表面・界面から10nmという領域は、バルクでもなく表面第1原子層でもない、メゾスコピックな領域であるという点で、非常に興味深い。特に、エネルギー移動や物質拡散、界面化学反応などの動的現象においては、この領域は重要となる。表面10nm領域の、原子配置や組成などの静的構造を詳しく調べることは、X線や電子線その他の表面分析法によって可能であるが、動的過程をピコ秒や、フェムト秒に至る高い時間分解能で測定する方法はほとんどない。 一方、光エネルギーが熱エネルギーに変換される光熱変換現象は、ほとんどすべての物質で起こり、分析原理として非常に有用である。生体や粉体など、他の方法では測定しにくいものや、超微量分析などに応用されており、適応範囲は広い。にもかかわらず、深さ方向の分解能を10nm程度に上げることが困難なので、表面・界面に対して積極的に利用している例は少ない。時間分解能にしても、マイクロ秒オーダーの測定が大半である。 そこで、本研究においては以下のことを目的とした。まず、光熱変換現象としては未踏の領域である、サブナノ秒・サブピコ秒の時間分解能と、表面・界面10nmの空間分解能の両方を有する装置系を試作・改良する。次にこの装置を用いて、表面近傍における超高速光熱変換過程について研究し、新たな高時間分解表面分析法を開発する。具体的な対象として、シリコン表面と、炭素微粒子分散水溶液/空気界面を選んだ。 シリコンは応用上非常に重要であるにもかかわらず、その特性を事実上決定する、表面近傍のキャリアダイナミクスを測定する方法はない。シリコン表面近傍を高時間分解測定することにより、これまで調べられたことのないキャリアダイナミクスだけでなく、表面近傍の光励起エネルギーの緩和・移動についての新たな知見が得られることが期待される。 また、界面化学反応や、生体膜における物質移動など、気液・液液界面における動的過程は非常に興味深い分野である。しかし、液体表面の高速現象を測定する方法はやはりほとんど存在せず、ダイナミクスをとらえることができる新たな手法が望まれている。光熱変換過程を液体表面に適応することにより、新たな高時間分解液体表面分析法となることが期待される。液液界面の前段階として、まず気液界面を対象とした。ここでは測定の便宜上、あらゆる波長で高い吸光度が得られる炭素微粒子分散溶液を測定対象に選んだ。 1章では、背景と本研究の目的について述べた。表面近傍の動的過程の重要性について触れ、一般的に用いられている表面分析法の特徴と限界について述べ、続いて光熱変換効果の歴史と有用性、高速表面測定に応用するに当たっての時間分解能と空間分解能の2つの問題点について考察した。さらに本研究の目的と具体的な測定対象について記述し、論文の構成をまとめた。 2章では、1章で挙げた問題点を克服するために改良した、新たな2つの高時間分解表面分析装置、過渡反射格子法(TRG)と、過渡反射率変化法(TTR)の特徴、測定原理、理論について述べた。 まず、高い時間分解能を得るために、短パルスレーザーによるポンプープローブ法を用いた。この方法は時間分解能が検出器の応答速度に依存せず、用いた光パルス幅によって決定される。次に深さ方向の分解能を上げるために2つの改良をした。吸光度の高い試料を用いて、励起光のエネルギーを表面に集中させる。また、プローブ光の反射光を検出することで、波長の8%程度、すなわち数10nmにまで深さ方向の分解能が上がった。また、変化を起こす励起光と、その変化をとらえるプローブ光がどちらも光を用いているので、非破壊・非接触・遠隔等の特徴がある。さらに、試料を走査することで表面のイメージングもできる。 これらの点について改良されたTRGとTTRにおいては、次のように信号が生じていると考えられる。試料表面にパルス光を当てると、励起、緩和、熱発生、膨張など様々な現象が起こり、試料の屈折率や反射率が変化する。この反射率の過渡的変化を時間的に遅れたプローブ光で検出して、表面近傍の光励起過程のダイナミクスを測定する。しかし、反射率の変化を通しての観測である以上、実際に起こっている現象については、実験・理論の双方から詳細に検討する必要がある。 TRG測定には、パルス幅100ps、波長532nm、強度1J/pulse、繰り返し周波数1kHzのNd:YAGレーザーを用いた。試料表面上で2つの励起光を交差させ、干渉縞を生成する。縞状に励起された試料は縞状に屈折率が変化し、反射回折格子として働く。同じ領域に入射されたプローブ光は特定の方向に回折され、これを検出する。この反射回折光を計測することにより、試料表面のさまざまなダイナミクスが追跡できる。TRGには、次に述べるTTRにはない、表面に平行な方向と垂直な方向へのエネルギー移動を区別できるという特徴もある。 TTR測定には、パルス幅100fs、波長760nm、強度1nJ/pulse、繰り返し周波数76MHzのTi:サファイヤレーザーを用いた。励起光は非線形光学結晶によって波長を半分の380nmにしてから試料に照射される。