学位論文要旨



No 112974
著者(漢字) 黄,用性
著者(英字)
著者(カナ) ホアン,ヨンソン
標題(和) 絶対自由の思想に関する社会思想的考察 : アナーキズムと禅を中心として
標題(洋)
報告番号 112974
報告番号 甲12974
学位授与日 1997.09.19
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第125号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 杉浦,克己
 東京大学 教授 長尾,龍一
 東京大学 教授 山脇,直司
 東京大学 助教授 森,政稔
 東京大学 助教授 黒住,真
内容要旨

 いき詰まるような転換、神秘的な対話、常識を越える奇異な行動、そうして閃光のようなユーモア、禅の精神を後世に伝えてくれる禅匠たちの逸話は、合理的で理性的なことに慣れている現代の人々を当惑させるに十分である。他方、数千年にもわたって無秩序な、または無法なもの、即ち卑語としての意味で理解してきた、アナーキー(anarchie)という言葉のイメジを想いだす人々においてアナーキズムは、混乱、無秩序、秩序破壊の同義語として彼らを当惑させるかもしれない。

 いったい、禅とアナーキズム……一見、思想的環境と関心事とにおいて相互に非常に隔たっているように見える……とを結びつける内的契機は何か。

 第一に、禅とアナーキズムは、その形成過程および社会的展開過程の相違点にも拘らず、人間の究極的自由の追求という熾烈な問題意識、すなわち絶対的自由を指向するという大きな共通点を持っている。多くの禅者やアナーキズムの先駆的な思想家たちは、権威・権力、伝統・慣習あるいは「時の流れ」などに盲従する数かぎりない大衆に先んじて、絶対自由のために、頑丈な分厚いそれらの壁に体当たりをし、わが身をもって打ち破ろうと試みた。

 第二に、現代の禅思想と近代アナーキズムは、「人為的なもの」を斥け、「自然」に基づいた価値や制度を求め、西欧「近代」の原理に対する反省を促した共通点がある。

 とくに今世紀初め、非西欧世界の原理がどこまで「近代」の原理に内在的な反省の契機になりうるのかを追求する、熾烈な思想的実験精神、即ち非西欧的思想体系をもって、西欧の「近代」を問い直す最初の理論的・実践的な試みが禅の思想から起きたことは、検討に値する問題である。つまり、欧米の英語文化圏における鈴木大拙の精力的な著述・講演活動、西田幾太郎の禅思想を基盤とした西欧の近代哲学の総合的解釈の試み、久松真一のFAS運動、滝沢克巳のK.バルトの神学の新しい解釈などのことである。

 現代社会の人々は、西欧「近代」の原理の果てが突きあたった闇……人間の自発性、自主性の喪失、自然と人間あるいは人間と人間の関係のすべての三人称化・客観化、その結果、自然は無機物質となり、ただ征服と消費の対象となる。人間もまた客体となり、やがて商品として扱われる存在となる……の問題がますます深刻な様相を帯びつつあることに気づいている。このように西欧「近代」の原理の自明性が失われるなかで、その価値や諸制度を再検討し組み替えるオールタナティヴの模索が、社会思想の課題となってきた。

 こうした思想的状況の影響で禅思想とアナーキズムは、現代社会において新しい価値や諸制度を演繹するさいの不可欠のリファレンスとして注目されるようになったが、現段階ではそれが具体的なオールタナティヴとしての展望をもちえたとはいえない。むしろ便宜的にまとめられてきた禅思想とアナーキズムに対する再検討が要請される状況であるといえよう。

 このような観点に立って、第1部では、「自由」の思想の普遍性と特殊性の問題を検討するために、まず西欧の自由思想の原点、古典古代ギリシアから中世までの自由思想及び東アジアの思想の原点、古代中国社会から儒教的官僚社会が成立した中世中国の自由思想を同一の射程において、その思想的内容の中に絶対自由、即ちアナーキズム的萌芽がどのように整序されていたか、また「支配的宗教」ないし「支配的思想」というものがどのように「共同体」と結びつき、社会の統合原理として作用したか、そしてそれが自由思想の性格をどのように規定してきたかを検討した。その他、近代の自由思想を論じる際、欠かせない宗教改革及び宗教的寛容の思想について考察を加えた。

