1.本論分は、長期的関係を結ぶ個人の間で成立する協調的な行動を分析する「繰り返しゲーム」の理論を、新しい方向へ発展させようとする研究であり、序章1章と4本の研究報告からなる合計5章で構成されている。第2章から4章は、長期的関係を結ぶ人たちが、相手の過去の行動に対して各人別々の(不完全な)情報を得るケースを分析している。これは、経済分析での応用上は重要でありながら、従来の手法では分析が困難であったため、ほとんど手付かずの状態であった分野である。最後の章は、長期的関係における行動を、頻繁に改定できないように制度を変化させたときに、協調の可能性がどう変化するかを分析したものである。 論文の中核になるのは第2章であり、ここにおいて関口氏は、永らくゲーム理論家の間で困難な問題として知られていた著名な未解決問題(各人に別個の観測ノイズがある場合の、繰り返し「囚人のジレンマ」ゲームにおける協調の可能性)に、肯定的な解決を与えることに成功した。 以下ではまず、一まとまりの研究プロジェクトである第2章から4章までの意義と評価を述べ、次にやや独立した内容である5章を論じ、最後に全体に関する審査結果を記すことにする。 2.第2章から4章は、長期的関係を結ぶ人たちが、相手の過去の行動に対して各人別々の(不完全な)情報を得るケースを分析する、「私的な不完全観測の下での繰り返しゲーム」の研究に充てられている。繰り返しゲームの研究は、過去の相手の行動が確実に分かる「完全観測」のケースから出発し、この条件の下ではかなり広範囲にわたって効率的な結果が均衡として実現できることが明らかとなった。有名な「フォーク定理」である。次に、相手の行動が不完全にしかわからないケースの中で、全員が同じシグナルを得る「公的な不完全観測」という特殊ケースが分析され、この場合についてもかなり一般的な条件の下でフォーク定理が証明されている。関口氏の研究はこれに対して、相手の行動が不完全にしかわからないケースの中で、各人が別個のシグナルを得る「私的な不完全観測」という未開拓のケースを分析し、この分野の研究を大きく進展させた。 不完全観測の二つのケース(公的と私的)はカルテルの例で考えると分かりやすい。いま、カルテルを結ぶ企業は各期に生産量を独自に決定するとし、他の企業の生産量は直接には観察できが、市場価格は全員が観察できるとしよう。さらに、需要の変動によって生産量と価格には確率的な関係があるとすると、市場価格は相手の生産量の不完全なシグナルとなる。これは、過去の行動(生産量)に関する不完全なシグナルとして、同じのもの(市場価格)を全員が観測するという「公的な不完全観測」の一例で、Green and Porter(1984)以来すでに詳しく分析されてきたケースである。 しかし、現実を振り返ってみると、生産量を企業が決めて価格が市場で自動的に決まるというケースはあまり見当たらず、より現実的なのは次のような状況であると考えられる。各企業は、製品差別化のある財(たとえば発電機)を作っており、価格を操作して競争している。ただし、公表されている価格と実売価格には差があり、後者は顧客(発電機の納入先)との交渉で決められている。各企業はライバルの実売価格を完全には把握できないが、それと確率的に関係している自らの売り上げを見ることによって間接的な情報を得る。これは、産業組織論で名高い"secret price cutting"という状況で、過去の行動(実売価格)に関する不完全なシグナルとして、各人別々のシグナル(売り上げ)を観測するという「私的な不完全観測」の一例で、本論文の主要な分析対象となるものである。 私的な不完全観測のケースは上述のsecret price cuttingで代表されるように、さまざまな重要な応用例があるのだが、これまではほとんどフォーマルな分析がなされてこなかった。その理由は、完全観測や公的な不完全観測のケースと比較して、私的な不完全観測のケースは本質的により複雑な数学的構造を持っているためである。完全観測や公的不完全観測の場合には、各時点でプレーヤーが共通に持っている情報をもとにしてこれからプレーする均衡を決めて行く事ができる。このことは、ダイナミック・プログラミングの手法を使ったAbreu-Pearce-Stacchettiの「自己生成条件」という強力な手法を用いて均衡を特徴付けできることを意味し、これまでにこのケースはほぼ完全に分析し尽くされてきた。これに対して、本論文が扱う私的不完全観測のケースは、各時点でプレーヤーが共通に持つ情報が無いために、上述の自己生成条件という手法が使えなくなり、均衡の一般的な特徴づけを与える理論は今のところ何も知られていないのである。 本論文の2章から4章はこの未開拓の分野の分析を大きく進展させるものとして評価できる。第2章の"Efficiency in Repeated Prisoner’s Dilemma with Private Monitoring"は、囚人のジレンマが繰り返しプレーされるときに、各人が相手の行動に関する別個のシグナルを得るケースが分析されている。これはきわめて自然かつ単純な状況ながら、これまでのところ協調が達成できるか否かということのみならず、「裏切りの繰り返し」という自明な均衡以外にどんな均衡があるかさえまったく知られていなかった、著名な問題である。