内容要旨 | | 1.序 トランス-ポリアセチレン(PA)は,アクセプターやドナーでドープされると金属に匹敵する電気伝導度を示す。PAでは電子・格子相互作用が大きく,ドーピングにより局在励起(荷電ソリトン,ポーラロン等)が生成すると考えられている。荷電ソリトンやポーラロンとは,電荷が局所的な構造変化を伴って自己束縛された状態である。ドープされたPAの構造や電子状態を明らかにすることは,導電機構を理解するうえで重要である。また,パウリ常磁性等の物性に関する研究から,ドーパント濃度が6mol%/CH以下では半導体であり,6mol%/CH以上では,金属状態になることが明らかにされている。本研究では、ドナー(Na)やアクセプター(I2,SO3,FeCl3,HClO4)でドープされたPAの分子構造と電子構造を,主にラマン分光法を用いて研究した。また,負のソリトン(電荷Q=-e,スピンS=0)のモデル化合物としてポリエン部の炭素数(n)が奇数の,-ジフェニルポリエニルアニオン[Ph(CH)nPh]-(DPn-と略す,図1a参照),また,負のポーラロン(Q=-e,S=1/2)のモデル化合物としてnが偶数の,-ジフェニルポリエン[Ph(CH)nPh](DPnと略す)のラジカルアニオン(DPn-・と略す,図1b参照)と19,19’,20,20’-テトラノル-,-カロテン(TNBCと略す)のラジカルアニオン(TNBC-・と略す,図1c)の可視・近赤外吸収スペクトルとラマンスペクトルを測定し,これらを基にしてドープされたPAの構造について考察した。 図1.モデル化合物の構造の模式図2.Naで低濃度にドープされたPAのラマンスペクトル 中性PAの1320nm励起のラマンスペクトル(図2a)では,1459,1290,1172,1068及び1008cm-1に5本のバンド(v1,C=C伸縮;v2,v3,v4,CH面内変角とCC伸縮の混成;v5,CH面外変角)が観測された。低濃度ドープされたPA(図2bとc)では,v1及びv4バンドが中性PAより低波数(1446と1057cm-1)に観測された。v2バンドは中性PAより低波数(1277と1275cm-1)に観測された。また,v5バンドはドーパント濃度の増加とともに低波数シフトし,相対強度が強くなっている。これまてのモデル化合物の研究から,v5バンドの強度が強くなることはPA鎖のねじれが大きくなっていることを示唆している。 3.Naで高濃度にドープされたPAのラマンスペクトル 高濃度ドープされたPAの1320nm励起のラマンスペクトル(図2dとe)では,v1及びv4バンドが中性PAより高波数に観測されており,低濃度ドープされたPAと逆である。v2バンドは中性PA及び低濃度ドープされたPAより低波数(1265と1255cm-1)に観測された。v3バンドの相対強度は強くなるが,v5バンドの相対強度は弱くなっている。以上のように,高濃度ドープされたPAのラマンスペクトルは低濃度ドープされたPAのスペクトルとは全く異なり,高濃度ドープされたPAで存在する局在励起は低濃度ドープの場合と異なると考えられる。 Naで高濃度ドープされたPAは2.5eV付近から赤外領域にかけて幅広い電子吸収を示すことが報告されているので,この電子吸収帯内に位置する様々な波長(488-1320nm[2.54-0.94eV])のレーザー光を励起光としてラマンスペクトルを測定し,中性PAのスペクトルと比較した(図3)。ドープされたPAのv1波数は,同じ励起光波長では中性PAの波数よりも高く,励起光波長が長くなると大きく低波数シフトしている(1590-1493cm-1)。 図2.(a)中性PAと(b-e)NaでドープされたPAのラマンスペクトル(励起波長,1320nm)Na濃度,b図3.(a)NaでドープされたPAと(b)中性PAのラマンスペクトルの励起波長依存性4.NaでドープされたPAの局在励起に関する考察 このv1波数の大きな分散を負ポーラロンと負ソリトンのモデル化合物に関する電子遷移エネルギー(E)とv1波数の関係から考察した。