 第2部では、禅と近代アナーキズム思想が西欧近代をどのように捉えていたかを現代日本の禅者、鈴木大拙と久松真一の思想を中心として考察した。そして近代アナーキズムの創始者たちが、どのように近代の問題を捉えていたかを検討した。

 そうした作業を効果的に遂行するために近代アナーキズムに対する検討の際は、「自然」と「人為」、個別意志と一般意志の衝突とみなされた「個人」と「国家」との関係を、近代アナーキズムの思想的実践の中で検討した。

 ところが、この数十年の間、個人、社会、国家に起きた深刻な変容は、近代アナーキストや禅者たちが提起した問題のモチーフを変えてしまったように思われる。少なくとも、以前のような形での論争は対象を失ってしまったのである。

 そして禅やアナーキズムの普遍的価値を確保しながら近代を批判的に越えていこうとする新しい思想的試みが行われているが、第2部では、主にその新しい思想的試みの内容を検討しつつ、それの可能性と限界とを明らかにした。

 第3部では、第1部と第2部ですでに検討した観点を保ちつつ、禅とアナーキズム思想を自然的存在としての人間を支える、内的自然(人間本性)と外的自然(エコロジー)の再構築の思想として問い直し、実践的には、人間と自然との共生のエコロジー運動や人間性回復をめざす情念との和解の実践思想としての可能性を論じた。

 さて第1部、第2部、第3部で検討した結果を簡単にまとめておきたい。まず、最初の課題である自由思想の「普遍性」と「特殊性」の問題に対する第1章及び第2章の考察を通して、もともと「自由」が人間存在の多くの要素、側面、次元を総合的に組み入れている概念であることを確認した。同時に、西欧近代の自由の概念が、その思想においていままで「普遍性」とみなされがちであったにもかかわらず、それが人間存在の多くの要素、側面、次元を総合的に組み入れたものとはいえないことも明らかになった。他方、中国及びその文化的影響圏にあった東アジア世界における自由の概念は、「特殊性」とみなされてきた。たしかに中国ないし東アジア世界の自由の概念には、西欧近代の自由の概念のような「国家権力からの自由」という意識は欠落していたが、それのなかには西欧近代の自由の概念にない多様な側面を取りこんでいることが確認された。したがって、自由思想に関して、西欧近代の自由の概念を「普遍的なもの」中国ないし東アジア世界の自由の概念を「特殊的なもの」とかならずしもいいきれないことが示された。

 第二の課題、即ち、禅とアナーキズムにおいて「人為」と対称的意味での「自然」の概念が、人間の実存的状況のなかでどのように整序され、また実践されてきたかについては第II部で両思想の歴史的展開に従って、その答えを追ってきたが、その結果、次のような成果を得ることができた。まず第3章第1節及び第4章第1節で検討した結果であるが、両思想が相違点以上に深いところで、はっきりと一致していることに、ある種の驚きをもって気づかざるをえなかった。というのは、両思想が西欧近代の原理の問題点を、悲観的な人間観から発する「人為」的な価値・制度によるものと位置づけ、その解決の可能性を「自然」、即ち人間の自然的本性に託したという共通項をもっていたからである。

 近代アナーキズムは、西欧近代の統治の構成原理を「人為」と捉えて、それの解体原理を「自然」、即ち「人間の自然としての共同体」に求めた(第3章第2節)が、それは西欧「近代」の原理によって「自由」思想との接点を失った「人間自然としての共同体」の復権、即ち西欧近代の思想家たちによって否定された、東アジア的契機の受容であったといえよう。他方、現代の禅思想の西欧近代の批判の功績は、主に日本禅者たちに帰するべきであり、たしかにかれらの西欧近代の批判には、「人為」を斥けて「自然」を重んじる禅思想による鋭い霊性的洞察がみえる。しかしかれらが禅思想に立脚した絶対的自由と、社会的現実との接点について全く触れていないのは、やはり現代日本の禅者たちの思想的限界であるといえよう。かれらは禅思想と社会的現実との接点を求めたり、行動の倫理を引き出そうとすることに非常に消極的であった。

