学位論文要旨



No 113032
著者(漢字) 河,順得
著者(英字)
著者(カナ) ハー,スンダック
標題(和) カイコ麻痺ペプチドに関する生物有機化学的研究
標題(洋)
報告番号 113032
報告番号 甲13032
学位授与日 1997.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1838号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 片岡,宏誌
 東京大学 教授 阿部,啓子
 東京大学 教授 依田,幸司
 東京大学 助教授 山口,五十磨
 東京大学 助教授 作田,庄平
内容要旨

 昆虫は脊椎動物と異なり解放血管系を持つため、脳をはじめとする中枢神経系や様々な器官が血液中に浮かんだような状態で存在している。そのため昆虫の血液は各器官や各組織への栄養分の供給や生成した老廃物の排出器官への運搬、物質を介した情報伝達の場として重要な位置を占めている。特に情報伝達の場としての血液は解放血管系であるという利点から全身に同じ情報を瞬時に伝達できるという特徴も持っている。また、血液中には通常存在しないが必要に応じて誘導される、成長や生体防御に関わるペプチド性物質も数多く知られている。本研究ではカイコ血液中に存在し、カイコ幼虫に対して麻痺活性を示すペプチド(麻痺ペプチド)に注目し、麻痺ペプチドの生成機構の解明、また、脱皮・変態現象への関与を明らかにすることを目的に、カイコ麻痺ペプチドの精製と構造解析、遺伝子のクローニングおよび前駆体タンパク質のプロセシング機構の解析を行った。

第一章カイコ麻痺ペプチドの精製

 カイコ4齢4日目幼虫から採取した血液を一定時間室温に放置した後、4齢1日目幼虫に注射すると、全身の筋肉の収縮・麻痺が観察され、注射量の増加とともに麻痺継続時間は長くなった。また、麻痺活性は採血1分後の血液でも検出され、20分後に最大になり、30分後にやや低下した。しかしながら、空気に触れないように採血した血液では麻痺活性は検出されなかった。また、この麻痺活性はトリプシン処理により消失することからペプチド性の物質によるものであると考えられた。

 次に、カイコ4齢4日目および5齢1日目の幼虫(180匹)から採集した19mlの血液から、50%アセトン沈澱(活性区は上清)、Vydac C4カートリッヂおよび4段階の逆相HPLCを用いた精製法により、活性物質(麻痺ペプチド)を単離した。単離した麻痺ペプチドは3.7ngでカイコ4齢幼虫を1分間以上麻痺させる活性を示した。活性の回収率は35%であった。

第二章カイコ麻痺ペプチドの構造解析

 単離した麻痺ペプチドの構造解析を行うため、まず、TOF-MSによる質量分析を行った。その結果、m/z2456.5の単一なイオンピークが得られたことから精製した麻痺ペプチドは構造解析に充分な純度であり、20〜30残基のペプチドであることが予想された。次に、精製したペプチドおよび還元アルキル化したペプチドの配列分析により、N-末端のグルタミン酸から23残基目のフェニルアラニンまでのアミノ酸配列および分子内に2残基のシステインが存在することを明らかにした。また、この配列から予想される分子量は2,460(システインは分子内でジスルフィド結合を有し、ペプチドのC-末端は遊離型として計算)であることおよびTOF-MSで得られた分子量が2,456.5であることから、麻痺ペプチドは23残基のペプチドであり、C-末端はフェニルアラニンであると推定された。さらにFAB-MSによる質量分析から単離したペプチドが23残基のペプチドであることを決定するとともに、2残基のシステインは分子内でジスルフィド結合形成し、C-末端のフェニルアラニンは遊離型であることが示された(図-1)。

図-1 カイコ麻痺ペプチドの化学構造

 続いて推定した構造を確認するためにFmoc法によりペプチドを合成し、逆相HPLCを用いて天然物との比較を行った。その結果、推定どおりカイコ麻痺ペプチドはC-末端遊離型で、ペプチド鎖内にジスルフィド結合を持つ合成ペプチドと同じ保持時間で溶出されることが確認された。また、合成品も天然物と全く同じ濃度で活性を持つことを確認した。さらに、類縁体を合成し、その活性を調べたところ、C-末端アミド型ペプチドは天然型と同等の活性を、また、N-末端にチロシンを付加したペプチドは約半分の活性を示したが、N-末端やC-末端のアミノ酸を一残基以上欠失したものでは天然型の千倍量を注射しても活性を示さなかった。これらの結果から麻痺活性を示すには23残基の全ての配列が必要であるが、C-末端がアミド型であったり、N-末端が伸長していても活性を示すことが明らかとなった。特に、N-末端にチロシンを付加したペプチドが活性を維持していたことから、125Iでラベルしたペプチドを用いた受容体の検索などが可能であることが示された。また、分子内のジスルフィド結合を還元アルキル化することで麻痺活性が無くなることからジスルフィド結合が活性発現に重要であることが示された。

