大気化学におけるNOの重要性は、低濃度のNOがオゾンの光化学生成における制限因子となっていることにある。特に、近年北半球において対流圏オゾンの著しい濃度増加が報告されており、その原因は人為起源のNO等の放出量の増加に伴うオゾンの光化学的生成の増加によるものと考えられる。比較的清浄な対流圏でのNO濃度は数pptから数十pptの範囲であると考えており、対流圏オゾン光化学理論の検証及び、オゾン生成量の見積もりのためには、高感度のNOの測定装置の開発が必要となった。 現時点での対流圏NOの測定装置としては、オゾンを用いた化学発光に基づく装置が市販されているが、その検出感度が水蒸気の影響を受ける他、検出下限が5分間で約60ppt程度であり、リモートな大気中での測定には不十分である。研究者レベルでは、この原理に基づく高感度NO測定装置が自作されており、数pptレベルでの測定が行われている。また研究者レベルで実用化されている手法として、2台の波長可変パルスレーザーを用いた紫外・赤外二重共鳴によるレーザー誘起蛍光法がある。この手法では数pptレベルでの観測は可能であるが、2台の波長可変レーザーが必要であり、光軸調整を非常に精密に制御する必要がある。このような現状から、以上の測定原理とは本質的に異なる新しい方法論を開発する意義があるものと考え、本研究を行った。 本研究では、高感度、高精度かつ他の化学種の干渉から免れた高い選択性を持つNOの測定手法を開発する目的から、レーザー二光子共鳴イオン化の原理を用いる新しいNOの測定手法を開発した。226nm付近の紫外パルスレーザーを用いて、A2+-X2遷移の(0,0)bandを経由して、レーザー二光子共鳴イオン化法でNO分子をイオン化させる。生成されたイオンは飛行時間(TOF)型質量分析計を用いて選別計測を行い、パルス計数法によりNOの濃度を検出するようにした。 測定装置(図1)は主に、(1)Nd-YAGレーザー励起の色素パルスレーザー、(2)空気試料を導入するためのパルスパルプが取り付けられた高真空イオン化室、(3)TOF質量分析計とパルス計測システム、からなっている。清浄対流圏大気中に存在する低濃度のNO分子を高感度に測定すると同時に、他の窒素酸化物からの干渉を防ぐ目的で、本研究では次のような工夫を行った。 ・ 他の窒素酸化物からの干渉を防ぐ目的から、空気試料はパルスノズルを用いて、超音速自由噴流にし高真空のイオン化室に導入した。超音速ビームの回転振動的に冷却されたNO分子と、他の窒素酸化物から光分解で生成された回転振動的に励起されたNO分子を区別する。 ・ 生成されたNOイオンの計測はTOF質量分析計を用いてイオンの選別計測を行った。NOイオンと、イオン化室の残留ガスが紫外レーザーの散乱光を吸収し生成されたイオンを完全に分離できるので、バックグラウンドノイズ強度を大幅に減らすことができる。 1)レーザーイオン化法によるNOの高感度測定図1.二光子レーザーイオン化法を用いたTOF質量分析型NO濃度測定装置システム. 図2aに100ppbのNO/N2ガスを用いて得られた典型的なTOF質量分析スペクトを示す。13ms付近に現れた強いピークは、その波長依存性が典型的なNOイオン化スペクトルを示したので、NOイオンであると判断した。また、その他にも他のイオンが現れているが、これらはイオン室内の残留ガスからレーザー散乱光により生じる不純物イオンだと考えられる。 図2bに典型的な二光子イオン化スペクトルを示す。スピン多重度によるA2+-X23/2とA2+-X21/2遷移のサブバンドが分かれている。また各回転線の帰属を行った結果、スペクトルはNO分子のX状態からA状態の遷移であることが確認できた。100ppbのNOのガスを用いて、レーザーのパワー(35-40mJ)に対するNOイオン強度の依存性を調べた結果1.75乗の依存性が現れた。NOのイオン強度(ni)を以下の式で近似的に表した時に、 強いレーザー強度の場合は、siI≫になり、レーザーの強度に対して一次に依存する。逆に、弱いレーザー強度の場合は、siI≪になり、レーザー強度に対して二次の依存性になる。したがって本研究で得られた1.75乗の依存性は、NOイオン化が部分的飽和(patial saturation)の二光子過程であると考えられる。またこの結果から、実大気中の測定ではreal-timeでレーザー強度の測定を行い、得られたNOイオンシグナルに対してレーザー強度の変化に対する補正を行うようにしている。 図2.(a)TOF質量スペクトル,(b)NOイオン化スペクトル. レーザー強度の他、パルスノズルのX/D(X:パルスノズルからイオン化領域までの距離、D:ノズルの直径)、TOF質量分析計の二次電子増倍管の高電圧などを変量として、NOのレーザーイオン化測定装置の感度をあげるための実験条件の最適化を行った。このような最適条件に基づいて、本測定装置に対してキャリブレーションを行った結果、10ppmから100ppbまで、広い範囲でシグナルの応答は濃度に対して直線性を示した。NO計測の検出下限は、以下の式により求められる。 ここでSbgはバックグラウンドシグナル強度、Cは装置の感度、tは積算時間である。その結果(表1)レーザーパワーを44mJ、ノズルのX/Dを45、TOF質量分析系の二次電子増倍管の高電圧を3.2Kvにした時得られた検出下限は、積算時間1分間で10ppt(S/N=2)である。