 ところで、近代アナーキズムの思想的実験は、事々失敗に終ってしまったし、また現代日本の禅思想と社会的実践との結び合いも否定的結果を残してしまった。そうした両思想の社会的実践において失敗の原因を完全に究明することは、もちろん本稿の手にあまることであって、ここではひとつの側面からの接近が試みられたにすぎない。

 しかし、あえて考察から得られた成果(第3章と第4章)によって、その原因を説明するならば、近代アナーキズムの場合は、自然主義的要素や深い道徳主義的要素などによる(第3章第2節)アナーキズムの永続的社会変革の原理としての可能性と、逆にそれによる政治的実践においての限界との落差を無視し性急な政治的成功を求めたのが、その失敗の原因であったといわなければならない。他方、現代日本の禅思想と社会的実践との結び合いの否定的結果は、第4章第2節での考察によって、その原因が禅思想の普遍性に起因するのではなく、あくまでも破邪顕正とか、殺人剣即活人剣とかいう言葉が戦争肯定の原理になったり、興禅護国という言葉が護国興禅に置き換えられて、国家至上主義の協力者になったりした日本禅の特殊性に起因したことが明らかになった。

 第三の課題、現代社会における絶対自由の思想としてのアナーキズムと禅思想の可能性については、主に第III部で集中的に検討した。その結果、まずアナーキズムの場合、第5章第1節での検討によって、今日のアナーキズムに対する議論、即ち「自由主義の論争のなかのアナーキズム」や「醒めたアナーキズム」の主張も、第3章で検討した近代アナーキズムの限界ないし問題点が全く改善されていないものであることが明らかになった。

 そして、近代アナーキズムや現代の「醒めたアナーキズム」の問題点を充分に認識した上で、政治的実践の理念としてのアナーキズムの思想的禁欲を保ちつつ、強大な国家権力に対する、有効な対抗の手段としてのアナーキズムの現代的可能性を探ってみたのが、「総合的抵抗権としてのアナーキズム」(第5章第2節)にほかならない。「総合的抵抗権としてのアナーキズム」が今日の問題にしばしば顕著な関連性を持つためには、アナーキズムの現実的側面を重視する人たちが、いくつかの根源的容認をおこなってはじめて発揮されるものだと思われる。つまり現代社会においては、何がしかの規制が必要であることは明らかなことであり、現代社会において実存的自由の拡大とは、あらゆる規則を排除することによって、出来ることではなくて、これは、権威主義的で官僚的な方法が明らかに失敗している、あるいは行きすぎている領域を捜し出し、近代アナーキズムが唱えた権力・制度の分散、自由意志の尊重、決定への直接参加といった観念を現実社会に適用していく努力の積み重ねによって、達成されることだという事実を認めることである。もうひとつ、われわれがアナーキズムの現在的可能性として注目すべきは、近代アナーキストのエコロジー運動への感受性であることを5章第2節で示した。この近代アナーキストのエコロジー運動への感受性と禅思想の自然観とを突き合わせ、相互に反照させていく作業がこれから必要であろう。他方、禅思想の場合、人間性を破壊する歪んだ「情念」を制御する心身的訓練の方法としての「座禅」や、現代社会のデイスコミュニケーイションの状況に対して、人間自身に根ざしている創造力を持って解決しようとするコミュニケーイション行為においての「禅モデル」は、現代社会の要求に応えることができる、実践的な方法としての可能性をもっていることを論じた。

 もちろん禅とアナーキズムは、現代社会が抱いている諸問題に対する、完全な回答でもないし、さらに完璧な体系でもない。ただ本稿で意図したことは、禅とアナーキズムの思想家たちの建設的洞察を現代社会の諸問題に対して、実際的で有益な影響を及ぼしうるような脈絡の中に位置づけることができるのではないかということであった。