励起光によって屈折率が変化した領域にプローブ光を入射して、反射光強度を測定することにより、試料の反射率の過渡的な変化を計測する。 3章では、サブナノ秒の時間分解能を持つTRGでシリコン表面の測定を行い、表面50nm領域のキャリアダイナミクスについての信号を初めてとらえた。さらに、この領域ではキャリアの再結合がバルクと比較して2桁速くなっていることを明らかにし、表面に存在する微細な欠陥と対応づけた。表面の画像化にも成功した。 当研究室でのこれまでのTRG測定により、表面10nmの弾性的な性質が調べられること、シリコン表面の熱拡散がバルクと比較して1/4程度になっていることなどを確認した。この章では、従来の光熱変換測定では不可能であった、シリコンの光励起キャリアと熱由来の信号を時間的に初めて分離した。過渡応答波形について理論的に検討することにより、表面50nmの領域ではキャリアの3次の再結合速度がバルク(4×10-31s-1cm6)と比較して2桁速くなっている(4×10-29s-1cm6)ことも確認した。さらに、この表面における再結合速度は、200keVのHe+を1015atoms/cm2の濃度で照射することにより生じた軽微な損傷によって、2倍程度に増加(7×1029s-1cm6)した。表面では熱拡散が悪いことも併せて考慮すると、表面での再結合速度の加速の原因は、表面に無数に存在する研磨等の欠陥による多くの再結合中心であると考えられる。 さらに、信号強度がキャリアの濃度を表し、表面における加速された再結合速度に対応していることも明らかにした。すなわち、試料を走査することで得られる信号強度の分布像を、これらの量を表す像に変換できる。この像は、サブナノ秒のキャリア濃度と再結合速度の初めての分布像である。 4章では、3章でのTRG測定よりも速い、サブピコ秒の時間分解能を持つTTRを利用してシリコン表面の測定を行い、50nm領域のより速いキャリアの過程をとらえた。その結果、表面50nmでのキャリアの拡散がバルクよりも概算で1/4になっていることが分かった。これも、表面の欠陥がキャリアの平均自由行程を制限しているためだと考えられる。 シリコンにおける過渡反射率変化を測定すると、パルスが照射された直後に反射率が10-4程度減少し、およそ10psの時定数で反射率が回復するのを確認した。キャリアの再結合によって反射率が回復しているとすると、表面近傍で再結合速度が2桁加速されていることを考慮しても回復の時定数は250psであり、遅すぎる。一方、概算でキャリアは50nmを2.5psで拡散すると計算される。よって今回の実験条件では反射率の回復はキャリアの拡散が支配的であると考えられるが、表面50nmではキャリアの拡散が1/4程度に制限されている。表面に存在する欠陥がキャリアを散乱し平均自由行程を短くしているためであると思われる。 紫外光はシリコンにおいて直接遷移を引き起こし、吸光度が増大する。今回用いた380nmでは光吸収長は50nmになるが、波長を350nmにすると光吸収長は10nmにまで短くなる。また、100fsではキャリアは10nmしか拡散できない。よって、本法は表面10nmのダイナミクスの測定が可能であると期待される。 3章、4章で述べたように、いくつかの異なる実験から、シリコンの表面50nmにおけるダイナミクスがバルクとは異なることを示す結果が得られている。今後のデバイスの開発に大きな影響があるものと思われる。 5章では、光熱変換過程を気液界面計測に適応した。3章と4章でシリコン表面におけるダイナミクスが測定できることを示したので、これまで全く例のなかった、光熱変換効果を用いた気液界面のダイナミクスの測定に応用した。そして、今回初めて気液界面50nmからのナノ秒オーダーの信号を得ることに成功した。 ここでは、TRGを使って炭素微粒子分散溶液の表面を測定した。液体表面に干渉縞を形成し、そこからの反射回折光を検出することにより、気液界面のダイナミクスが測定できる。試料の吸光度と信号強度の相関を検討することで、表面由来の信号であることを証明した。測定は吸光度100cm-1というレベルの溶液を用いたが、これは溶液の吸収帯に励起波長を合わせることにより容易に達成できる数値であり、汎用性は広いといえる。信号強度の励起光強度依存において見られる特異な非線形性をはじめとして、未解決の部分も残り、今後さらに検討を重ねる必要があるが、本法が液体表面高時間分解計測の有力な方法となりうる。 6章では、本研究を総括し、本研究の意義と、問題点、今後の展望についてまとめた。 光熱変換過程を表面に適応することにより、これまでにない高時間分解表面分析法となることが期待される。表面・界面の本質的領域として、表面10nmに今後ますます注目する必要がある。表面近傍の静的特性はX線等を用いれば高感度・高精度に測定可能なので、本法をこれらの手法と組み合わせることにより、今後の表面近傍の解明に大きく貢献するであろう。 |