学位論文要旨



No 113036
著者(漢字) ウィジット,キャティパタナサクル
著者(英字) Wijit,Kiatipattanasakul
著者(カナ) ウィジット,キャティパタナサクル
標題(和) 犬の脳における加齢性変化に関する病理学的研究
標題(洋) Pathological studies on the age-related changes in the dog brain
報告番号 113036
報告番号 甲13036
学位授与日 1997.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第1842号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 土井,邦雄
 東京大学 教授 小野,憲一郎
 東京大学 教授 吉川,やす弘
 東京大学 教授 佐々木,伸雄
 東京大学 助教授 中山,裕之
内容要旨

 近年、先進国では寿命の延長によって老齢人口が増加し、老年期特有の疾病が大きな社会問題となっている。とくにAlzheimer病(AD)やAlzheimer型老年痴呆(SDAT)に代表される老年期痴呆では進行性の知能や認識能力の低下のため、患者は正常な社会生活が困難になる。このような老年期痴呆の発生メカニズムの解明をめざして、これまで数多くの研究がなされてきたが、完全な理解には程遠いというのが現状である。ADは病理組織学的には老人斑(SP)、神経原線維変化(NFT)、脳血管アミロイド沈着などの変化を示し、その結果重度の脳萎縮をきたす。これらのうち、とくにNFTがADの病理発生に深く関わっていると考えられている。最近、予めプログラムされた細胞死の機構として注目されているアポトーシスがADを含む神経変性性疾患の発生において重要な役割を演じている可能性が指摘された。さらに、このような疾患では神経細胞にアポトーシスを誘発する化学的因子として活性酸素種が重要であることも報告されている。

 最近10年間の獣医学の進歩によって、犬、猫といった伴侶動物の寿命が飛躍的に伸び、老齢動物の割合が増加している。これに伴い、老齢犬と接している飼い主、臨床家が認識能力の低下、日常生活リズムの変化、飼い主に対する行動の変化などの老犬の痴呆様症状を訴える機会が多くなった。老犬の脳ではSPとCAAが年齢に伴って増加することが報告されているが、ADで痴呆に関与する病変としてとくに重視されているNFTはこれまで犬では報告されていない。本研究では犬の脳細胞におけるアポトーシス、レクチン結合性および活性酸素種分解酵素の加齢に伴う動態を精査し、それらと痴呆様行動異常との関係をしらべた。

 はじめに老犬の脳でSPの数およびTUNEL法で検出されるアポトーシス細胞の数を調べた。大脳皮質では神経細胞と星状膠細胞が、髄質では稀突起膠細胞がアポトーシスを示した。SP数とアポトーシス陽性細胞数はそれぞれ年齢とともに増加したが、SP数とアポトーシス陽性細胞数との間に相関は認められなかった。このことから、SPとアポトーシスは老犬の脳における病理変化としていずれも重要であるが、互いに別の現象であることが明らかになった。

 次に犬の脳細胞およびSPのレクチン結合性を15種類のレクチンを用いて調べた。ConA、LcH、LEL、LPAの神経細胞に対する結合性は年齢とともに増加した。これら4種のレクチンおよびDBA、VVA、RCA-I、BSL-Iと膠細胞との結合性も年齢とともに増加した。この結果から、犬の脳細胞では構成糖構造が年齢によって変化する可能性が示唆された。しかしながら脳細胞のレクチン結合性とアポトーシスとの関係は明らかでなかった。アミロイド型SPはConA、DBA、SBA、LEL、PHA-L、LFA、VVAと結合した。このうちVVA、SBA、LFAはCAAアミロイドとも強く結合した。従って、これらのレクチンによって認識される糖のSPおよびCAA形成過程への関与が推察された。

 次に細胞死に深く関与していると考えられている活性酸素種を分解する酵素の脳での発現を各年齢の犬で免疫組織化学的に調べた。若齢犬(5歳以下)では半数以上の神経細胞でsuperoxide dismutase(SOD)が陽性であったが、その数と染色強度は年齢とともに減少し、老犬(9歳以上)では10〜50%の神経細胞が陽性を示したに過ぎなかった。これに対し、若齢犬の膠細胞はSODに陰性で、陽性細胞の数と染色強度は年齢とともに増加し、老犬では50%以上の膠細胞が陽性であった。ただし、老犬でアポトーシスを示した細胞はSOD陰性であった。また、アミロイド型SPの辺縁部とCAAはSOD陽性であった。cataraseとglutathione peroxidaseに陽性を示す脳細胞の数は年齢とは無関係であった。以上の結果から、加齢によって神経細胞ではSODが減少し、過剰に生じた活性酸素種によりアポトーシスが生ずる可能性が推察された。膠細胞の加齢に伴うSOD増加は神経細胞での減少を補うための反応と考えられた。