モデル化合物の電子吸収スペクトルに関して,DPn-(負ソリトンのモデル化合物)の場合,n-*遷移に起因する一本のバンドが観測された。DPn-・とTNBC-・(負ポーラロンのモデル化合物)の場合,-*遷移に起因する2本のバンドが観測され,低エネルギー側のバンド(I)は非常に弱く,高エネルギー側のバンド(II)は強い。図4に示したように,DPn-のバンドとDPn-・,TNBC-・のバンドIIの遷移エネルギーは,中性ポリエンと比較してかなり小さく,nが大きくなると同様の傾向を示して低エネルギーシフトする。したがって,電子吸収では負ソリトンと負ポーラロンを区別するのは難しい。 負ソリトンと負ポーラロンのモデル化合物のラマンスペクトルは,全体的なスペクトルパターンの類似性はあるものの,それぞれのバンドの波数及び強度については異なることが見出された。図5に示したように,v1バンドの波数は,負ソリトンと負ポーラロンのモデル化合物ともに,nが大きくなると低波数シフトする。負ソリトンのモデル化合物のv1波数は,負ポーラロンのモデル化合物のv1波数より高い。モデル化合物のv1波数をEに対してプロットすると(図6),中性ポリエン(aとb),負ポーラロンのモデル化合物(c),負ソリトンのモデル化合物(d)ともにEが大きくなるとv1波数も高くなる。しかし,それぞれの化合物群で異なる傾向を示している。 さらに,図6に様々な波長(353-1320nm[3.82-0.94 eV])の励起光で観測された中性PAのv1波数(e)とNaで高濃度にドープされたPAのv1波数(f)を励起光のフォトンエネルギー(Eex)に対してプロットすると,中性PAのデータは中性ポリエンと同様な傾向を示し,ドープされたPAのデータは局在励起のモデル化合物,特にポーラロンのモデル化合物と同様な傾向を示した。このような結果を基にすると,ドープされたPAに存在する局在励起の局在幅には分布があり,局在幅の異なる局在励起では図6cとdで示されるようにEが小さくなるとv1波数も低くなると考えられるので,励起光の波長を長くすると(励起光エネルギーを小さくすると),長い局在幅の局在励起からのラマンバンドが共鳴ラマン効果により選択的に観測され,そのためにv1波数が低くなると解釈できる。また,同じ励起光波長ではドープされたPAのv1波数が中性PAの波数より高く観測されることは,励起光の位置に電子吸収を持つ中性種のv1波数よりも,同じ位置に電子吸収をもつ局在励起のv1波数が高いからである。 図4.モデル化合物の電子遷移エネルギー▲,DPnとTNBC; ●,DPn-;○,DPn-・とTNBC-・図5.モデル化合物のv1波数▲,DPnとTNBC; ●,DPn-;〇,DPn-・とTNBC-・図6.モデル化合物におけるv1波数とEの関係(a,b,c,d)及びPAにおけるv1波数とEexの関係(e,f)(a)ジブチルポリエン(n=4-24);(b)DPn;(c)DPn-・とTNBC-・;(d)DPn-;(e)中性PA;(f)NaでドープされたPA ドープされたPAのv2波数は,同じ励起光波長では中性PAの波数より低く,励起光の波長を変化させてもv2波数のシフトは小さい(1267-1255cm-1,図3a)。モデル化合物のv2波数はnにほとんど依存せず,1276-1265cm-1に観測されており,局在幅の異なる局在励起は同様なv2波数を与えると考えられるので,ドープされたPAのv2波数の分散は小さいと解釈できる。また,v2は負の局在励起のマーカーバンドになる。 Naで高濃度にドープされたポリアセチレンに関して報告されている金属性の起源については,以下のように考えた。ドーピングにより,鎖長の長いセグメントにはポーラロン格子構造(ポーラロンが規則正しく並んだ構造)が生成する。鎖長の短いセグメントにはポーラロンが生成するが,鎖長の分布に応じて様々な幅のポーラロンが生成する。ポーラロン格子構造では,部分的に満たされたバンドができるので,金属的性質の起源はポーラロン格子構造と考えられる。 5.アグセプターでドープされたPAのラマンスペクトル いろいろなアクセプター(I2,FeCl3,HClO4)でドープされたPAのラマンスペクトルを観測し,ドープされた局在励起に由来するラマンバンドを観測した。観測されたスペクトルの全体的なパターンは,ドナーでドープされたPAと類似性がある。しかし,v2波数が1295-1300cm-1に観測されており,これは正の局在励起のマーカーとなる。特に,熱電能の測定から金属性が確認されたFeCl3とHClO4でトープされたポリアセチレンの場合には,部分的にポーラロン格子構造が形成され,金属的性質を示していると解釈した。 |
