内容要旨 | | 表面流出や地下水の流れ、そしてその中間層の水の流れのような水文過程の予測はシミュレーションモデルによって行なわれる。数理物理学に基づいた物理的な分布型モデルは水の中の質量やエネルギーの移行を表すものであり、各パラメータは直接的な実地観測によって評価することができ、また人為的な影響やその他の影響を考慮することができる。しかしながら、モデルの複雑さやデータの利用度、コンピュータ上の問題による困難さから、分布型モデルはまだ広く使用されてはいない。しかし、水田、灌漑、森林伐採や他の人為的な影響による地表面付近の水循環は熱帯地域において共通のものであり、それらの現象はすべて物理的な分布型水文モデルによってのみシミュレーションすることができる。 SHE(The Systeme Hydrologique Europeen)はデンマーク水文研究所によって開発された商業用モデルだが、険しいものと比較的平らなものの二つの日本の異なった特徴の流域に適用された。このモデルは山地流域には適当でなく、また地表面貯留水や灌漑のシミュレーションができないことが分かった。また、このモデルはグリッド数の制限やコンピュータの計算時間の制限のために広い流域に適用できない。生産技術研究所虫明Herath研究室で先に開発された分布型水文モデルはSHEモデルのいくつかの制限を克服している。しかし、地表面の流れはもっとも傾斜が険しい方向のみに流れ、そのため表面貯水量をシミュレーションすることはできないであろう。さらに、飽和した流れのモデュールの地下水の水頭を解くために有限要素法を取り入れるため、モデルはよりコンピュータの計算時間やメモリを使うことになる。 本研究の目的は、熱帯の広い流域に適用可能で、また地表面の堪水や伐採、灌漑もシミュレートできる分布型水文モデルを開発する事である。先に挙げた二つのモデルではこれらの事は不可能であった。この目的の為にこれから述べるようなIISDHMと呼ばれる、新たな分布型水文モデルを開発した。 IISDHM(The Institute of Industrial Science Distributed Hydrological Model)は、主に遮断水、表面流出と河川の流水、中間層の流れ、そして地下水流れを扱う4つのモデルから成っている。遮断水モデルではキャノピーを通過して地表に達する正味の降水量を算出する。キャノピーに貯えられる水と、キャノピーからの蒸発は遮断水モデルにより考慮されるのである。蒸発散量はモデルに入力される可能蒸発散量と、植物の根元部分の土壌の、実際の湿り具合から算出される。地表からの蒸発は土壌の最上部の層からしか起こらないのに対し、植物からの蒸散は、根のゾーンから起こる。表面流出は降雨が土壌への浸透の速度を超えて表面に溜まる場合や地下水位が表面に達してしまった場合に起こる現象である。表面流出はSt.Venant方程式の二次元拡散波近似を用いてそれぞれのグリッド内での値をシミュレートする事ができるが、同様にして人間による取水、水田の堪水、そして灌漑をシミュレートすることが可能である。St.Venant方程式のダイナミックまたはキネマティックな形態はどちらも河川ルーティングにおいて河川全体のネットワークを計算するのに用いられる。中間層流れモデルは表面流れモデルと地下水流れモデルを結ぶ働きを持っている。不飽和中間層における土壌水分の分布は3次元Richards方程式を解く事により求めている。地下水位は多層2次元水平流れとしてモデル化したが、それぞれの層は異質の帯水層とも、同質の帯水層ともすることが可能である。水頭の時空間分布は多層浸透性帯水層の非線型Boussinesq方程式によりシミュレートされている。 シミュレーションのための入力データセットを作成する自動化されたユーティリティソフトも開発した。モデルの出力はアスキー形式のファイルであり、時間的および空間的の2種類の結果として保存される。空間的な結果(例えば、土壌水分、実蒸発散、地下水など)はGISを用いて視覚化することが出来、また他のワークシートソフトでも表示できる。河川の異なったいくつもの場所でのハイドログラフも計算、保存される。また、異なった時間解像度における水収支を計算するユーティリティソフトも開発した。目的に応じては他の結果も保存することが可能である。 開発したIISDHMを3つの異なった大きさの流域、タイのPing川とChaoPhraya川、フィリピンのAgno川に適用した。 空間的な分布のデータ、例えばDEM(デジタル標高モデル)、土壌の分布、土地利用、河川のネットワークなどを用いるとPing川流域のP.1におけるハイドログラフを見れば分かるように流域の水文過程をかなり良好にシミュレートする事が可能である。