時間を短縮化し、短時間で変化する系のモニタリングの可能性を示した。本方法は、様々な系での表面・界面のin situ測定の応用へ展開すると期待できる。

審査要旨

 高分子膜中での拡散の様子、生体膜中でのイオンなどの移動、電極界面でのイオンの挙動など、物質中の特定の化学種の挙動をありのままに追跡することは、物質化学の研究に極めて重要であり、非破壊・in situでnmの領域の深さ方向濃度分布を測定する要望が高まっている。角度依存レーザー蛍光法は、全反射条件下での光のしみこみ(エバネッセント波)を利用する非破壊濃度分布測定法の一つであり、1960年代に非破壊で深さ方向濃度分布測定が可能であることが、N.J.Harickらによって提案されている。約1/10波長程度のごく表面・界面近傍の濃度分布を選択的に測定できる方法と言われ、非破壊深さ方向分析法として非常に有望であると考えられてきた。

 濃度分布の関数型が既知の試料に対する測定は多くの報告があるが、しかし30年以上たった現在においても、未知の濃度分布型に対して濃度分布推定を行った例はなく、濃度分布推定がどこまで可能か理論的に必ずしも明らかにされていない。濃度分布型が既知の場合でも、原理的に、わずかな測定値の変化により推定される濃度分布が大きく変わり、測定値中の誤差の影響が問題となっている。また、測定時間については、従来の方法では角度を変えながら測定するため測定時間が長く、短時間で変化する系の動的な挙動を測定することは不可能であり、実際、数時間で濃度分布が変化する系に応用されるにとどまっている。

 そこで、本研究は、新しい理論手法に基づく測定法・データ処理法を提案し、全反射現象に基づくnm領域での物質中の化学種を非破壊でモニタリングする測定法の基礎を築くことを目的とする。まず第一に、濃度分布推定の理論的限界を明らかにする。第二に測定時間を短縮化するために、光ファイバを光学遅延路として用いた新たな多チャンネル同時測定系を開発した。第三に、測定値中の誤差をファジー理論におけるあいまいさと考え、誤差を定量的に取り扱う新たなデータ処理法を提案した。

 本論文は、第1章から第5章より構成されている。

 第1章は序論であり、本研究の背景および位置づけが述べられている。

 第2章では、まず、相反原理を用い吸収を考慮した角度依存性と深さ方向濃度分布の関係式を導いている。この理論式を用い、濃度分布推定への試料の吸収の影響、任意の濃度分布系についての濃度分布の推定の可能性、深さ方向の平均的な位置の分解能について検討した。その結果、任意の濃度分布推定は原理的には可能であるが現時点での実験の測定精度では非常に困難であることを明らかにし、指数関数を核とした積分変換の持つ数学的な困難さによるものであることを示した。しかし、平均的な位置については数nmの分解能があり、位置特定に有力となり、表面化学において重要な情報を得られることを明らかにした。

 第3章では、新たな光ファイバを用いた同時多チャンネル角度依存測定法について検討した。多くの系では、数分以下で分子種はnm程度移動し、このため従来の角度依存測定法では分子種の挙動を観測することは不可能であった。そこで、測定時間を短縮化するために新たな同時測定法を提案・開発した。モデル試料を測定し新たに提案した方法の妥当性を検討した。また、測定時間については、本法は従来の方法より一桁以上短縮化でき、より多様な系に応用可能となった。

 第4章では、ファジー理論を用いた新たなデータ処理法について検討した。濃度分布推定結果は、測定値中の誤差に敏感であり、誤差を定量的に評価して濃度分布推定を行う必要がある。しかし、角度依存性は曲線となり、従来のデータ処理法では誤差の影響を評価することは困難である。そこで、誤差をファジー理論におけるあいまいさと考え、ファジー理論により誤差を定量化するデータ処理法を提案・検証した。さらに、曲線中の誤差を取り扱うためにニューラルネット=ファジー回帰法を導入し、角度依存性のシミュレーションデータを用い、深さ方向濃度分布の推定範囲を求めた。

 また、ニューラルネット=ファジー回帰法が曲線での誤差の定量的評価に適していることを活かし、非線形な検量線に適用した。広範囲の濃度で光熱変換法により測定した免疫分析の実測値へ応用・展開し、得られる領域を「検量域」と定義して定量法に関する新しい概念を導出し、その分析化学的な意味・有用性について検討した。

 第5章においては、本研究を総括した。短時間で変化する系のモニタリングの可能性を示し、将来の測定技術の進歩による任意の濃度分布推定の可能性について検討した。本方法は、nm程度のごく表面付近の分子種の挙動をモニタリングすることができ、様々な系での表面・界面のin situ測定の応用へ展開すると期待できる。

 本論文は、測定時間の問題、測定値中の誤差の影響の問題を解決し、全反射現象に基づいた、nmの領域での物質中の化学種を非破壊で追跡できる新たな方法の基礎を築いた。

 よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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