学位論文要旨



No 112977
著者(漢字) 石井,元章
著者(英字)
著者(カナ) イシイ,モトアキ
標題(和) 1897年ヴェネツィア・ビエンナーレへの日本美術の参加
標題(洋)
報告番号 112977
報告番号 甲12977
学位授与日 1997.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第182号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小佐野,重利
 東京大学 教授 河野,元昭
 東京大学 助教授 三浦,篤
 東京大学 助教授 木下,直之
 東京芸術大学 助教授 佐藤,道信
内容要旨

 「1897年ヴェネツィア・ビエンナーレへの日本美術の参加」

 本研究は、1897年ヴェネツィアで開かれた第2回国際美術博覧会(2年毎に(ビエンナーレ)開かれることからビエンナーレと通称される)への日本美術の参加をテーマとして取り上げる。このビエンナーレは、イタリア国王ウンベルト1世の成婚25周年を記念して、1895年に始められた国際美術展覧会である。昨1995年に百周年を迎えたことも手伝って、イタリアでは頻繁にビエンナーレの歴史や問題点が論じられている。

 一方、日本の近代美術史界では、近年、明治期における美術概念の成立過程や、美術行政制度の検証が盛んに行われており、その中で万国博覧会を通じて「工芸品」の輸出を主眼とした美術における殖産興業政策も、次第に明らかにされている。

 本研究が取り組もうとするのは、この日伊双方の最近の研究が看過していきた盲点ともいうべき、日本美術協会のビエンナーレ参加過程である。イタリアにとってみれば、ヨーロッパ人二人のコレクションと並んで同協会が日本美術品を展示したことは、19世紀における唯一の例として意義がある。その参加がヨーロッパにおける日本熱、およびジャポニスム批評を背景とし、アール・ヌーヴォーなどの新しい美術の流れの形成に資する一要素として考慮されていたことは、論を俟たない。他方、日本によってのビエンナーレは、「純正美術」展覧会であるという点で、美術が産業の一つとして展示された他の万国博覧会と大きく異なる。参加が直前に決定し、臨時博覧会事務局を経ずに日本美術協会に一任されたことは、明治政府の関心の低さを示している。参加の動機はあくまでも1900年のパリ万国博覧会の予備調査にあり、それにフランス、イタリア両国の「工芸」調査という副次的目的が、農商務省から付加されたのであった。この希薄な参加意欲の証拠が、日本名誉領事の報告書を除いて、参加経緯に関する記事が官報に全く掲載されず、農商務省発行の公式報告書が存在しないことにも見て取れる。

 しかしながら、そのためにビエンナーレの日本美術参加の意味を軽視することはできない。なぜならば、これまでその経緯が全く明らかにされていなかったという根本的な研究理由に加えて、その裏に、他の万国博覧会には見られない、開催都市との個人的、具体的な繋がりを見い出すことが可能だからである。すなわち、ヴェネツィア商業高等学校で日本語を講じた同市在住の日本人や、30年以上にわたって日本名誉領事を務めたグリエルモ・ベルシェーを中心に、ヴェネツィアにはある種の親日的環境が形成されていたのである。しかもこれらの事象の根はすべて、1873年5月に国家的責務を担ってイタリアを訪問した特命全権大使、所謂岩倉使節団、及び、同使節に随行した東京駐箚イタリア全権公使アレッサンドロ・フェー・ドスティアーニ伯爵の功績であったことが確認できる。この親日的環境こそが、日本への興味をヴェネツィアに惹起し、最終的に他のイタリアの都市に先だって日本美術を展示することになる舞台を用意したと考えられるのである。

 ビエンナーレ前史を扱う第1部では、3章を設けてそれぞれ、ヴェネツィアの親日的環境、イタリアにおける日本美術批評の形成、19世紀末の日本の美術理論の変遷について述べる。

 第2部は、今回の調査で新たに発見することができた日本、イタリア、フランスの史料を基に、当該ビエンナーレにおける日本の部の再構成、及びその問題点の解明を試みる。第4章では、ベルシェーと外務・農商務両省間の通信を基に、日本美術協会が参加を決定するまでの経緯を追う。第5章は、同協会の展示とそれに関連する諸問題を扱い、続く第6章は、日本美術協会の作品以外に展示された二人のヨーロッパ人の日本美術コレクションについて述べる。第7章では、日本、ヴェネツィア双方の一大関心事であった、日本美術は純正美術か否かという問題を解明する。

 第3部では、ビエンナーレ後の状況の追跡を行う。先ず、第8章でヨーロッパ屈指の日本美術コレクションであるキョッソーネ・コレクションのジェノヴァへの到来と、日本美術批評へのその影響を探る。第9章は、1897年の日本美術の参加が後のビエンナーレにもたらした変化と、1911年のトリノ・ローマ二重万国博覧会への日本の参加について述べる。

