学位論文要旨



No 113028
著者(漢字) 林,郁子
著者(英字)
著者(カナ) ハヤシ,イクコ
標題(和) 異常構造をもつミトコンドリアtRNAの構造解析
標題(洋)
報告番号 113028
報告番号 甲13028
学位授与日 1997.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4005号
研究科 工学系研究科
専攻 化学生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 渡辺,公綱
 東京大学 教授 干鯛,眞信
 東京大学 教授 澤田,嗣郎
 東京大学 教授 小宮山,真
 東京大学 助教授 上田,卓也
内容要旨

 動物ミトコンドリアにおいては核内遺伝子に比べて進化速度が異常に速いことが知られている。ミトコンドリアDNAの解析によって、原生動物より高等な動物ではtRNAの総数が22種類に減少し、さらに共通構造をもつtRNAが極度に減少することが推定されてきた。これらのtRNAのなかには通常のDループ・Tループ間相互作用を欠いているものばかりでなくDアームやTアームが欠落しているものの存在も知られている。これまでRNAレベルでの生化学的な実験を行うことによって、これらのtRNAの1次および2次構造解析が行われてきた。さらにこのような異常構造をもつtRNAが本当に生体内で機能していることも明らかになってきている。

 哺乳動物のミトコンドリアには、UCNコドン(N;A,T,G,C)とAGYコドン(Y;C,T)に対応する2種類のセリンtRNAが存在している(mt tRNASerUGA,mt tRNASerGCU)。これらの2つのtRNAは2次構造がかけ離れており、前者は通常のクローバーリーフ型に近い2次構造をもつのに対して後者はDアームの欠けた異常な2次構造を有している。これら2つのtRNAが同じミトコンドリアのアミノアシルtRNA合成酵素に認識されるということからも、これらのtRNAの立体構造に興味が持たれる。本研究では牛mt tRNASer(図1)のイミノプロトン領域のNMRを測定することにより、生化学的な実験から推定された2次構造および3次元相互作用を検証し、さらにコンピューターモデリングからその機能構造を検討することを目指した。

図1.2種類の牛mt tRNASer(a)bovine mt tRNASerGCU (b)bovine mt tRNASerUGA1)mt tRNASerUGAの立体構造解析

 当研究室で調べられた牛mt tRNAの融解温度を表1に示す。3つのmt tRNAは特徴的な2次構造をもつtRNAである(mt tRNAPhe;通常の3次元相互作用を欠いている、mt tRNASerGCU;Dアームを欠落している、mt tRNASerUGA;通常の3次元相互作用をもつ)。融解温度はtRNAの構造安定性を示す指標の一つとして用いられているものであるが、牛mt tRNAの融解温度は酵母tRNAPheと比べて一律に約20度低い。特にmt tRNASerUGAは通常のtRNAと非常によく似た2次構造をもち、その3次元相互作用も推定されているにも関わらず低い融解温度を有している。そこでこのmt tRNAについてNMRによる立体構造解析を行った。

表1.tRNAの融解温度

 NMRによる構造解析を行うためには大量(数mg)のtRNA試料を必要とするが、動物ミトコンドリアから数mgのtRNAを調製することは大変困難であるため、試験管内でT7RNA polymeraseによる転写合成を行った。この未修飾tRNAが天然のtRNAと共通な構造を保持しているかどうかについてはアミノ酸受容能を測定することにより確認した。

 この通常のクローバーリーフ型に近いmt tRNASerUGAについては1次元NOE測定、あるいは安定同位体標識NMR法の利用などによって、イミノプロトン領域のシグナル帰属がほぼ完了した(図2)。このtRNAの立体構造についてはすでに生化学的実験に基づくコンピューターモデルが提示されているが、NMRの解析によってこのモデルが正しいことが確かめられた。すなわち、2次構造上においては通常のクローバーリーフ型構造と比べて6つの塩基が削除され、アンチコドンステムへ1塩基対が挿入されているにもかかわらず(図3)、立体構造上ではL字型が保たれていることが示された。さらにマグネシウムを加えてマグネシウム結合部位の考察を行った。イミノプロトン領域におけるNMRスペクトル上ではDアーム領域にあたるシグナルの化学シフトはほとんど変化しなかった。このことは今までに調べられてきた通常のtRNAのマグネシウムイオンとDアームとの相互作用とは大きく異なっており、Dアーム近傍で立体構造上何らかの違いがあると考察された。コンピューターモデル上のDアーム近傍を調べたところ、通常のtRNAの結晶構造中でDアームに配位している2つのマグネシウムイオンが配位できなくなっていることがわかった(図4)。このことがtRNAの熱安定性に影響を及ぼしているのであろうと推測された。

