いき詰まるような転換、神秘的な対話、常識を越える奇異な行動、そうして閃光のようなユーモア、禅の精神を後世に伝えてくれる禅匠たちの逸話は、合理的で理性的なことに慣れている現代の人々を当惑させるに十分である。他方、数千年にもわたって無秩序な、または無法なもの、即ち卑語としての意味で理解してきた、アナーキー(anarchie)という言葉のイメジを想いだす人々においてアナーキズムは、混乱、無秩序、秩序破壊の同義語として彼らを当惑させるかもしれない。 いったい、禅とアナーキズム……一見、思想的環境と関心事とにおいて相互に非常に隔たっているように見える……とを結びつける内的契機は何か。 第一に、禅とアナーキズムは、その形成過程および社会的展開過程の相違点にも拘らず、人間の究極的自由の追求という熾烈な問題意識、すなわち絶対的自由を指向するという大きな共通点を持っている。多くの禅者やアナーキズムの先駆的な思想家たちは、権威・権力、伝統・慣習あるいは「時の流れ」などに盲従する数かぎりない大衆に先んじて、絶対自由のために、頑丈な分厚いそれらの壁に体当たりをし、わが身をもって打ち破ろうと試みた。 第二に、現代の禅思想と近代アナーキズムは、「人為的なもの」を斥け、「自然」に基づいた価値や制度を求め、西欧「近代」の原理に対する反省を促した共通点がある。 とくに今世紀初め、非西欧世界の原理がどこまで「近代」の原理に内在的な反省の契機になりうるのかを追求する、熾烈な思想的実験精神、即ち非西欧的思想体系をもって、西欧の「近代」を問い直す最初の理論的・実践的な試みが禅の思想から起きたことは、検討に値する問題である。つまり、欧米の英語文化圏における鈴木大拙の精力的な著述・講演活動、西田幾太郎の禅思想を基盤とした西欧の近代哲学の総合的解釈の試み、久松真一のFAS運動、滝沢克巳のK.バルトの神学の新しい解釈などのことである。 現代社会の人々は、西欧「近代」の原理の果てが突きあたった闇……人間の自発性、自主性の喪失、自然と人間あるいは人間と人間の関係のすべての三人称化・客観化、その結果、自然は無機物質となり、ただ征服と消費の対象となる。人間もまた客体となり、やがて商品として扱われる存在となる……の問題がますます深刻な様相を帯びつつあることに気づいている。このように西欧「近代」の原理の自明性が失われるなかで、その価値や諸制度を再検討し組み替えるオールタナティヴの模索が、社会思想の課題となってきた。 こうした思想的状況の影響で禅思想とアナーキズムは、現代社会において新しい価値や諸制度を演繹するさいの不可欠のリファレンスとして注目されるようになったが、現段階ではそれが具体的なオールタナティヴとしての展望をもちえたとはいえない。むしろ便宜的にまとめられてきた禅思想とアナーキズムに対する再検討が要請される状況であるといえよう。 このような観点に立って、第1部では、「自由」の思想の普遍性と特殊性の問題を検討するために、まず西欧の自由思想の原点、古典古代ギリシアから中世までの自由思想及び東アジアの思想の原点、古代中国社会から儒教的官僚社会が成立した中世中国の自由思想を同一の射程において、その思想的内容の中に絶対自由、即ちアナーキズム的萌芽がどのように整序されていたか、また「支配的宗教」ないし「支配的思想」というものがどのように「共同体」と結びつき、社会の統合原理として作用したか、そしてそれが自由思想の性格をどのように規定してきたかを検討した。その他、近代の自由思想を論じる際、欠かせない宗教改革及び宗教的寛容の思想について考察を加えた。 第2部では、禅と近代アナーキズム思想が西欧近代をどのように捉えていたかを現代日本の禅者、鈴木大拙と久松真一の思想を中心として考察した。そして近代アナーキズムの創始者たちが、どのように近代の問題を捉えていたかを検討した。 そうした作業を効果的に遂行するために近代アナーキズムに対する検討の際は、「自然」と「人為」、個別意志と一般意志の衝突とみなされた「個人」と「国家」との関係を、近代アナーキズムの思想的実践の中で検討した。 ところが、この数十年の間、個人、社会、国家に起きた深刻な変容は、近代アナーキストや禅者たちが提起した問題のモチーフを変えてしまったように思われる。少なくとも、以前のような形での論争は対象を失ってしまったのである。 そして禅やアナーキズムの普遍的価値を確保しながら近代を批判的に越えていこうとする新しい思想的試みが行われているが、第2部では、主にその新しい思想的試みの内容を検討しつつ、それの可能性と限界とを明らかにした。 第3部では、第1部と第2部ですでに検討した観点を保ちつつ、禅とアナーキズム思想を自然的存在としての人間を支える、内的自然(人間本性)と外的自然(エコロジー)の再構築の思想として問い直し、実践的には、人間と自然との共生のエコロジー運動や人間性回復をめざす情念との和解の実践思想としての可能性を論じた。 さて第1部、第2部、第3部で検討した結果を簡単にまとめておきたい。まず、最初の課題である自由思想の「普遍性」と「特殊性」の問題に対する第1章及び第2章の考察を通して、もともと「自由」が人間存在の多くの要素、側面、次元を総合的に組み入れている概念であることを確認した。同時に、西欧近代の自由の概念が、その思想においていままで「普遍性」とみなされがちであったにもかかわらず、それが人間存在の多くの要素、側面、次元を総合的に組み入れたものとはいえないことも明らかになった。他方、中国及びその文化的影響圏にあった東アジア世界における自由の概念は、「特殊性」とみなされてきた。たしかに中国ないし東アジア世界の自由の概念には、西欧近代の自由の概念のような「国家権力からの自由」という意識は欠落していたが、それのなかには西欧近代の自由の概念にない多様な側面を取りこんでいることが確認された。