本論文は第一原理計算を活用したSnドープIn2O3(以下、ITO)の光電子物性に関する研究で、論文は研究の位置づけを述べた第1章と、実験結果の解釈と精緻な物理的描像の獲得を目的とした研究(第2章)と計算物理的な手法を積極的に材料研究の方向づけに使うための高速化に関する開発研究(第4章)と、結論(第6章)から構成されている。 対象としたITO薄膜はワイドギャップ半導体であるIn2O3に高濃度のSnを固溶させた薄膜で、Snの固溶に伴い、非縮退型から縮退型半導体に転移し、結果としてITOは可視光透過性と高導電性を兼ね備えた薄膜(透明導電膜)となることが知られ、工業的には広く透明電極、熱線反射用薄膜などの光電気デバイスとして広く利用されている。しかしながら最近のSTN型フラットパネルディスプレイへの応用にもあるように、このITO薄膜の更なる低抵抗化が望まれ、新規プロセス手法の開発により実験室レベルでは6×10-5cmの超低抵抗が実現可能なことが示されたが、このようなITO薄膜が実現できた構造要因は未だ明確ではなく、その抵抗値の再現性も乏しいことから実機での生産は難しい状況である。そこで低抵抗ITOの電気特性を支配する薄膜構造要因の特定とこれから推察されるであろう安定成膜のための指針の確立を目標とした基盤研究の一つとして、本研究では構造要因として点欠陥またはその集合体に注目し、特に主たるキャリア供給元である置換型Snのドナーとしての活性不活性メカニズムを電子論により解析することにより安定成膜のための指針探索を行っている。またこの研究結果により格子間酸素の生成エネルギーのキャリア密度、配位位置依存性の解析が、安定成膜のための材料面からの改良手法として不可欠であることが示唆されたため、構造安定解析のための第一原理計算手法の開発検討も行って、解析結果と合わせて一つの論文としてまとめている。 実験結果の解釈に関して得られた主な結果は、置換型Snのドナーとしての活性不活性メカニズムに関するものである。スーパセルモデルに基づく第一原理計算(LMTO-ASA法)を用いて、置換型Sn、格子間酸素、置換型Snと格子間酸素の複合格子欠陥の電子状態解析を行い、以下の解釈を示している。 ITOの母体結晶となるIn2O3の伝導帯はインジウムの5S軌道を主成分とする電子軌道から構成され、置換型Snの5S軌道はこの伝導帯と縮退した軌道を形成するが、本来のIn2O3の伝導バンドの分散状態を大きく歪めることはないことを確認し、置換型Snが熱などの活性化エネルギーを必要とせずに働くドナーであると解釈している。 格子間酸素と置換型Snの複合格子欠陥種の電子状態解析では、格子間酸素の2p軌道主成分とする局在準位がバンドギャップ中に形成されることが確認し、複合格子欠陥種が、置換型Snから放出された自由電子をトラップする中性不純物の一原因になることを示している。しかしながら格子間酸素だけを含む系の解析が複合格子欠陥種とほぼ同様な電子構造を示したことから、バンドギャップ中の局在準位の形成にはSnの効果は少ないとしている。実験的にSn濃度が低い領域では、置換型Snがほぼ100%キャリアを放出することから、格子間酸素の生成エネルギーにSn濃度が影響していることが推察され、構造安定性を議論できる精度を持つ第一原理計算手法を用いての上記の置換型Sn不活性メカニズムの詳細な検討が必要であることを指摘している。 以上の主たる解析に付随して、ITOの母体結晶となるIn2O3のXPS,BISによる分光学的データに、初めてバンド計算による物理描像を与え、In2O3の価電子帯の構成を解明し、また置換型Snを含む系バンド構造によりBellinghamらの置換型Snの導入の電子構造におよぼす影響についての仮定の妥当性を確認している。 構造安定解析のための第一原理計算手法の開発研究に関しては、局在電荷密度分布に対するクーロンエネルギー解析手法開発と精度確認、ファジイセル法とHarrisの汎関数法を組み合わせた構造安定性解析を行っている。前者に関しては、局在電荷密度の格子和によって作られる電荷分布を擬電荷密度という考え方を導入することによって、FLAPW型に変換した後、クーロンエネルギーを評価する手法を開発し、ガウス型の局在電荷密度の解析解との比較により、この手法が10-5Hartreeの精度でエネルギーを評価でき、物質系の安定性解析に十分応用できることが示している。またこのような高精度を実現できる理由として、電荷密度表現の変換の際の電荷数保存条件が重要であるとしている。 後者に関しては、ファジイセル法により凝集効果を取り入れた局在電荷密度分布を作り出し、これをHarrisの汎関数法と組み合わせることで、より高精度な全エネルギー解析を試みている。第一原理計算で求めた基底状態の電荷密度を、それぞれの構成原子の全電荷数が孤立原子のそれと同じになるように各原子サイトに局在した電荷密度の和に振り分けるため、BHS型の擬ポテンシャルと平面波、擬原子軌道の混合基底を用いてコーン.シャム方程式をセルフコンシステントに解いた後、電荷密度を各原子サイトの和に分解し、この電荷密度をHarrisの汎関数法へのインプットデータとして、結晶の構造安定性の評価を行っている。計算の有効性については、SiのCubic Diamond構造とHexagonal Diamond構造、SiO2の、quarts構造の構造安定性評価によって検証し、ファジイセル法によって形成された局在電荷密度は、Harrisの汎関数法と組み合わせることにより、SCF計算とほぼ同様な精度を示すことを確認している。 以上、実験を主体にした伝統的な材料工学に非経験的な手法を導入して材料研究の透過性、機動性を高めたという点で工学に寄与するところ少なくない。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。 |