審査要旨

 1 本論文は、アナーキズムと禅を中心として、究極にいたるまで自由をきわめようとする思想に対する社会思想的考察を加えたものである。アナーキズムは、西欧近代の重視した自由の原理を一層徹底して追求することによって西欧近代の主流の思想に反逆し、それを超克しようとした。東洋思想の伝統、ことに老荘思想を受けとめて非西欧の体系として成立・発展してきた禅は、非西欧の思想として西欧近代の原理にかかわり、それを批判的に捉えてきた。一見思想的環境や関心事において非常に隔たっているように見えるこの二つの思想は、人間の自由の徹底した追究という熾烈な問題意識や究極的な自由への指向をもち、自由を人間的自然の必然性に従うべき原理と考える点において、思想的根源と関心を共有していた。この共通性をもつ二つの思想が、究極にいたるまで自由を追究するなかで、西欧近代の原理とどのように対立し、それに代わる思想を模索するなかで、どのような役割を果たそうとしているのか、それが本論文の主たるテーマである。

 2 構成は、3部、序章と終章を含めて8章より成り、本文153頁、注22頁、参考文献11頁、400字詰め原稿用紙で725枚に相当する。それぞれの論旨を要約すれば次のごとくである。

 はじめに本論文全体の序章「いま、何故アナーキズム、そして禅か」において、問題の確定と研究方法など議論の枠組みが明らかにされている。本論文の研究対象は、絶対自由の思想であるが、それはゲラン等を参照し、人間への温かい心、また人間性を抑圧している物質的精神的諸条件に対する怒りの心をもって、そうした諸条件を克服し、人間の尊厳と自己実現を最優先の価値とする思想、そうした自由な社会の建設をめざす思想と定義される。西欧近代における最も重要な概念の一つであるこの自由の概念について、本論文は、西欧近代の原理の行き詰まりとそれに対する反省という文脈のなかで考察する。ここで、非西欧世界-ここでは東アジアの文化圏に限る-は、他意的に西欧近代に組み込まれたため、その伝統や価値観の変質・喪失の危機に立っており、近代の主体的省察において熾烈な思想的実験精神が不充分であったが、そうした非西欧世界にあって非西欧的思想体系をもって西欧近代を問い直す理論的・実践的な試みが禅の思想から起きた。この点から、自由に関する西欧の思想のなかで、もっとも徹底して問題を提出したアナーキズムと非西欧的思想体系のなかでもっとも早く西欧近代を問い直す理論的・実践的試みに取り組んだ禅を中心として論じていこうというわけである。序章に関してもう一つ注意すべきは、本研究が社会思想的考察としてなされていることである。本論文は、哲学的に独自の体系構成を果たそうとするものではなくて、歴史的な外部環境の変化のなかで社会思想の展開過程を追いながら、問題のポイントを抽出し絞っていこうとする作業を果たそうとしているのである。

 さて第I部「絶対自由の思想の淵源とその展開」の第1章「西欧世界における自由思想の展開」、第2章「中国思想における自由」では、西欧の自由の概念の起源を古典古代ギリシャから中世までの思想の展開のうちに明らかにし、それと比較的に東アジアの自由の概念の起源を古代中国社会から儒教的官僚社会が成立した中世中国までの思想展開に見ていく。そこでの考察のポイントは、西欧の自由思想に対して東アジアのそれが果たして、またいかなる独自性をもつかということである。この場合、本論文においては、アナーキズムと禅の究極的な自由概念が、西欧近代において強調された政治的自由に限られることなく、人間存在の多くの要素、側面、次元を総合的に組み入れる概念として確定されることを予料している。ここでの検討の結果、第一に、西欧近代の自由の概念は、従来普遍的とみなされがちであったが、それは人間存在の多くの要素、側面、次元を総合的に組み入れたものではないこと、第二に、東アジアの自由の概念は、特殊的とみなされ、確かに国家権力からの自由という意識において不充分であったが、むしろ西欧近代の概念にない人間存在の多くの要素、側面、次元を総合的に組み入れていたこと、等が明らかとなった。こうして古代中国の自由の思想と古代ギリシャのそれとの原理上の親近性が確認され、それらがともに共同性への自由として措定されているのに対して、西欧近代の自由はアトミスティックな個人としての自由として措定されていた。さらに古代中国の老荘思想やギリシャのキニク派思想のように、政治的自由を人為として否定し、人間の自然に基づいて内面的自足性としての自由を主張するものもあった。また、アナーキズムと禅に関して比較して、ストア思想家は禅にいう境涯の自由に生きる自由人と規定され、老荘思想はアジアにおけるアナーキズムの萌芽と認識されている。こうして、その展開のうちに中国仏教の革新として登場した禅思想を含む東アジアの自由思想は、決して特殊的なものではなかったのである。