 本研究はヴェネツィア・ビエンナーレへの日本美術の参加をテーマに据えながら、その周辺に付随する諸問題を、一つの大きな文化現象として日伊文化交流の流れの中で論じようとするものである。そのため、従来の研究と周辺部分で重なることはあっても、全体が重複することはない。また、対象となる分野は、美術品の作品研究ではないという意味で、純粋な美術史研究ではありえない。美術史、美術批評史、文化交流史、歴史の中間に位置する研究と考えるのが妥当であろう。

 しかし、方法論はあくまでも一次史料の発掘であった。すべては、新史料、または新聞・雑誌等に刊行されながら、これまで顧みられなかった史料の提示と、それに基づく事実の再構築、およびその解釈であった。本研究の意義は、第一にこの点に求められるものと考えている。

審査要旨

 本論文は、序、第1部(1-3章)、第2部(4-7章)、第3部(8-9章)、結論と資料編(1-9章)、四百字詰原稿に換算して本文が470枚、資料編が約千枚に及ぶ大部の研究である。論文の核たる第2部において日本外務省外交史料館、ヴェネツィアの近代美術歴史史料館(Archivio Storico d’Arte Contemporanea:ASAC)に保管される一次史料やガゼッタ・ディ・ヴェネツィア紙などに載る関連の同時代記事を精査して、これまで日伊文化交流史研究の中でまったく等閑に付されていた1897年第2回ヴェネツィア・ビエンナーレへの日本美術協会の参加の経緯、出展作品の同定とその展示形態および売却状況、同協会の出展を補完する形で展示されたエルネスト・ゼーゲアのコレクションとフェー・ドスティアーニ伯爵のコレクションの展示に至る背景および展示作品をほぼ明らかにした。さらに、この日本美術の参加によって開催側のビエンナーレ企画委員会と日本側とのあいだに生じた日本の出展作品が純正美術か応用美術か否かをめぐる衝突や、純正美術と応用美術(美術工芸)の境界を曖昧にするGak(額装)という混成概念が同ビエンナーレ日本部門のカタログで初めて分類用語として採用された経緯などについても、原史料を踏まえ客観的な考察を加えている。

 日本のビエンナーレ参加は日伊の個人的な交流が機縁となって実現した事実を指摘するが、第1部ではその実現の前史を扱い、19世紀後半ヴェネツィアの親日的環境の形成を同じく日伊双方に眠る原史料を発掘して明らかにする。特にヴェネツィア・ビエンナーレ企画委員会側と日本政府の橋渡しとして活躍したヴェネツィア駐在日本名誉領事グリエルモ・ベルシェーと、ヴェネツィア商業学校で日本語教師を勤める傍ら、ヴェネツィア王立美術アカデミアで彫塑を学んだ彫刻家長沼守敬のヴェネツィア時代については発掘史料に基づき多くの新知見を提示した。また、イタリアにおける当時の日本美術批評に関しても目配せを怠らず、特にビエンナーレ企画委員会のアドヴァイザー役にあったと思われるヴィットーリオ・ピーカの批評については、彼の依拠した欧米の二次文献(エドモン・ド・ゴンクールおよびゴンスの著作)を綿密なテキスト比較により跡づけた。

 第3部では、キョッソーネ・コレクションの渡来以後のイタリアの日本美術批評の変容と第2回ビエンナーレ参加以後のイタリア国内の万国博覧会やビエンナーレへの日本美術の参加の歴史を略述し、日伊双方における純正美術と応用美術の制度化や博覧会・ビエンナーレへのその適用の仕方に及ぼした第2回ビエンナーレへの日本参加の影響を探る。

 本研究は、資料編が端的に示すように、日伊双方にほとんど手つかずのまま眠っていた夥しい原史料を丹念に発掘し、19世紀第4四半期における日伊文化交流史の諸相の一端を明らかにした画期的な業績として高く評価できる。しかし、美術史学の学位論文としては、言及された個々の美術作品に関する考察が手薄であり、また原史料に語らせる考証的、客観的記述法に固執したため、論文の構成および章立てが多少平板になった嫌いがあるなど、問題点はなくはない。とはいえ、今後の日伊美術交流史の研究にとって大きな貢献をなす貴重な原史料を発掘提示した優れた独創的な研究であることは疑いなく、博士(文学)の学位を授与するにふさわしいと判定した。

 (なお、本論文の大部分はイタリアおよび日本の研究雑誌に既刊もしくは掲載予定である。)

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