本論文は「日鮮同祖論」と言われて来たものの実体とその歴史的展開過程を総体的に把握をしようとするものである。 「日鮮同祖論」については、すでに旗田魏・上田正昭・金一勉・工藤雅樹・小熊英二氏らによって先行研究が行われてきたのであるが、それでも「日鮮同祖論]の実体と歴史的展開過程が充分には明らかにされず、未解決の問題が残されている。とりわけ本論文では「日鮮同祖論」のイデオロギー的性格に対する批判に重点が置かれていたこれまでの先行研究の偏向性を克服して、まず「日鮮同祖論」の学説的内容と学説史上の意義を明確にし、「日鮮同祖論」の学説的内容と密接な関連があった同祖論者たちの民族論を新しい視点からアプローチした上で、「日鮮同祖論」の持つイデオロギー的性格を改めて分析してみたい。 本論文は「日鮮同祖論」の実体と歴史的展開過程を総体的に把握することを研究目的とするために、基本的には歴史学の実証研究の手法を採用した。この方法に基づいて、まず「日鮮同祖論」の原型をなす近代以前の日朝両国間の同祖論言説を検討し、それから近代の日朝関係史の中で「日鮮同祖論」の展開を通時的に検討した。 次に研究資料の問題である。本論文では同祖論を主張した個々人を幾つかの類型にわけて考察しているために、研究資料は各個人の論著が中心となり、『日本書紀』『古事記』などの史料は所要の目的に沿って副次的に利用した。また、同祖論に関する各個人の論著が多数ある場合は、その全部を資料として使う必要はないので、その中の代表的な論著を選別して資料にした。 以上の研究課題と方法論に基づいて、本論は五章から構成され、各章は具体的に次の諸点を議論の軸とした。 第一章では、日朝両国間における近代以前の重要な同祖論言説を検討し、それと近代の「日鮮同祖論」との関わりについて考えた。 ここでは、まず「記・紀」など古典の朝鮮関連伝承が伝統的に如何に解釈され、理解されてきたかという問題を素戔鳴尊新羅降臨伝説など典型的な幾つかの事例に即して検討した。次に江戸時代の「記・紀」解釈において重要な位置を占めている新井白石の神代史観とそのような神代観に基づいた同祖論言説を検討し、古代日本における朝鮮の影響を重視した江戸時代の考証学者藤貞幹の主張と彼の主張に対する国学者本居宣長の反論の意味を考えた。それから『三国史記』『三国遺事』など朝鮮の古典における日本関連伝承、李朝時代の知識人申叔舟・韓致・柳得恭らの日本文化観などを通して朝鮮側の伝統的な同祖論言説を検討した。 第二章では、「日鮮同祖論」の学説的内容と学説史上の意義、同祖論者たちの民族論を考える上で重要な意味を持つ古代支配層朝鮮半島起源説について検討した。 ここでは、まず明治期の日本人種論を概略しながら、古代支配層朝鮮半島起源説及び同祖論者たちの民族論の形成に大きな影響を及ぼす「日本人後来説」と「混合民族説」について考えてみた。それから明治・大正期の古代支配層朝鮮半島起源説の有力な提唱者であった横山由清、三宅米吉、山路愛山らの関連学説を検討した。 以上の三人の古代支配層朝鮮半島起源説については、彼らの学説的内容を検討すると同時に、その学説と密接な関係がある民族論も合わせて検討した。 第三章では、星野恒の日韓同域論と久米邦武の日・韓・閑三土連合説を中心に日本の近代歴史学の形成に大きな影響を残した初期官学アカデミズム史学における同祖論の諸相を検討し、それから初期官学アカデミズム史学者の「日鮮同祖論」の影響を受けたと見られる民間史家吉田東伍・田口夘吉・竹越与三郎らの「日鮮同祖論」についても検討した。 ここでは、以上の人々の同祖論と近代日本の朝鮮植民地支配との関わりに注目すると同時に、彼らの同祖論の学説的内容と民族論を検討し、田口・竹越二人の場合は、黄禍論、脱亜論との関連についても検討した。 第四章では、人類学者鳥居龍蔵、歴史学者喜田貞吉、言語学者金沢庄三郎らを対象に、彼らの同祖論の前提になる学説的内容を検討し、合わせてその民族論も検討した。