 最後に痴呆様行動異常を示す老犬の脳病理変化を明らかにするため、まず犬の痴呆様行動異常を表す評点(dementia index;DI)を定め、つぎにこの評点と老犬特有の脳病理変化およびこれら変化の分布との関係を調べた。DIとアポトーシス陽性細胞数とはよく相関していたが、DIとSP数との間に相関はみられなかった。アポトーシスはとくに前頭葉で顕著であった。また、加齢性に増加するceroid-lipofuscin(CL)沈着はDIの高い例でより顕著である傾向がみられた。以上のことから、老犬では前頭葉における脳細胞のアポトーシスが痴呆様行動異常の発現に深く関与していること、重度のCL沈着も痴呆様行動異常の発現に関わっていることが示唆された。

 本研究では犬の脳における加齢性の変化(アポトーシス、SP、レクチン結合性、活性酸素種分解酵素の分布)を明らかにし、また、老犬の痴呆様行動異常と前頭葉脳細胞のアポトーシスとの関係を指摘した。ADまたはSDATの患者では側頭葉海馬傍回におけるNFTとSPおよびこれらに起因する同部の萎縮が痴呆の責任病巣と考えられている。このように動物種による痴呆の責任病巣の違いを比較生物学的に検討することによりADやSDATの病理発生解明に新たな視点を提供できると考えられ、犬はその良いモデルになると思われた。

審査要旨

 申請者の学位論文の審査の結果の要旨は以下の通りである。

 近年、Alzheimer病(AD)に代表される老年期痴呆が大きな社会問題となっている。老年期痴呆の発生メカニズムの解明をめざして、数多くの研究がなされてきたが、完全な理解には程遠い。ADは病理組織学的には老人斑(SP)、神経原線維変化(NFT)、脳血管アミロイド沈着などの変化を示し、その結果重度の脳萎縮をきたす。とくにNFTはADの病理発生に深く関わっていると考えられている。さらに、最近アポトーシスがADの発生において重要な役割を演じている可能性が指摘された。ADでは神経細胞にアポトーシスを誘発する化学的因子として活性酸素種が重要であることも報告されている。一方、最近、老犬の痴呆様症状をみる機会が多くなった。老犬の脳ではSPとCAAが年齢に伴って増加することが報告されているが、NFTはこれまで犬では報告されていない。本研究では犬の脳細胞におけるアポトーシス、レクチン結合性および活性酸素種分解酵素の加齢に伴う動態を精査し、それらと痴呆様行動異常との関係をしらべた。

 はじめに老犬の脳でSPの数およびTUNEL法で検出されるアポトーシス細胞の数を調べた。大脳皮質では神経細胞と星状膠細胞が、髄質では稀突起膠細胞がアポトーシスを示した。SP数とアポトーシス陽性細胞数はそれぞれ年齢とともに増加したが、両者に相関は認められなかった。このことから、SPとアポトーシスは老犬の脳における病理変化として重要であるが、互いに別の現象であることが明らかになった。

 次に犬の脳細胞およびSPのレクチン結合性を調べた。ConA、LcH、LEL、LPAの神経細胞に対する結合性は年齢とともに増加した。これら4種のレクチンおよびDBA、VVA、RCA-I、BSL-Iと膠細胞との結合性も年齢とともに増加した。この結果から、犬の脳細胞では構成糖構造が年齢によって変化する可能性が示唆された。しかしながら脳細胞のレクチン結合性とアポトーシスとの関係は明らかでなかった。アミロイド型SPはConA、DBA、SBA、LEL、PHA-L、LFA、VVAと結合した。VVA、SBA、LFAはCAAアミロイドとも強く結合した。従って、これらのレクチンによって認識される糖のSPおよびCAA形成過程への関与が推察された。

 次に活性酸素種を分解する酵素の脳での発現を各年齢の犬で免疫組織化学的に調べた。若齢犬では半数以上の神経細胞でsuperoxide dismutase(SOD)が陽性であったが、その数と染色強度は年齢とともに減少した。これに対し、若齢犬の膠細胞はSODに陰性で、陽性細胞の数と染色強度は年齢とともに増加した。老犬ではアポトーシス細胞はSOD陰性であった。また、アミロイド型SPの辺縁部とCAAはSOD陽性であった。以上の結果から、加齢によって神経細胞ではSODが減少し、過剰に生じた活性酸素種によりアポトーシスが生ずる可能性が推察された。

 最後に、犬の痴呆様行動異常を表す評点(dementia index;DI)を定め、この評点と老犬特有の脳病理変化およびこれら変化の分布との関係を調べた。DIとアポトーシス陽性細胞数とはよく相関していたが、DIとSP数との間に相関はみられなかった。アポトーシスは前頭葉で顕著であった。従って、老犬では前頭葉における脳細胞のアポトーシスが痴呆様行動異常の発現に深く関与することが示唆された。

 本研究では犬の脳における加齢性の変化を明らかにし、また、老犬の痴呆様行動異常と前頭葉脳細胞のアポトーシスとの関係を指摘した。痴呆の責任病巣の違いを比較生物学的に検討することはADの病理発生解明に新たな視点を提供できると考えられ、本研究が獣医学および老年医学分野の研究に寄与するところは非常に大きい。よって審査委員一同は、本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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