第三章カイコ麻痺ペプチドcDNAのクローニング

 カイコ麻痺ペプチドの産生器官や産生組織を明らかにし、さらに、生体内での不活性化機構解明の手がかりとして前駆体構造を明らかにするために、cDNAのクローニングを試みた。まず、消化管を除いたカイコ4齢幼虫全体から調製したmRNAを鋳型とし、麻痺ペプチドのアミノ酸配列をもとに合成したプライマーを用いてRT-PCRを行った。次に、RT-PCRによって得られた部分配列をプローブとして、同じmRNAを用いて構築したcDNAライブラリー、約1.5x105クローンについてスクリーニングを行った。得られた7個の陽性クローンの解析の結果、カイコ麻痺ペプチドcDNAは131残基のペプチドをコードしており、N-末端にシグナルペプチドと予想される疎水性ペプチドを、C-末端に23残基の麻痺ペプチドをコードしていた(図-2)。麻痺ペプチドのC-末端である23残基目のフェニルアラニンの後ろは終止コドンであり、ペプチド側から得られたC-末端は遊離型であるという結論を支持していた。また、麻痺ペプチドのN-末端側にアルギニンが存在することから前駆体タンパク質からトリプシン様のプロテアーゼにより麻痺ペプチドが切り出されると思われる。

図-2 麻痺ペプチド前駆体タンパク質の構造

 また、麻痺ペプチドの産生組織、産生時期を明らかにするために、各組織および発育時期の異なるmRNAを用いたノーザンブロット解析を行ったところ、麻痺ペプチドの主要な産生組織は脂肪体であり、3齢期には発現量が低く、4齢初期や5齢初期および吐糸期、蛹期に発現量が高いことが明らかとなった。また、mRNAのサイズは0.6kbであると考えられるが、吐糸期や蛹期には1.6kbのバンドも観察された。このバンドが麻痺ペプチドのmRNAであるかどうかについては現時点では判断できず、さらに解析が必要であると思われる。

第四章カイコ麻痺ペプチド前駆体の大量発現と前駆体プロセシング機構の解析

 cDNAの構造から、麻痺ペプチドは前駆体タンパク質として合成され、血液中に分泌されているものと考えられる。また、血液が空気と触れることで血液中のプロテアーゼにより麻痺ペプチドが切り出され麻痺活性を示すようになるのではないかと考えられる。そこで、大腸菌による麻痺ペプチド前駆体の発現系を構築し、さらに発現させた前駆体タンパク質を用いて血液中のプロテアーゼによるプロセシング過程を解析した。

 シグナルペプチド部分を含む麻痺ペプチド前駆体(rBMPP-1)およびシグナルペプチド部分を含まない前駆体(rBMPP-2)を発現するようpRSET-Bを用いて発現ベクターを構築し、T7RNAポリメラーゼ遺伝子を有する大腸菌BL21株に導入した。N-末端にHisタグが付加していることを利用し、Ni-NTA樹脂を用いたアフィニティーカラムにより目的タンパク質の精製を行った。さらに尿素を除いた後、麻痺活性を測定した。その結果、ともに5gでも麻痺活性は認められなかった。

 次に、rBMPP-1にカイコ4齢の血液を加え、室温で一定時間放置した後、SDS-PAGEを行い、前駆体タンパク質のプロセシングの有無を解析した。前駆体タンパク質(約20kD)は、血液と混合10分後には多少減少し、30分後には半分以下になり、2時間後には完全に消失していた。また、30分から2時間までのレーンでは約17kDのバンドが観察された。次に、麻痺ペプチドが実際に前駆体ペプチドから切り出されているかどうかを明らかにするため、グラジエントゲルを用いて同様の解析を行った(図4-5(B))。その結果、30分後には相当する分子量の位置にバンドが観察され、120分、240分後ではさらに濃いバンドが認められた。さらに、試料中に存在する麻痺活性を測定したところ、血液と混合10分後には麻痺活性が認められ、その後60分まではその活性(麻痺継続時間)が上昇し、120分後でも60分後とほぼ同じ活性をもっていた。以上の結果から麻痺ペプチドは血液中に存在するプロテアーゼによって前駆体タンパク質がプロセシングを受けて生成するものと考えられた。今後は麻痺ペプチドおよび前駆体タンパク質に対する抗体を作製し、ウェスタンブロットなどを用いて血液中に実在する前駆体タンパク質の確認やプロセシングの過程の解析を行う必要があると思われる。