従って、この新しいレーザー二光子イオン化の手法を用いて対流圏での低濃度のNOの測定が可能な高感度が得られた。さらに、TOF質量分析計による選別イオン計測により、非常に低いバックグラウンドシグナル(44mJのレーザーパワーで、約0.25CPS)が得られた。したがって、検出下限はほとんどバックグラウンドシグナルにはよらないsignal-limited detection conditionが得られ、積算時間の増加に従いほぼ正比例的に検出限度を低下できるものと思われる。 表1.レーザー二光子イオン化法でのNO濃度の測定感度2)他の窒素酸化物に対する高い選択性 レーザーイオン化の際、他の窒素酸化物も光を吸収し多光子過程を経て、以下に示したように、NOイオンを検出することがある。 しかしこれらの光分解で生成されたNO分子は回転振動的に励起されているが、一方、空気中に存在するNO分子は超音速ビーム中で回転振動的に冷却されているために、それらを分離できるものと考えられる。 図3に、同じ実験条件で同じ濃度のNO/N2ガスとNO2/N2から得られた、NOのP21+Q11(1/2)遷移ラインにおけるイオン強度の比(選択性とする)を、色々なレーザーの強度に対して調べた結果を示す。また、パルスノズルと普通のフローの方式で空気試料を導入した時との選択性の比較を行った。その結果ノズルの場合比較的に高い選択性が得られ、たとえば、レーザーの強度を44mJにした時に約50以上の高い選択性が得られた。この選択性はレーザー強度に依存し、レーザーの強度の低下ともに増加する。この結果は、NOイオン化は二光子過程であるのに対して、NO2は上の反応式(R2,R3)で表示されるように三光子過程であるということと一致する。 また、空気試料の導入をパルスノズルとフローの方式で行った場合を比較すると(図3)、ノズルを用いることにより高い選択性が得られた。その他、NOイオン化スペクトルから見積もった分子ビームの温度が25K-35Kであることから、NO2に対する高い選択性は、超音速ビームでの冷却作用によりもたされたたものと考えられる。 図3.パルスノズルとフローの方式で空気試料を導入した時の選択性のレーザー強度依存性。 これらの結果から本手法は対流圏の低濃度NOが測れるだけではなく、外の窒素酸化物による干渉を防ぐ面でも大変有効であることが示唆された。 3)空気中の水蒸気の影響に対する優れた特性 超音速ビームでの冷却作用は、他の窒素酸化物の干渉をなくす一方、分子ビームの中でNO分子と空気中に存在する水蒸気との間にvan der Waalsクラスターを生成する可能性をもたらす。もしNO-H2Oのようなクラスターが生成された場合には、NOイオン化検出効率を下げると同時に、実際のフィールドの観測において気象条件の変化による影響が問題となる。 本研究では、相対湿度40%(室温)を含んだ100ppbのNO/N2ガスをパルスノズルで導入し、水蒸気の影響を調べた。TOF質量分析計でNO-H2Oに相当するイオンピークをモニターした結果、225-227nmの励起エネルギーでは顕著なイオンピークが見つからなかった。NO-H2Oクラスターが生成された場合にはvan der Waals作用により基底状態(X)と第一励起状態(A)の間のvan der Waals作用の違いにより、NO分子のA-X遷移での回転振動レベルのシフトが起こり得る。しかし、水蒸気を含んだ100ppbのNO/N2ガスから得られたNOイオン化スペクトルいからは、遷移ラインの顕著なシフトが見らなかった。 さらに、生成されたNO-H2Oクラスターが光分解しNOを放出したと仮定した場合、Uncomplexd NOと比べ、NOイオン化スペクトルにおけるDoppler Broadening、およびNOの回転レベルの励起が予想される。しかし、相対湿度40%(室温)のNOのスペクトルには、Doppler Broadeningは現れなかった。また図4に示したように、100ppbのNO/N2ガスの相対湿度を85%(室温)まで増加させた時、得られたNOの回転温度は常に30Kを保ち、Uncomplexd NOの場合とほぼ同じである。さらに、さまざまな湿度で得られたNOイオン強度はほぼ一定である(図4)。従って本実験条件では、NO分子と水蒸気とのクラスターは生成しにくく、水蒸気による影響は無視できることが明らかになった。 図4.相対湿度に対するNOイオン強度と回転温度の変化4)化学発光法との同時連続測定の比較実験 最後に、本装置と市販の化学発光法を装置を用いて、屋外の空気を同時に導入させながら連続測定のテスト実験を行ったところ、幅広い濃度と時間範囲(約12時間)でお互いによい相関を示した。このような結果からも、本手法の実用性と有効性が示唆された。 まとめ レーザー二光子イオン化を手法を用いて、対流圏大気中に微量存在するNO測定の可能な高感度レーザー分光装置の開発に成功した。典型的な実験条件で得られた検出下限は10ppt(S/N=2)で、特にSignal-Limited測定条件が得られ、レーザーイオン化の手法で清浄な大気中の低濃度のNOが測定し得ることが示唆された。本手法は水蒸気の影響を受けない点で、市販の化学発光のNO計より優れた点を持っている。また赤外紫外レーザー誘起蛍光法と比べると、装置の簡便さと操作性の上で優れていると考えれる。 |