したがって、自由思想に関して、西欧近代の自由の概念を「普遍的なもの」中国ないし東アジア世界の自由の概念を「特殊的なもの」とかならずしもいいきれないことが示された。 第二の課題、即ち、禅とアナーキズムにおいて「人為」と対称的意味での「自然」の概念が、人間の実存的状況のなかでどのように整序され、また実践されてきたかについては第II部で両思想の歴史的展開に従って、その答えを追ってきたが、その結果、次のような成果を得ることができた。まず第3章第1節及び第4章第1節で検討した結果であるが、両思想が相違点以上に深いところで、はっきりと一致していることに、ある種の驚きをもって気づかざるをえなかった。というのは、両思想が西欧近代の原理の問題点を、悲観的な人間観から発する「人為」的な価値・制度によるものと位置づけ、その解決の可能性を「自然」、即ち人間の自然的本性に託したという共通項をもっていたからである。 近代アナーキズムは、西欧近代の統治の構成原理を「人為」と捉えて、それの解体原理を「自然」、即ち「人間の自然としての共同体」に求めた(第3章第2節)が、それは西欧「近代」の原理によって「自由」思想との接点を失った「人間自然としての共同体」の復権、即ち西欧近代の思想家たちによって否定された、東アジア的契機の受容であったといえよう。他方、現代の禅思想の西欧近代の批判の功績は、主に日本禅者たちに帰するべきであり、たしかにかれらの西欧近代の批判には、「人為」を斥けて「自然」を重んじる禅思想による鋭い霊性的洞察がみえる。しかしかれらが禅思想に立脚した絶対的自由と、社会的現実との接点について全く触れていないのは、やはり現代日本の禅者たちの思想的限界であるといえよう。かれらは禅思想と社会的現実との接点を求めたり、行動の倫理を引き出そうとすることに非常に消極的であった。 ところで、近代アナーキズムの思想的実験は、事々失敗に終ってしまったし、また現代日本の禅思想と社会的実践との結び合いも否定的結果を残してしまった。そうした両思想の社会的実践において失敗の原因を完全に究明することは、もちろん本稿の手にあまることであって、ここではひとつの側面からの接近が試みられたにすぎない。 しかし、あえて考察から得られた成果(第3章と第4章)によって、その原因を説明するならば、近代アナーキズムの場合は、自然主義的要素や深い道徳主義的要素などによる(第3章第2節)アナーキズムの永続的社会変革の原理としての可能性と、逆にそれによる政治的実践においての限界との落差を無視し性急な政治的成功を求めたのが、その失敗の原因であったといわなければならない。他方、現代日本の禅思想と社会的実践との結び合いの否定的結果は、第4章第2節での考察によって、その原因が禅思想の普遍性に起因するのではなく、あくまでも破邪顕正とか、殺人剣即活人剣とかいう言葉が戦争肯定の原理になったり、興禅護国という言葉が護国興禅に置き換えられて、国家至上主義の協力者になったりした日本禅の特殊性に起因したことが明らかになった。 第三の課題、現代社会における絶対自由の思想としてのアナーキズムと禅思想の可能性については、主に第III部で集中的に検討した。その結果、まずアナーキズムの場合、第5章第1節での検討によって、今日のアナーキズムに対する議論、即ち「自由主義の論争のなかのアナーキズム」や「醒めたアナーキズム」の主張も、第3章で検討した近代アナーキズムの限界ないし問題点が全く改善されていないものであることが明らかになった。 そして、近代アナーキズムや現代の「醒めたアナーキズム」の問題点を充分に認識した上で、政治的実践の理念としてのアナーキズムの思想的禁欲を保ちつつ、強大な国家権力に対する、有効な対抗の手段としてのアナーキズムの現代的可能性を探ってみたのが、「総合的抵抗権としてのアナーキズム」(第5章第2節)にほかならない。「総合的抵抗権としてのアナーキズム」が今日の問題にしばしば顕著な関連性を持つためには、アナーキズムの現実的側面を重視する人たちが、いくつかの根源的容認をおこなってはじめて発揮されるものだと思われる。つまり現代社会においては、何がしかの規制が必要であることは明らかなことであり、現代社会において実存的自由の拡大とは、あらゆる規則を排除することによって、出来ることではなくて、これは、権威主義的で官僚的な方法が明らかに失敗している、あるいは行きすぎている領域を捜し出し、近代アナーキズムが唱えた権力・制度の分散、自由意志の尊重、決定への直接参加といった観念を現実社会に適用していく努力の積み重ねによって、達成されることだという事実を認めることである。もうひとつ、われわれがアナーキズムの現在的可能性として注目すべきは、近代アナーキストのエコロジー運動への感受性であることを5章第2節で示した。この近代アナーキストのエコロジー運動への感受性と禅思想の自然観とを突き合わせ、相互に反照させていく作業がこれから必要であろう。他方、禅思想の場合、人間性を破壊する歪んだ「情念」を制御する心身的訓練の方法としての「座禅」や、現代社会のデイスコミュニケーイションの状況に対して、人間自身に根ざしている創造力を持って解決しようとするコミュニケーイション行為においての「禅モデル」は、現代社会の要求に応えることができる、実践的な方法としての可能性をもっていることを論じた。 もちろん禅とアナーキズムは、現代社会が抱いている諸問題に対する、完全な回答でもないし、さらに完璧な体系でもない。ただ本稿で意図したことは、禅とアナーキズムの思想家たちの建設的洞察を現代社会の諸問題に対して、実際的で有益な影響を及ぼしうるような脈絡の中に位置づけることができるのではないかということであった。 |