 次に第II部「西欧近代の原理と絶対自由の思想」においては、第3章「西欧近代の原理とアナーキズム」、第4章「禅思想と西欧近代の原理」として、それぞれアナーキズムおよび禅における自由の原理が追究される。第3章では、主としてプルードン、バクーニン、クロポトキンの思想について、所有、相互性と共同体、宗教批判の面から、自由の概念が明らかにされる。所有論では、アナーキズムが具体的な社会制度よりもその原理に注目し、道徳的な改革すなわち内なる理想の創造を求めたことが明らかにされる。所有より存在を優位におくことにより、アナーキズムは、西欧近代の思想とは本質的に異なるものであることを示した。ただ本章は、人間存在に注目しながら、アナーキストの所有論が、所有それ自体からの自由という積極的な契機を含む次元にまではいたらず、所有者支配の体制からの自由という次元にとどまったことを批判的に指摘している。そして共同体論では、アナーキズムが自由にとって個人の自発性、主体性とともに自然の必然性への服従ならびに他者との相互性・共同性あるいは人間の自然に基づく自然共同体への連帯・組織化が重んぜられていること、自由の追究のなかで、政治批判と宗教(キリスト教)批判は同根の性格をもち、自然的生を圧殺するものとしてキリスト教が批判されたこと、が明らかにされる。

 第4章では、いち早く西欧近代と取り組んだ日本禅思想家、主として鈴木大拙と久松真一が取り上げられ、西欧近代の自由に対する鈴木の批判として、純粋自由とは言論・思想の自由のような制度的・客観的領域のものではなく、純粋主観であり、なにものにも囚われない究極的な自由への志向であることが抽出され、アナーキズムの自由の原理と比較される。ただ、鈴木が、平常底の人間生活における囚われのなかに、それを否定し超え出る働きを自から顕すべきことを説くことに触れて、それとアナーキズムにおける自然の必然性への服従との対応関係に注目している。しかも鈴木が、戦後にいたりアナーキズムに対する考え方を変更して、個人の自由の追究が無政府主義となると認めるにいたったことを重視している。

 もっとも、この第3章と第4章においては、自由の追究という点から見たアナーキズムと禅における問題点の指摘も怠っていない。アナーキズムについては、実践運動としての国家批判とのかかわりで、その変革運動が未完に終わり、挫折し続けてきたことが取り上げられる。そして、アナーキズムの永続的社会変革の原理としての可能性と、現実的な政治的実践における限界との落差を無視し、性急な政治的成功を求めたことが失敗の原因であったとしている。禅については、巷に餓死者があふれる戦乱の世に、社会に目を向けた新しい宗教哲学として成立した禅が、日本においては、全体主義的な国家権力を護持し、戦争など全体主義倫理に奉仕したことに問題を見出している。そして、近現代の韓国禅の伝統が、民衆仏教としての社会的実践を果たしてきたことに言及している。

 最後に、第III部「絶対自由の思想のパースペクティヴ」においては、アナーキズムと禅における自由の思想の現代における重要性や可能性を究明している。第5章「現代社会におけるアナーキズム」においては、ロールズ、ノージック等による自由主義論争のなかでアナーキズムがどのように論ぜられているかを明らかにし、市場アナーキズムと共同体アナーキズムとに類別された論点提示を通して、醒めた社会秩序構想を説くアナーキズムを問題とし、その可能性と限界を明らかにしていく。それをステップとして、現代アナーキズムの可能性として総体的抵抗権の思想およびエコロジー運動をあげている。前者については、ブーバー等を検討しつつ、結論として、国家の廃止を直接に求めるよりも、むしろ権威主義的で官僚的なやり方が失敗したり、行きすぎている領域に焦点を絞り、アナーキストが唱える権力の分散、自由意志の尊重、決定への直接参加等の観念を適用すべきことを説いている。後者については、ことにドイツのエコロジー運動が、アナーキズムの流れをくむ人々によって担われてきたことに言及し、自然との一体、非人間中心的生活を説くディープ・エコロジーの思想に対して、それのみでは歴史をとらえきれないとして、人間と自然との協同を深める上での社会的・文化的環境の重要性を説くソーシャル・エコロジーの思想を取り上げるが、それについても自然の限界に対して楽観的すぎると指摘する。そして、環境危機という現実への自覚と対処を怠ることなく、単なるサバイバルではなく、エコロジーを一層高い価値として選択する根源的エコロジーの思想を重視し、その先駆となっていったことにアナーキズムの現代的意義を見い出している。いかなる自由の制度にも魂が欠けては硬直的な抑圧に転化することから、抵抗の思想、自然主義としてのアナーキズムの再評価が必要なことが強調される。