図2.牛mt tRNASerUGAのイミノプロトン領域のNMRスペクトル(a)未標識tRNAのスペクトル (b)15N-U標識されたmt tRNAのHMQCスペクトル (c)15N-U標識されたmt tRNAのHMQCスペクトル図3.牛mt tRNASerUGAと酵母tRNAPheの2次構造の比較 (a)mt tRNASerUGA、(b)酵母tRNAPhe削除された塩基を黒丸で示す。それに相当する塩基を(b)では丸で囲んだ。推定3次元的相互作用を点線で示す。アクセプターステム領域において、(b)が5塩基対であるのに対し(a)では6塩基対の形成が推定されている。図4.牛mt tRNASerUGAと酵母tRNAPheのリボンモデル(a)mt tRNASerUGA、(b)酵母tRNAPhe特異的に配位しうるマグネシウムイオンを表示した。
2)mttRNASerGCUのNMRスペクトルの解析

 mt tRNASerGCUについても同様にT7RNA polymeraseを用いた転写合成法によって試料の大量調製を行い、アミノ酸受容能を測定した。このDアームの欠けたtRNAは、修飾塩基をアンチコドン3’端に隣接した23位にt6Aのみしか含まないことから、転写合成して調製した試料のアミノ酸受容能は天然のものとよい対応を示した。

 mt tRNASerGCUの転写合成試料のNMRスペクトルを図5(a)に示す。シグナルの重複が激しいためこのtRNAについても安定同位体標識を行ったが、A-U塩基対由来のイミノプロトンのシグナルについては帰属することができなかった(図5(b))。ここではG-C塩基対由来のシグナルについてのみ、変異体の作成・部位特異的安定同位体標識を利用して帰属を完了した(図5(c))。G52のシグナル強度が非常に弱いこと、アクセプターステムとTステムをつなぐ塩基対間(G52/G51)のNOEを観測することができなかったことから、このtRNAはDアームの欠如をTアームの構造変化によって補っているということが推測された。さらに帰属のついたシグナルについてマグネシウム滴定実験を行った結果、tRNAのコア領域にあるG-C塩基対(G11,G31)の化学シフトはマグネシウム濃度に対してほとんど変化を示さなかった(図6)。このtRNAにおいても特異な構造をとるためにマグネシウムイオンの結合様式が通常のtRNAとは異なっていると考えられた。

図5.牛mt tRNASerGCUのイミノプロトン領域のNMRスペクトル(a)未標識tRNAのスペクトル (b)15N-U標識されたmt tRNAのHMQCスペクトル (c)15N-U標識されたmt tRNAのHMQCスペクトル図6.牛mt tRNASerGCUにおけるマグネシウムイオンの影響0.05ppm以上の化学シフトの変化がみられたところをstrong effectとする。
3)大腸菌内での異種tRNAの発現系の構築

 物理化学的な手法を用いて構造解析をする際に、均一な試料を大量に調製することが必要となる。上述したようにmt tRNAについて大量に天然のものを抽出することは非常に困難である。またNMRによる分光分析においては安定同位体標識法を導入することは必要不可欠な手段となっている。構造解析する際のRNA分子の試料調製法として(1)T7 RNA polymeraseを用いた転写合成法、(2)化学合成およびその酵素的連結、(3)大腸菌を用いた大量調製法、が主にあげられる。これまで利用してきた(1)の調製法についてはその転写効率がプロモーター下流の配列に大きく依存すること、また転写産物の3’末端が均一にはならないことが問題となっていた。そこで大腸菌を用いた大量発現系の構築を試みた。大腸菌を用いた異種tRNAの発現系はこれまでほとんど報告されておらず、異常構造をもつtRNAについては全く成功してはいなかった。まずT7プロモーターの下流にmt tRNASerGCUの遺伝子とターミネーターを組み込んで培養を試みたが発現は確認できなかった。mt tRNAの遺伝子はA-U塩基対を多く含むという点で大腸菌のtRNAとは大きく異なっているため、そのことが分子の安定性にも大きく作用し、さらにはこの分子の大腸菌内での生存に影響を与えていると考えられた。アクセプターステム領域はアミノアシルtRNA合成酵素の認識にはほとんど関係ないこと、NMRによる解析から立体構造的にも3次元的相互作用は保存されていることを確認したため、tRNA遺伝子のアクセプターステム領域をA-U塩基対からG-C塩基対に置換して大腸菌内での発現系に導入した(図7(a)、GC5)。その結果を図7(b)に示す。ハイブリダイゼーションの結果から変異体GC5についてのみ、その発現が確認できた。培養の結果、100mLの培地から0.4mgのmt tRNA変異体を分離することができた。またこの発現したtRNAを分析した結果、このtRNAは修飾塩基を含まず、5’端、3’端ともに均一にそろっていることが確認された。このtRNA変異体は融解温度が天然型に比べて5度高いことからも、x線結晶解析の試料として利用できる可能性の高いことが推測される。さらに最小培地でも十分量のmt tRNA変異体が発現することから安定同位体標識NMR法を導入できる異種tRNAの調製法を確立したと考えている。

図7(a)牛mt tRNASerGCUと変異体GC5配列を変えた部分を矢印で示す(b)電気泳動による発現の確認大腸菌のRNA粗分画の電気泳動を示す。レーン1.BL21(DE3),レーン2.BL21(DE3)+pT7AGYT,レーン3.mt tRNASerGCU transcript,レーン4.BL21(DE3)+pT7GC5T,レーン5.GC5 transcipt,BL21(DE3):ホスト大腸菌、pT7AGYT,pT7GC5T:mt tRNASerGCU,GC5遺伝子をのせたプラスミド
審査要旨

 動物ミトコンドリアのtRNAは細菌や細胞質の通常のtRNAとは著しく異なった構造を持つことが主としてミトコンドリアDNAの解析から推定されてきた。これらのtRNAの中には通常のDループ・Tループ間相互作用を欠いているものばかりでなくDアームやTアームが欠落しているものの存在も知られている。これまでRNAレベルでの生化学的な実験によって、これらのtRNAの1次および2次構造解析が行われ、またこのような異常tRNAが実際に生体内で機能していることも明らかにされつつある。これらの異常なミトコンドリアtRNAは、tRNAの機能構造を根本的に理解する上に有力な素材として存在していたが、これまで試料調製の困難さからそれらの機能構造の研究は殆ど未開の分野として残されていた。本研究はこの課題に果敢に挑戦したものである。

 哺乳動物のミトコンドリアには、UCNコドン(N;A,T,G,C)とAGYコドン(Y;C,T)に対応する2種類のセリンtRNA(tRNASerUGAとtRNASerGCU)が存在しているが、前者は通常のクローバーリーフ型に近い2次構造をもつのに対して後者はDアームを欠くという全く異なった2次構造を有している。それにも拘わらず、両tRNAは同一のミトコンドリアのアミノアシルtRNA合成酵素に認識される。この認識機構を知るためにも、また高次構造を明らかにするためにも、これらの2種類のtRNAの立体構造を決定する必要がある。本論文ではイミノプロトン領域のNMRを測定することにより、生化学的な実験から推定されたこれら両tRNASerの2次構造および3次元相互作用を検証し、さらにコンピューターモデリングからその機能構造を検討した。これらを第1部とし、第2部ではこれら異種tRNAの大腸菌内での発現系の構築について述べている。