また、Nakhon SawanのC.2観測ステーション、Ping川流域のP.7Aステーション、Nan川流域のN.14ステーションでのシミュレートと実測のハイドログラフを比較する事により、次の事が言える。C.2ステーションでは、1月から6月までの乾季には実測値と良くあった結果が出ているが、雨季にはあまり良い一致を見せない。P.7Aステーションではどちらのシーズンも良く一致するが、N.14ステーションではC.2ステーションと同様の結果が出ている。これは平坦な地域の標高データの解像度と正確さが、地表面の堪水をシミュレートするには十分でないからである。 Agno川流域のハイドログラフでは、シミュレーション結果は実測値と良い一致を見せている。また二つの洪水がここで解析され、その間の総降水量はほぼ同じであるにもかかわらず、シミュレートされたハイドログラフは大きく異なる事が見出された。これは、降雨の時間的分布の違いによるものである。そしてまたBingaダム、Sanroqueステーション、そしてCarmenステーションの間での洪水波の伝播の時間的遅れについても解析を行なった。その結果、降雨のない状態ではBinga-Sanroque間でおよそ3時間、Sanroque-Carmen間ではおよそ5時間の時間差が観測されているが、豪雨の状況下においては明瞭な時間差は生じないであろうと推測された。 IISDHMはすべての流域において観測値と比較したところ十分な結果を示した。すなわち、IISDHMはどのような流域にも適用することに成功したと言え、堪水、灌漑、取水などもシミュレートできた。モデルシミュレーションにより流域の水文要素の時空間分布を得ることが出来た。例えば、不飽和帯の各層の土壌水分の分布や飽和帯の地下水の深さの分布、蒸発散量の分布などである。また、モデルは河川流路上の任意の地点での流量を求めることができる。このモデルにより流域のすべてのタイプの水文要素の動きに関する完全な情報を得ることができ、水文研究者と気象研究者が計画や意思決定を行なう際に重要な意味を持つ。コンピュータの計算時間はそれぞれ62716平方km(2kmグリッドサイズ),3300平方km(1kmグリッドサイズ),1625平方km(500mグリッドサイズ)の流域に対して計算を行ない、各々24.5,3.5,2.25時間しか必要としない。(Dec-Alpha 433MHzCPUを用いた)。すなわち、大流域における分布型流出モデルの適用は十分実用的であるといえる。結果はより精度の良い標高データと他の入力データにより改善されるであろう。 このモデルは都市付近の洪水予測にも用いることができる。この際には、河川ルーティングにダイナミック形式を用い、河川ネットワークは有限差分法を用いて陰に解かれる。このモデルに必要なのは河川ネットワークと上流の流量と降水量である。この洪水予測モデルはチェンマイ市のPing川に適用し良い結果を得た。例えば、13時間後の洪水流量と水深をそれぞれ8または4パーセントの誤差で予測した。またプラエ市のYom川の二つの洪水(1995 8/5-10,1995 8/30-9/6)にそれぞれ適用した。どちらも非常に良いハイドログラフを再現した。 |
審査要旨 | | 流域の土地利用の変化による水循環系の変化を適切に予測するモデル,あるいは多様な地表面でのエネルギー・水循環系の大気-陸域相互作用を取り扱う大気-陸面結合モデルの構成に当たって,流域内の種々の土地被覆毎に異なった水文応答を表現できる分布型水循環モデルの開発が必要とされている.ここ数年間,市販のものも含めてかなりの数の分布型モデルが提案されているが,それぞれが適用上の制約を持っており,現状では使用目的と適用条件に応じてモデルを構築しなければならない段階にある.本研究は,現在進行中の国際共同研究「アジアモンスーン・エネルギー水循環観測研究」において,東南アジア熱帯地域の大河川流域でメソスケール大気モデルとの結合が可能な分布型水循環モデルを開発することを直接的な目的として行なわれた. 論文は7章で構成されており,第1章は序論であり,本研究の必要性,目的および論文の構成が示されている. 第2章は,「Development of model structure」と題し,本研究の主旨に最も適合する可能性が高い既存の2つのモデル,SHE(Systeme Hydrologique Europeen)モデルとIIS(Institute of Industrial Science)モデルを取り上げ,データが整っていてかつ地形条件と土地被覆条件が異なる日本の2つの小河川流域にこれらを適用して,各モデルの振舞いが検証されている.