 第6章「現代社会における禅思想の展開」においては、東欧と旧ソ連の社会主義体制の崩壊に端を発した民族的・宗教的問題の表面化をはじめとして、現代社会の様々な問題の背景となっている情念の問題の解決への一つの示唆として、心を対象とした心理的および身体的訓練の方法=一種のテクノロジーとしての座禅の可能性を提示している。また、現代社会におけるディスコミュニケーションの状況に対して、人間自身に根ざす想像力に訴えるコミュニケーション行為としての禅的モデルが、現代社会の要請に応えうる実践的な言語戦略であると結論づけている。

 3 以上のような論文の内容を検討してみると、次のような長所を挙げることができる。第一に、自由を追究したアナーキズムと禅という東西の思想をきわめて多様な視角から取り上げ検討し、さまざまな問題領域を発見し、諸問題の連関関係を明らかにした。ことに自由という概念が、究極的には、人間の自然に基づく道徳・倫理あるいは相互連帯や相互扶助という社会的共同性と密接に結びつき、総合されて初めて実現されるにいたるものであることを明らかにしている。第二に、禅とアナーキズムを自由の思想として比較する研究はきわめて少ないなかで、思想的根源と関心の共有として両者の共通性を見出し、新たな研究領域の基礎づけを試みた。第三に、アナーキズム概念に関しては従来しばしば理解が混乱していたが、本論文では、それを大胆に再構成して、それに多様な側面があることを明らかにしている。なかでも、アナーキズムが所有者支配の体制からの自由を説いていたことを一層進めて、所有の欲望それ自体を生み出す現代社会にあって、社会的連帯と相互扶助を通じて人間のゆがんだ所有欲望を超え、所有自体からの自由への方向性をおさえたことは重要である。第四に、老荘思想・禅思想等の東洋思想を、古典古代ギリシャの思想と共通性をもつものとして捉えることによって、アトミスティックな政治的自由を中心に据える西欧近代の特異性を浮き彫りにするのに成功している。第五に、禅とアナーキズムの伝統が、今日においても重要かつ諸々の可能性を秘めた思想であることを明らかにしえていることによって、現代を捉える新たな視角の提示に成功している。

 もとより問題点がないわけではない。第一に、本論文の研究の成果を、ひとつの理論体系として提示していく上で、考察が不充分である感は免れない。それとかかわることであるが、西欧近代の原理をいささか個人主義に単純化して理解している嫌いがあるが、それについてもさらに深い考察があってもよかったのではないか。第二に、自由の思想を検討していく上で、シュティルナーに見られフーコーの晩年にもあった自己の問題を研究対象に加えることにより、禅との共通性、比較可能性を一層広い文脈におくことが必要ではなかったか。第三に、東洋思想に対して総じて評価が甘い傾向がある。その思想構造のなかに、権力と結びつく可能性をもっている点について立ち入った検討を加えていない。第四に、アナーキズムの所有論、国家と社会に関する議論や老荘思想に関する叙述のなかで、矛盾しかねない曖昧な表現や不適切な記述が散見される。しかし、そのような諸点は本論文の長所を大きく損なうものではない。

 東西の思想を広範に検討して、自由という基本的概念の諸々の問題領域を発見し、その関連をつけた本論文の功績は高く評価でき、学界に対する貢献は大きい。よって本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。

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