これに対して第2章は、囚人のジレンマの利得に一定の制限をつけた上で、「情報が完全に近く、各人が将来をあまり割り引かないならば、効率的な利得がほぼ達成できる」ということを証明し、長年の未解決問題にはじめて肯定的な解決を与えることに成功した。 証明は二つの独創的なアイデアに基づいている。一つは、比較的初期にさえ協調が成立すれば(将来協調が崩れても)高い平均利得が得られるような、比較的低い割引因子に着目し、その下でうまく機能する均衡をまず設計しておいて、次に割引因子が1に近いケースにこれを変形するという手法である。もう一つは、不均衡状態においてきわめて複雑になる利得を、単純な上限と下限を使ってラフに評価する"path dominance"という新しい手法を開発することによって、この種のゲームの困難さの原因である戦略設計の複雑さの問題を乗り越えたことである。 第3章"Repeated Games with Improving Private Signals"は第2章の拡張になっている。第2章では、囚人のジレンマの利得に一定の制限を設けた上で効率的均衡の存在を証明したが、ここではそうした利得の制限をはずして、代わりに情報の精度が時間とともに上がるという仮定の下に効率的な均衡の存在を証明している。非常におおざっばに言えば、情報が日々改善されてゆくと、過去に得たさまざまな情報にあまりこだわらずに、最新の情報のみを見ればよいことになり、均衡の構成が容易になるのである。 第4章"Existence of Non-Trivial Equilibria in Repeated Games with Private Monitoring"は、無限回繰り返しゲームを取り扱った前の二章と異なって、有限回の繰り返しゲームに私的不完全観測のあるケースを取り扱っている。ここでは、「チキン・ゲーム」を含むあるクラスのゲームにおいては、繰り返しの回数を十分長く取ると、各期のゲームのナッシュ均衡の繰り返しでとは異なった、自明でない均衡が構成できることが示されている。 第2章から4章に対する審査委員会の評価は次のようである。第2章は応用上重要であり、なおかつ理論的に困難な未解決問題に独創的な手法で解決を与え、経済理論を進展させた重要な結果と認められる。第3章は自ら得たアイデア(2章)を敷延・拡張するという研究者として重要な能力を顕したものとして評価できる。第4章は、一般的な均衡の特徴づけが知られていない中で、ある種のクラスのゲームに適用できる比較的一般的な(自明でない)均衡の構成法を示した点に意義が認められる。 一方で、次のような課題も審査委員から指摘された。全体として、個別のゲームに対してうまい均衡を構成するというアプローチがとられているが、これから一般の私的不完全観測ゲームに妥当する理論をどのように構築したら良いかということがまだ明確でないということが第一点である。次に、第3章と4章に関しては、そこで展開されているモデルの具体的な応用例をより明確にする必要があることが指摘された。また、4章に関しては、構成された均衡の効率性を上げる方法が無いかを検討する方向で研究を深化させるよう要望が出された。 3.第5章"The Role of Contracts in Repeated Games"は、やや独立した内容を持ち、長期的関係における行動を頻繁に改定できないように制度を変化させたときに、協調の可能性がどう変化するかを分析したものである。たとえば、繰り返しゲーム的な状況で競争する鉄道会社の運賃が、規制によって1年に1度しか改定できないとしたときは、そのような制限が無くいつでも運賃の改定ができるケースに比べて、カルテル的な価格の釣り上げが容易になるかどうかというのが、この章で扱う問題の一例である。くり返しゲームで行動の改定が頻繁にできなくなると、大きく言って二つの影響がある。一つは、相手が裏切ったときにすぐには仕返しができないという、協調成立に対する負の影響である。一方で、各期の状況(上の例では月々の需要)が確率的に変化する場合は、各期の状態にあわせたきめの細かい裏切り方ができなくなり、裏切りから得られる利益が減るという、協調成立に対する正の影響も存在する。第5章は、後者の影響が強いケースが分析されている。 この章は、応用上十分な意義のあるケースについて、これまでの理論を拡張したものとして評価できる。また、より一般的には、くり返しゲームの戦略の一部(ここでは戦略の改定のタイミング)が明示的な契約で決まり、残りが暗黙の契約(均衡)で決まるという、契約理論で比較的未開拓な分野に分析を拡張したものとしてその意義が認められる。一方で、この章の内容は抽象的な理論を論ずる現在のスタイルを変えて、鉄道運賃改定のような具体的な応用問題の研究として結果に肉付けをするほうが良いのではないかという意見も出された。 4.全体として、本論文は永年の未解決問題の解決を通じてわれわれの知見を前進させる、特別に優れた内容を持つものと評価でき、博士(経済学)の学位授与に値するものであるという結論に、審査委員全員が一致して到達した。なお、私的観測下の繰り返し囚人のジレンマ問題の肯定的解決(第2章)はすでに1996年の国際ゲーム理論学会(Stony Brook)で本人により公表され、Journal of Economic Theory誌に掲載が決定している。 |