その結果として,SHEモデルでは不飽和流を1次元で扱っているため急峻な地形条件の流域には適合性が悪いこと,ならびに河川の氾濫や水田潅漑にともなう表面湛水を表現できないことが,IISモデルについては地表水の貯留の表現が困難なことが,また,両モデルとも多大な計算時間を要するため大流域には適用が不可能であることが,指摘される.この検討を踏まえて,本研究の目的を充たすモデルの構造が示される.モデルは,樹冠遮断サブモデル,蒸発散サブモデル,2次元地表流・1次元河道流サブモデル,3次元不飽和流サブモデルおよび2次元地下水流サブモデルで構成されており,特に地表流・河道流モデルと不飽和流モデルにおいて既存モデルの限界の克服が意図されている. 第3章は,「Model description」と題し,上述の各サブモデルの支配方程式,その数値解法,サブモデルの検証およびモデルの統合について述べられている.本研究におけるモデル開発で最も大きな目的の1つは,東南アジア熱帯域での大気-陸面エネルギー水循環相互作用を考える上で重要な洪水氾濫や水田潅漑による湛水を表現できる地表流・河道流モデルを構築することである.地表流には,St.Venant方程式の2次元拡散波近似を適用し,河道流については,1次元の同方程式を適用して河道網全体で同時に解を得るアルゴリズムを開発することによって,氾濫や浸水をモデル化することに成功した.また,河川あるいは地下水からの潅漑の効果も地表流モデルに組み込まれている.これらは,従来の分布型モデルには無い機能であり,新たな貢献として高く評価できる.地下水流と不飽和流の各モデルにおいても,効率の良い数値計算アルゴリズムの適用が試みられている.統合されたモデルでは,各サブモデルで適切な時間単位を選択でき,モデル間で効率的にデータ交換させることにより,並列的に計算が可能なようになっている.また,計算結果は,GISベースで各時間ステップ毎に記憶され,水文変量の空間分布の経時変化をアニメーションとして表わす機能も備えている. 第4章は,「Input data preparation」と題し,分布型モデル適用の前提条件として,地形,地質,土壌特性,植生,土地利用,潅漑区域などの空間的データ,および降雨量,可能蒸発散量,潅漑配水量,貯水池放水量,葉面積指数などの時間変化データをグリッド単位でGIS化する手法が説明された後,モデル適用の対象となるタイでの両種データの現状について述べられている. 第5章は,「Model application」と題し,3章で構築されたモデルが,流域規模が異なる3つの河川流域,すなわちタイのチャオプラヤ川上流支川ピン川(流域面積;3,250km2,グリッドサイズ;1km),チャオプラヤ川ナコンサワン地点(66,000km2,2km),およびフィリピンのアグノ川(1,600km2,500m)に適用され,ハイドログラフの実測値と計算値との比較による検証とともに,各種水文量の空間分布の時間変化の特徴が考察されている.雨季におけるチャオプラヤ川ナコンサワン地点のハイドログラフの再現性はあまり良好とは言えない.その最大の原因は,下流部の広大な低平地において既存の数値標高データでは地表流・河道流を適切に計算できる精度を備えていないことが上げられる.この改善は将来の課題として残されているが,他の2つの流域ではかなり良好な適用結果を得ている.所要計算時間は,Dec-Alpha 433MHzでの1年分のシミュレーションに対して,チャオプラヤ川流域で24.5時間,ピン川流域で3.5時間,アグノ川流域で2.25時間であり,実用に供し得る範囲にあると判断される. 第6章は,「Flood forecasting」と題し,河道流サブモデルにおけるSt.Venant方程式のダイナミック形式を洪水追跡に応用した結果について述べている.具体的には,上流の流量観測地点の流量と実況雨量を基に下流懸案地点の流量と水位を予測するものである.これをピン川チェンマイ地点とヨム川プラエ地点に適用し,例えば,ピン川では13時間後の予測誤差が流量で8%,水位で4%と,極めて高い精度で予測できることが実証されている.この洪水予報スキームは,すでにタイ王立潅漑局水文部に技術移転され,実用に供されている. 第7章には,本研究の成果がまとめられた後に,今後の課題が整理されている. 以上のように,本論文は,熱帯地域の大河川流域に適用できる分布型水循環モデルの開発に成功した.これはこのままの形で洪水予報や水資源予測に応用できるだけでなく,将来メソスケール大気モデルと結合させることにより,さらに長期の気候予測引いては水資源予測のツールに発展する資質を備えており,水文・水資源工学に大いに貢献している.よって,本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる. |