それから彼らが同祖論言説を通して如何に朝鮮植民地支配の正当化を主張したかという問題を考えた。 第五章では、日本の朝鮮植民地支配の過程で「日鮮同祖論」が社会的に如何に宣伝されたかという問題を多様な資料と人物に即して検討した。ここでは、まず「日韓併合」が行われた際、日本の言論界が併合の正当化のために「日鮮同祖論」を如何に宣伝したかという問題を検討した。次に植民地治下の朝鮮民族に対する同化政策を強化するために一九三〇年代後半から四十年代前半にかけて行われた「内鮮一体」化運動に「日鮮同祖論」が持ち出された意味について、直接「内鮮一体」化運動を推進した南次郎・小磯国昭・津田剛らの言論を中心に検討した。 そして以上のような論証により、「日鮮同祖論」の実体とその歴史的展開過程がかなり明らかになったと思われる。 本論文の第一章からは次のような事実が分かってきた。 近代以前の日本の同祖論言説には、「記・紀」など古典の朝鮮と関連する伝承を観念的に解釈し、そこから日本の朝鮮に対する親近性あるいは優位性を説く場合と、素朴ではあるが「記・紀」など古典の朝鮮関連伝承を合理的・実証的に研究することによって朝鮮との民族的・文化的関係を説く場合があり、以上の両者がいずれも近代の「日鮮同祖論」の源流をなしたのである。 一方、朝鮮の場合は、古代朝鮮の諸国が日本に多くの文物を伝えたという理解に基づいて日本に対して文化的優越主義を取る傾向が古くから存在していたのである。 それから本論文の第二・三・四章の内容をまとめて要約と次の通りである。 第一、同祖論の学説的内容と学説史上の意義の問題である。 同祖論者たちは明治期の日本人種論における「日本人後来説」を背景に、日本民族を構成する重要な要素と言われた古代支配層が朝鮮半島から渡来したという学説を盛んに提唱し、それが「日鮮同祖論」の主な学説的根拠とされたのである。そして以上の同祖論者たちの学説は、同時代の人類学・考古学の知見に基づく一方、「記・紀」など古典の神話・伝説、特には朝鮮と関連する各種の伝承に依存していたことも一つの大きな特色であった ところで、日本人種論において現在弥生人渡来説が有力な点、戦後も江上波夫・岡正雄・水野祐氏らの学説に見られるように、民族学・歴史学などの分野から日本民族の一部の起源を朝鮮半島に求める学説が多く存在する点、「記・紀」など古典の神話・伝説及び各種の伝承に基づいて日朝間の民族関係を論じる研究法は依然行われている点を考えると、「日鮮同祖論」の主な学説的根拠となった古代支配層朝鮮半島起源説の学説史上の意義は依然認められるし、日本民族起源論における有力な仮説として位置づけることができる。 第二、同祖論者たちの民族論の問題である。 本論文で取り上げた同祖論者たちは一方では混合民族論者でもあった。そして同祖論者たちの以上のような民族論は思想史的側面からも検討すべき必要がある。同祖論者たちは「記・紀」神話に対して比較的に批判的精神を持ち、混合民族論に基づく天皇制論を提唱し、開放的な国民性を指向していた。この点は単一民族論・国体論者とかなり異なるところである。 第三、同祖論のイデオロギー的性格に関する問題である。 「日鮮同祖論」という言説の危険性はそれが単に一部の学者たちによって観念的に提唱されたわけではなく、朝鮮植民地の過程でそれが世界の植民地支配史上でも特異な支配イデオロギーを生み出したという点にある。すなわち異民族に対する明らかな侵略性を復古という名分で隠蔽し、異民族に対する極端的な同化政策も一体化という美名を飾ったことに「日鮮同祖論」のイデオロギー的性格が端的に現れている。 「日鮮同祖論」は「日韓併合」の際には、当時の言論媒介を通して併合に歴史的正当性を賦与する論理として社会的に広がり、「内鮮一体」化運動に当たっては南次郎・小磯国昭らの朝鮮総督が先頭に立って同祖論を宣伝し、それが実際の同化政策に理念として反映されていく過程で「日鮮同祖論」の持つイデオロギー性も極大化したのである。 |