審査要旨 | | 本論文は6章からなり,導電性高分子であるポリアセチレンの構造に関する研究が記述されている. 第1章では,序論として,これまでのポリアセチレンの研究が述べられており,ソリトンやポーラロンという局在励起と物性の関係が説明されている.特に,多量にドープされたポリアセチレンが示す金属的な物性の起源を明らかにすることが未解決な重要問題として残っていることが記述されており,本研究では,金属性の起源を構造の視点から検討することが述べられている. 第2章では,ドナー(Na)でドープされたポリアセチレンのラマンスペクトルに関する研究が記述されている.種々の濃度にNaでドープされたポリアセチレン試料を合成し,488.0〜1320nmの励起光でラマンスペクトルを測定した.1320nm光では低濃度にドープされた場合でも,ドーピングにより生成した局在励起のラマンバンドが共鳴効果により観測された.また,高濃度にドープされたポリアセチレンのラマンスペクトルも得られている.低濃度ドープ試料と高濃度ドープ試料のラマンスペクトルが異なることから,低濃度ドーピングと高濃度ドーピングで生成する局在励起が異なることが示唆された. 第3章では,負ソリトンと負ポーラロンのモデル化合物の合成とそれらの化合物の可視・近赤外吸収スペクトル,ラマンスペクトルが記述されている.モデル化合物の可視・近赤外吸収スペクトルの研究から,負ソリトンと負ポーラロンを電子スペクトルで区別することは難しいことが明らかとなった.また,負ソリトンと負ポーラロンのモデル化合物のラマンスペクトルの特徴が明らかにされた. 第4章では,第1章で得られた,高濃度にNaでドープされたポリアセチレンのラマンスペクトルを,第2章で得られたモデル化合物のデータに基づいて解析している.その結果,高濃度にドープされたポリアセチレンでは,負ポーラロンが生成している可能性が高いことが示された.また,中性トランス-ポリアセチレンにおいて共役鎖長の分布があることを反映して,ドープされたポリアセチレンでは負ポーラロンの局在幅に分布があることがわかった.金属的な物性は,非常に長い共役鎖に規則正しくポーラロンが生成した構造(ポーラロン格子構造)で説明できることが述べられている. 第5章では,アクセプター(ヨウ素,三塩化鉄,過塩素酸)で高濃度にドープされたポリアセチレンのラマンスペクトルが記述されている.ヨウ素でドープされた場合には,正ポーラロンはほとんど生成していない.一方,三塩化鉄または過塩素酸で高濃度にドープされた試料では,物性測定から金属性が確認されていると同時に,ラマンスペクトルの測定結果から正ポーラロンが生成している可能性が高く,金属的物性は,ポーラロン格子構造で説明できることが述べられている. 第6章では,結語として本研究の内容が総括されている.ラマン分光法は導電性高分子の局在励起の同定,構造の研究に有用であり,ラマンスペクトルの解析には,モデル化合物の研究が役立つことが述べられている.ポリアセチレンの場合には,今後,本研究で対象としたモデル化合物よりもさらに炭素数の多い(すなわち,共役鎖長の長い)モデル化合物に関する研究が重要である. 以上のように,本研究では,ドープされたポリアセチレンのラマンスペクトルに関する研究が述べられており,ポリアセチレンの電子状態と分子構造に関して新しい知見が得られている.本論文の内容について,共著者の協力のもとに2篇の論文が発表されているが,金鎮烈氏の寄与が大きいと判断される.したがって,本論文の提出者である金鎮烈氏は博士(理学)の学位を受ける十分な資格を有すると認める. |