学位論文要旨



No 113038
著者(漢字) スムリガ,ミロスラブ
著者(英字) Smriga,Miroslav
著者(カナ) スムリガ,ミロスラブ
標題(和) 副腎ホルモンによる海馬シナプス可塑性の制御
標題(洋) Regulation of the hippocampal synapticity by adrenal hormones in vivo.
報告番号 113038
報告番号 甲13038
学位授与日 1997.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第812号
研究科 薬学系研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松木,則夫
 東京大学 教授 杉山,雄一
 東京大学 教授 長尾,拓
 東京大学 助教授 久保,健雄
 東京大学 助教授 漆谷,徹郎
内容要旨 序説(Introduction):

 認知・記憶の障害は、未だ決定的解決を得ない神経薬理学的問題である。その解決へのアプローチの一つとして、伝統医薬によって得られる知識がある。このアプローチにより私は、特定の真菌由来の化合物が末梢性に働いて、記憶と関連すると考えられている細胞機能を著しく促進することを見いだした。また、その作用には、おそらく副腎が関与しているものと考えられた(Biol. Pharm.Bull.18;1995:518-522;Pharm.Res.13;1996:1322-1326)。

 実際に、皮質から放出された副腎ステロイド類と副腎髄質ホルモンであるエピネフリン(EPI)は、認知能力を含む脳機能に影響を与えることが報告されている。

 副腎ホルモン類の中枢神経系への影響は非常に複雑で多様である。このため、記憶の基礎をなす分子メカニズムと考えられている海馬でのシナプス可塑性に対する副腎ホルモンの作用について、ここでは薬理学的側面についての詳述は避け、専らそれらの生理学的作用について述べることにする。

実験の評価と結果(Experimental Evaluations and Results):

 海馬歯状回における電気生理学的な記録応答を得るために、私は個体レベル(in vivo)での実験系を用いた。In vivo実験系では、研究対象部位から他の脳部位、または末梢への神経回路を切り離すことなく、比較的生体に近い状態での実験操作が可能である。歯状回における興奮性シナプスに高頻度刺激(tetanus)を与えると、神経伝達が長期的に増強することが知られており、このシナプスの可塑性が、実際の記憶・学習の基礎をなす分子メカニズムと考えられている。そこで私は、海馬歯状回における電気性理学的検討を行った。

 電気的に誘発して記録される応答は、集合スパイクが重なりあった場電位であり、これをFig.1上部に示す。テスト刺激は、それぞれ1個の電流刺激からなり、30秒毎に1回の間隔で与えた。60分間の安定した応答(basal)を得た後、60Hz20発または30発という高頻度のテタヌス刺激を与え、引き続く集合電位の変化を、活性依存的なシナプス可塑性のモデルとした。Fig.1内に示したように、集合電位の潜時(latency)は記録された場電位の波形から直接測定し、その振幅は"a"と"b"の平均値を計算して求めた。記録応答はテタヌス強度に依存しており定量的にも差異が生じたため、それぞれの応答に対応するテタヌス条件を弱、または強テタヌスと記述した。電気生理学的測定を行う前に、あらかじめ動物に副腎摘出手術(ADX)または偽手術(SHAM)を施行した。副腎摘出の精度は血漿中のコルチコステロン(CORT)濃度を蛍光定量することで確認した。

 副腎摘出7日後のラットでは強テタヌスにより誘発するシナプス増強が顕著に抑制されることを見いだした(Fig.1A)。これは、弱テタヌスによるシナプス増強においては認められなかった(図は省略)。強テタヌスによる抑制は、集合スパイクの潜時の延長からもわかるように、副腎摘出ラット歯状回における神経興奮性の顕著な減少を伴った。偽手術ラットへのグルココルチコイドCORT(sc,40mg/kg)の単回投与でも、同様の抑制効果が認められた(Fig.1B)。一方、CORTは、副腎摘出ラットの強テタヌスによるシナプス増強の抑制応答を顕著に回復させる(Fig.1B)。Fig.1Aの影の部分で示された曲線下の面積を、テタヌス後の増強の総合的な変化の指標とした。以上の結果から、CORTの血漿中濃度は低過ぎても高過ぎても、歯状回におけるシナプス可塑性に抑制的に働くことが示唆された。

Fig.1波形は歯状回での典型的な場電位の記録を示す。黒丸(●)はテスト刺激を示す。Bars:縦、3mV;横、5ms。A)副腎摘出(ADX)、偽手術(SHAM)ラットにおける、強テタヌス刺激後の集合スパイクの経時変化。結果は、ペースを基準にテタヌス刺激後の変化を百分率で示した。7例の平均値±標準誤差で示す。B)副腎摘出(ADX)、偽手術(SHAM)ラットにおける、強テタヌス刺激後の集合スパイクに及ぼす副腎摘出(ADX)とCORTの作用。偽手術(SHAM)、副腎摘出(ADX)、偽手術-CORT投与(CORT)、副腎摘出-CORT投与(ADX&CORT)の各群で実験を行った。結果は、曲線下面積(Aの影で示してある部分)の平均で示した。7-9例の平均値±標準誤差で示す。*(p<0.05)、**(p<0.01)は偽手術群との有意差(Duncanの多群検定)を示す。