 以上、本研究は、カイコ幼虫に対して麻痺活性を示すペプチドをカイコ血液から単離し、そのペプチドの化学構造の解析、遺伝子構造の解析およびプロセシング機構の解析を行ったものである。今後、本研究の成果をもとにプロセシングに関わる分子の同定やその分子機構の解析を行うことで、麻痺ペプチドの生理学的な意義を明らかにすることができると思われる。さらに麻痺ペプチドに対する受容体を同定し、その受容体分子の組織や発育時期特異的な発現を解析することにより、麻痺活性以外の未知の機能を探ることもできると思われる。

審査要旨

 昆虫は脊椎動物と異なり、開放血管系を持つため、血液は各組織、各器官への栄養分の供給や、老廃物の排出器官への運搬のみならず、物質を介した情報伝達の場として重要な位置を占めている。また、血液中には昆虫の成長や生体防御に関わるペプチド類が、必要に応じて誘導されることが知られている。本論文は血液が体外に取り出されることで、初めて同種の昆虫に対して麻痺活性を示す麻痺ペプチドについて、カイコ(Bombyx mori)血液からの精製、構造解析、cDNAのクローニング、および大腸菌で発現させた前駆体タンパク質を用いたプロセッシング機構の解析を行ったもので四章から成る。

 第一章では、まず、カイコ血液中にカイコ幼虫に対して麻痺活性を示すペプチド性の物質が存在すること、この物質は生体内では麻痺活性が押さえられているが、血液が空気に触れることにより活性化されることを明らかにした。続いて、主に逆相HPLCを用いた精製法によりこの活性物質(麻痺ペプチド)13gを単離した。単離した麻痺ペプチドはカイコ4齢幼虫を3.7ngで1分間以上麻痺させる活性を示した。

 第二章では、TOF-MS、FAB-MSによる質量分析およびアミノ酸配列分析から、単離した麻痺ペプチドの構造は分子内に一対のジスルフィド結合をもつ23残基のペプチドであり、C-末端は遊離型であることを明らかにした。さらに、決定した構造が正しいことをペプチド合成により確認した。また、いくつかの類縁ペプチドの合成や化学修飾により、1)N-末端またはC-末端のアミノ酸が1残基以上欠失したペプチドには麻痺活性がないこと、2)C-末端がアミド型であったり、N-末端にチロシン残基が1残基伸長していても天然物とほぼ同等の麻痺活性を示すこと、3)分子内のジスルフィド結合を還元アルキル化すると麻痺活性が無くなることなど、麻痺ペプチドの構造と活性の関係を明らかにした。

 第三章では、得られたアミノ酸配列をもとに、RT-PCRによる部分塩基配列の増幅およびcDNAライブラリーのスクリーニングによりcDNAをクローニングし、麻痺ペプチド前駆体タンパク質の構造を推定した。前駆体タンパク質は131残基のアミノ酸からなり、N-末端にシグナルペプチド、C-末端に成熟麻痺ペプチドがコードされており、分泌性のタンパク質であり、前駆体タンパク質がプロセッシングを受け、麻痺ペプチドが生じると考えられた。また、ノーザンブロット解析から、得られたcDNAとほぼ同じ0.6kb付近に強いシグナルが観察されたことから、得られたcDNAの配列はmRNAのほぼ全長であると考えられた。しかしながら1.0kbおよび1.6kbにも弱いシグナルが検出されたことから、今回得たcDNAよりさらに長いmRNAが存在するか、もしくはゲノム上に2種類以上の麻痺ペプチド遺伝子が存在するという可能性も示唆された。また、1.6kbのシグナルは、蛹期で特に強く検出されたことから時期特異的に発現量が増えるmRNAである可能性が考えられた。一方、0.6kbのmRNAの発現は脂肪体で最も強く認められたことから、麻痺ペプチドの主要な産生組織は脂肪体であると考えられた。

 第四章では大腸菌による麻痺ペプチド前駆体タンパク質の大量発現を行い、前駆体タンパク質のプロセッシング過程を解析した。その結果、前駆体タンパク質は、血液と混合10分後には減少が認められ、30分後には半分以下になり、120分後には完全に消失した。一方、麻痺ペプチドに相当する分子量の位置には、30分後にバンドが観察され、120分、240分後ではさらに濃いバンドが認められた。さらに、前駆体タンパク質には麻痺活性はなく、血液と混合すると10分後には麻痺活性が認められ、その後60分まではその活性(麻痺継続時間)が上昇し、120分後にはやや減少した。以上の結果から麻痺ペプチドは血液中に存在するプロテアーゼによって前駆体タンパク質がプロセッシングを受けて生成するものと考えられた。

 以上、本論文はカイコ血液中に存在し、同じカイコ幼虫に対して麻痺活性を示す麻痺ペプチドの化学構造および遺伝子構造の決定、発現器官、時期の解析およびプロセッシング機構の解析を行った結果をまとめたものであり、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク