学位論文要旨



No 112986
著者(漢字) 車,允煥
著者(英字)
著者(カナ) チャ,ユンポワン
標題(和) 赤外分光を用いた導電性高分子の光誘起ダイナミックスに関する研究
標題(洋) [P​h​o​t​o​e​x​c​i​t​a​t​i​o​n​ ​d​y​n​a​m​i​c​s​ ​o​f​ ​c​o​n​d​u​c​t​i​n​g​ p​o​l​y​m​e​r​s​ ​s​t​u​i​d​e​d​ [i.e. studied] ​b​y​ ​i​n​f​r​a​r​e​d​ ​a​b​s​o​r​p​t​i​o​n​ ​s​p​e​c​t​r​o​s​c​o​p​y]
報告番号 112986
報告番号 甲12986
学位授与日 1997.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3312号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 古川,行夫
 東京大学 教授 西原,寛
 東京大学 助教授 朝倉,清高
 東京大学 教授 太田,俊明
 東京大学 助教授 田島,裕之
内容要旨

 共役電子が分子全体に広がったポリマーを共役ポリマーと呼び,化学的ドーピングによって高い電気伝導度を示す共役ポリマーを導電性高分子と呼ぶ.共役高分子は光伝導を示し,光伝導の発現には光照射によって高分子鎖上に生成した局在励起の鎖内や鎖間の移動などが深く関わっているので,光応答の分子論的知見を得るためには局在励起のダイナミックスを解明することが必要となる.局在励起はフェムト・ピコ秒の極めて速い時間領域からミリ・マイクロ秒の比較的遅い時間領域まで存在することが知られている.ミリ・マイクロ秒の時間領域まで存在している,電荷を持っているポーラロンやバイポーラロンなどの局在励起が光伝導の電流担体となりうる.そのため,ミリ・マイクロ秒の時間領域でのダイナミックスが光伝導を理解する際に重要である.

 光生成した局在励起は,電荷やスピンと共に格子変位を伴い,格子変位は振動スペクトルに何らかの変化をもたらすと考えられるので,振動分光法によって局在励起の同定,さらには,その構造に関する情報が得られると期待できる.また,振動スペクトルでは局在励起の動的な変化を観測することもできる.局在励起の光誘起ダイナミックスを測定する方法としては,時間分解分光法と変調分光法が広く使用されている.このうち,励起光の強度を変化させた場合の光誘起赤外吸収バンドの応答を測定する変調分光法はミリ・マイクロ秒の時間領域での局在励起の光誘起ダイナミックスの解析に適しているため,従来から幅広い理論的,実験的研究が行われているが,これらの実験で得られた測定データを定量的に解析するための標準的な方法は,未だ確立していない.

 本研究では差スペクトル法と位相-変調法を用いて導電性高分子の光誘起赤外吸収スペクトルを測定し,得られた測定結果を理論的に解析することによって,光照射によって生成した局在励起の生成・消滅のダイナミックスに関する知見を得た.第一に,非縮退導電性高分子であるポリパラフェニレン(PPP)を対象に選び,励起光を照射したときと照射してないときとの差をとる差スペクトル法によって測定した光誘起赤外吸収バンド強度の励起レーザーパワーI依存性を観測した(図1aの黒丸).励起レーザーパワーが0.2から10mWcm-2の範囲で1161cm-1バンド強度はI1/2に比例して増加した.これより強い励起レーザーパワーの範囲ではI1/3からI1/4に比例して増加した.弱い励起レーザーパワー範囲でのI1/2依存性は,局在励起の緩和が二分子過程であることを示唆している.しかし,強い励起レーザーパワー範囲でのI1/3からI1/4依存性は,局在励起の緩和が単なる二分子過程ではなく,複数の素反応過程が関与していることを示している.

 第二に,励起光の強度に周波数fの正弦変調をかけて,光誘起赤外吸収バンド強度と位相遅れ(これらの物理量は測定系のダイナミックスに関する情報を含んでいる)を観測する位相-変調測定を行った.測定したPPPの光誘起赤外吸収スペクトル中のすべてのバンドは,同一の時間挙動を示しており,単一の局在励起に帰属することができる.また,光誘起赤外吸収バンドの強度および位相遅れの変調周波数依存性を観測した.PPPの光誘起赤外吸収スペクトル中の1161cm-1バンド強度は,変調周波数fが1から20kHzの範囲でf-0.6の依存性を示した(図2aの黒丸).局在励起の消滅が一分子過程である場合はf-1の依存性を示すことが知られているので,この結果から,局在励起の消滅過程は一分子過程ではないことがわかった.さらに,励起光の変調に対する1161cm-1バンドの応答の位相遅れは,変調周波数の増加と共に27°から87°まで増加する(図3aの黒丸).位相遅れから計算した有効緩和時間は変調周波数に依存しており,このことも局在励起の消滅過程が一分子過程ではないことを意味している.