 第1部の第1章はtRNASerUGAの立体構造の解析結果である。tRNASerUGAは通常のtRNAに酷似した2次構造と3次元相互作用をもつにも関わらず、これまで調べられたtRNAの中で最も低い融解温度(Tm)を示す点で、特にその立体構造に興味が持たれた。NMR測定には大量(数mg)の試料を必要とするが,動物ミトコンドリアから数mgのtRNAを調製することは大変困難であるため、試験管内でT7RNA polymeraseによる転写合成を行った。この未修飾tRNAが天然のtRNAと共通な構造を保持していることは、ヌクレアーゼや化学試薬による感受性の観察とアミノ酸受容能から確認された。この未修飾tRNAについて、1次元NOE測定及び安定同位体標識NMR法の利用によって、イミノプロトン領域のシグナル帰属がほぼ完了し、すでに生化学的実験に基づいて推定されていた、L字型の立体構造をとるというコンピューターモデルの正当性が明示された。さらにこのtRNAのマグネシウム結合部位について検討したところ、通常のtRNAと全く異なり、イミノプロトンNMRスペクトル上ではDアーム領域にあたるシグナルの化学シフトに殆ど変化が観測されなかった。コンピューターモデルでDアーム近傍の構造を調べたところ、通常のtRNAの結晶構造中でDアームに配位している2つのマグネシウムイオンがこのtRNASerUGAでは配位できなくなっていることがわかり、このことがこのtRNAの異常なTmの低さの原因であると推測された。

 第2章ではDアームの欠けたtRNASerGCUのNMRスペクトルの解析結果について述べている。ここでも試料としてT7RNA polymeraseによる転写物を用いているが、このtRNAは修飾塩基としてアンチコドン3’端に隣接した23位にt6Aのみしか含まないことから、未修飾tRNAのアミノ酸受容能は天然のものとよい一致を示した。このtRNAのNMRスペクトルは特にシグナルの重複が激しく、塩基対置換体や部位特異的な安定同位体標識によってもG-C塩基対由来のイミノプロトンを帰属することが可能になったのみで、A-U塩基対由来のイミノプロトンのシグナルについては帰属することができなかった。G52のシグナル強度が非常に弱いこと、アクセプターステムとTステムをつなぐ塩基対(G52/G51)の間でNOEを観測することができなかったことから、このtRNAはDアームの欠如をTアームの構造変化によって補っているということが推測された。さらに帰属のついたシグナルについてマグネシウム滴定実験を行った結果、tRNAのコア領域にあるG-C塩基対(G11,G31)の化学シフトはマグネシウム濃度に対してほとんど変化を示さなかった。このtRNASerGCUにおいてもDアームの欠けた特異な構造をとるためにマグネシウムイオンの結合様式が通常のtRNAとは異なっていることが推測された。

 第2部はこれら異常なミトコンドリアtRNAを大腸菌内で大量に発現させる系の開発について述べたものである。これまで利用してきたT7RNA polymeraseを用いた転写合成法ではその転写効率がプロモーター下流の配列に大きく依存すること、また転写産物の3’末端が均一にはならないことが問題となっていた。そこで大腸菌を用いた大量発現系の構築を試みた。大腸菌を用いた異種tRNAの発現系はこれまでほとんど報告されておらず、異常構造をもつtRNAについては全く成功してはいなかった。この原因がtRNAの安定性にあるとの予想の基に、tRNA遺伝子のアクセプターステム領域をA-U塩基対からG-C塩基対に置換して大腸菌内の発現系に導入したところ、100mLの培地から0.4mgのミトコンドリアtRNA変異体(修飾塩基は含まないが、5’端,3’端ともに均一にそろっている)の調製に成功した。このtRNA変異体はTmが天然型に比べて5℃高く、X線結晶解析の試料として利用できる可能性の高いこと、最小培地でも十分量のtRNAの発現が期待でき、NMR測定に有用な同位体標識法が利用できることなど、異種tRNAの大量調製法として有用な新しい方法を確立したと考えられる。

 以上要するに、本論文は異常なミトコンドリアtRNAのNMRスペクトルを初めて測定し、その立体構造とマグネシウム結合部位について新たな知見を得、さらに大腸菌内で異種tRNAを発現する新しい方法を開発したものであり、翻訳系のメカニズムの解明とその利用に大きく貢献した。従って本論文は生体系を利用した蛋白質生産の基礎研究として工学に資するところ大である。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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