 第三に,以上の実験結果の理論的な解析を行った.すなわち,速い時間領域と遅い時間領域を含む局在励起の生成と消滅の速度論的モデル(図4)を仮定し,このモデルに基づいて実験結果のシミュレーションを行った.まず,光励起によってポリマーの鎖間にポーラロン対(鎖間電荷移動エキシトン)が生成する.生成されたポーラロン対は一分子過程(速度定数km)と二分子過程(速度定数kb)で基底状態(N)に戻るが,消滅せずに残ったポーラロン対は正のポーラロンP+と負のポーラロンP-を作る(速度定数kc).その後,正と負のポーラロンは対消滅し,基底状態に戻る(速度定数kr).このような過程を仮定することによって,ポーラロン対の濃度[E]と正(または負)のポーラロンの濃度[P]に関する速度式は以下の式で表される.

 

 

 ここで,Iは励起レーザーパワー,はポーラロン対生成の量子効率,は吸収係数である.さらに,正と負のポーラロンが同一の光誘起赤外吸収を与えると考えると,光誘起赤外吸収強度A(,)は次式で表される.

 

 ここで,K=lであり,はサンプルの吸収断面積,lはポーラロンが生成する領域の厚さである.式(1),(2),(3)を基にして,定常状態近似を仮定して差スペクトル法で測定した光誘起赤外吸収バンド強度の励起レーザーパワー依存性を計算し,位相-変調法により測定したデータをRunge-Kutta法を用いて数値計算した.

 まず,光誘起赤外吸収バンド強度の励起レーザーパワー依存性の計算を行い,測定データと比較した.計算結果は,I1/2依存性を示す弱い励起レーザーパワー領域とI1/3からI1/4依存性を示す強い励起レーザーパワー領域ともに,実験結果と良好に一致した(図1a).この結果から,局在励起の緩和の律速段階は正のポーラロンと負のポーラロンの対消滅であると考えられる.ただし,緩和には速い時間領域と遅い時間領域の過程が関与しており,速い時間領域の過程が,純粋な二次反応の場合に期待される性質からのずれの原因になっている.次に,位相-変調法による光誘起赤外吸収バンド強度と位相遅れの変調周波数依存性に関しても計算結果は実験結果の傾向を良く再現した(図2a,3a).今回の計算の結果から,仮定した局在励起の生成,消滅ダイナミックスのモデルは有力なものであると結論できる.同じモデルに対して異なるパラメータを用いることによって,PPPの他,ポリアリレンビニレン系高分子であるポリ(2,5-ジオクチルオキシ-p-フェニレンビニレン)(DOO-PPV)とポリ(2,5-チエニレンビニレン)(PTV)に対する実験結果も定量的に再現することができた(図1,2,3のbとc).

図1.(a)PPPの1161cm-1バンド,(b)DOO-PPVの1485cm-1バンド,(c)PTVの1539cm-1バンドの強度の励起レーザーパワー依存性図2.(a)PPPの1161cm-1バンド,(b)DOO-PPVの1485cm-1バンド,(c)PTVの1539cm-1バンドの強度の変調周波数依存性図3.(a)PPPの1161cm-1バンド,(b)DOO-PPVの1485cm-1バンド,(c)PTVの1539cm-1バンドの位相遅れの変調周波数依存性

 第四に,光照射によって生成した局在励起の同定を行った.同定は,PPPの光誘起赤外差スペクトルとヨウ素ドープしたPPPおよびパラセクシフェニルのラジカルカチオンの赤外吸収スペクトルとを比較することによって行った.パラセクシフェニルのラジカルカチオンは,電荷と不対電子を持っており,ポーラロンのモデル化合物であると考えられる.三つのスペクトルは互いに類似していることがわかった.この結果,ドーピングおよび光照射によって生成した局在励起は,ともにポーラロンであることが示唆された.

 本論文では,位相-変調法で得られた光誘起赤外吸収バンド強度および位相遅れの変調周波数依存性の理論解析をするために,数値的に微分方程式を解いた.その結果,光照射によって生成した局在励起のミリ・マイクロ秒の時間領域におけるダイナミックスを明らかにすることができた.このような方法は,仮定したモデルや,対象となる系を選ばずに使用できる一般的な方法である.

図4.光誘起ダイナミックスの過程
審査要旨

 本論文は6章からなり,赤外分光を用いた導電性高分子の光誘起ダイナミックスに関する研究が記述されている.

 第1章では,序論として,導電性高分子の光誘起過程の研究の位置づけが述べられている.光照射により生成する局在励起(エキシトンやポーラロン,バイポーラロンなど)の概念が説明され,これまで行われた光誘起過程に関する研究の概要が述べられている.特に,可視から赤外領域の吸収分光法における,時間分解測定や変調測定などの現状と問題点が記述され,問題点に対する本研究の方針が述べられている.

 第2章では,位相-変調測定法の理論的な背景,とくに非線形な応答を示す系に関する理論が記述されている.また,フーリエ変換赤外分光計を用いた位相-変調測定の実験法が述べられている.さらに,ポリパラフェニレンの光誘起赤外吸収スペクトルを差スペクトル法と位相-変調法により測定した結果が記述されている.差スペクトル法で測定した光誘起赤外吸収の励起光パワー依存性が測定され,励起光パワー(I)が低い場合には,依存性が観測され,パワーが高くなると,依存性に近づく.依存性は,光誘起種である正と負のポーラロンが二分子過程で対消滅することを示唆している.位相-変調測定法により,光誘起赤外吸収強度と位相遅れの変調周波数依存性が測定されている.光誘起吸収強度は,変調周波数が1kHz以上の範囲で,変調周波数fに関してf-0.6依存性を示した.また,本研究で検出された光誘起種の寿命はマイクロからミリ秒である.

 第3章では,ポリパラフェニレンビニレン置換体(DOO-PPV)の研究が記述されている.DOO-PPVの光誘起赤外吸収スペクトルが,差スペクトル法と位相-変調法により測定されている.また,光誘起赤外吸収強度と位相遅れの変調周波数依存性が測定されている.両方の実験において,ポリパラフェニレンの場合と同様な結果が得られている.

 第4章では,第2,3章で得られた実験結果を解析するための光誘起過程のモデルとそのモデルにもとづいた実験データの解析法が述べられている.提案されたモデルを以下に記述する.光照射によりポーラロン対が生成し,ポーラロン対は一分子と二分子過程で基底状態にもどり,ポーラロン対の一部は正と負のポーラロンに分離する.分離した正と負のポーラロンが赤外吸収スペクトルで観測されており,正と負のポーラロンは対消滅する.このモデルにより,差スペクトル法で測定された光誘起赤外吸収の励起光パワー依存性と位相-変調測定で得られた光誘起赤外吸収強度と位相遅れの変調周波数依存性のシミュレーションが行われており,計算値は測定結果とよい一致を示している.

 第5章では,ポリパラフェニレンで光照射により生じた局在励起を同定する目的で,ポリパラフェニレンのドーピング誘起赤外吸収の測定,モデル化合物であるセキシフェニルのラジカルカチオンの赤外吸収スペクトルが測定されており,ドーピングや光照射によりポーラロンが生成していると結論されている.

 第6章では,結語として本研究の内容が総括されている.位相-変調法は赤外吸収が弱い場合にも,信号雑音比がよいスペクトルを得ることができるので,導電性高分子の光誘起赤外吸収の測定に適している.また,光誘起過程を表す速度式を数値積分で解くシミュレーションの方法が,本研究で新たに提案されており,この方法は,他の導電性高分子の位相-変調測定の解析に適用できる一般的な方法である.

 以上のように,本研究では,ポリパラフェニレンなどの導電性高分子の光誘起赤外吸収の位相-変調測定法と数値計算を用いた測定データの新しい解析法が述べられており,導電性高分子の光誘起ダイナミックスに関して新しい知見が得られている.本論文の内容について,共著者の協力のもとに1篇の論文が発表されているが,車允煥氏の寄与が大きいと判断される.したがって,本論文の提出者である車允煥氏は博士(理学)の学位を受ける十分な資格を有すると認める.

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