 ミネラルコルチコイドは副腎ステロイド類の2つ目のグループに含まれる。主要なミネラルコルチコイドであるアルドステロン(ALDO)(sc,100g/kg)は、偽手術ラットに強テタヌス(図は省略)、または弱テタヌス(Fig.2A)を与えることで誘発されるシナプス増強に影響しなかった。しかし、副腎摘出ラットのシナプス可塑性に対しては、顕著な増強作用を有した(Fig.2A)。Fig.2BでALDOは潜時を短縮させたことから、ALDOによるシナプス可塑性の増強作用は、神経興奮性の増大に起因していることが示された。ALDOの効果はどちらも、ミネラルコルチコイド受容体拮抗薬であるスピロノラクトンにより消失した(Fig.2)ことからも、受容体の関与が強く示唆された。

Fig.2A)副腎摘出(ADX)ラットにおけるAldosterone(ALDO)(sc,100g/kg)の弱テタヌス刺激(60Hz,20発)誘発集合スパイク電位促進作用。Aldosteroneの作用は、spironolactone(spiron.)の10分前投与(sc,20mg/kg)によって消失した。5例の平均値±標準誤差で示す。**(p<0.01)は他の全ての群との有意差(Duncanの多群検定)を示す。B)副腎摘出(ADX)ラットにおけるAldosterone(ALDO)(sc,100g/kg)の集合スパイク潜時延長作用。Aldosteroneの作用は、spironolactone(spiron.)の10分前投与(sc,20mg/kg)によって消失した。5例の平均値±標準誤差で示す。*(p<0.05)、**(p<0.01)は他の全ての群との有意差(Duncanの多群検定)を示す。

 エピネフリンEPIもまた、歯状回におけるシナプス伝達の調節物質の1つである。私は、EPI(ip,100g/kg)の単回投与により、副腎摘出ラット、偽手術ラットの両群において、テタヌス誘導シナプス応答が顕著に増強されること、また、この作用がプロプラノロール感受性-アドレナージック系を介することを見いだした(図は省略)。さらに、-アドレナージック系は、直接的なシナプス効率の調節だけでなく、歯状回におけるミネラルコルチコイドの作用発現にも必要であることを明らかにした。プロプラノロールはALDOによるシナプス可塑性増強の促進効果を部分的に阻害し(Fig.3A)、神経興奮性に対する影響を顕著に阻害した(Fig.3B)。プロプラノロールは、海馬に直接投与したときのみ有効で、扁桃体への投与では無効であった(Fig.3)ことから、歯状回内で-アドレナージックとミネラルコルチコイド受容体の介する機構が、直接相互作用しているものと考えられる。

Fig.3A)副腎摘出(ADX)ラットにおける弱テタヌス刺激(60Hz,20発)誘発集合スパイクに及ぼすaldosterone(sc,100g/kg)の作用は、歯状回へのpropranolol(9nmol)前投与で部分的に抑制されるが、扁桃体への投与では抑制されない。4-6例の平均値±標準誤差で示す。*(p<0.05)は、saline投与群との有意差(Duncanの多群検定)を示す。B)副腎摘出(ADX)ラットにおける集合スパイク潜時に及ぼすaldosterone(sc,100g/kg)の作用は、歯状回へのpropranolol(9nmol)前投与で有意に抑制されるが、扁桃体への投与では抑制されない。4-6例の平均値±標準誤差で示す。*(p<0.05)は、saline投与群との有意差(Duncanの多群検定)を示す。
総括(summary):

 海馬歯状回における副腎ステロイド類の作用は、多様であることが示された。

 グルココルチコイド(CORT)は健常ラットにおいて、テタヌス誘発シナプス可塑性を抑制したが、CORTの血中における通常濃度での存在はテタヌス誘発シナプス可塑性に必要である。

 ミネラルコルチコイド(ALDO)は、副腎摘出ラットにおいて、テタヌス誘発シナプス可塑性を促進したが、偽手術ラットでは促進しなかった。このミネラルコルチコイドが介するメカニズムに、海馬での-アドレナージック系が関与することが示唆された。

 以上の結果から、海馬でのシナプス可塑性において、多様な副腎内分泌系が相互作用していることが示唆された。

審査要旨

 脳が高次機能を発揮するためにシナプスの可塑性が重要な役割を果たしている。その中で海馬における長期増強現象は記憶・学習の基礎過程として多くの研究がなされている。しかし、全身動物を用いて長期増強を増大させる作用を指標に薬物の作用を検討した研究はほとんど皆無である。そこで麻酔下ラットの海馬歯状回から誘発電位を記録し、長期増強が飽和しない条件で生薬成分のスクリーニングを行った。その結果、地衣類に含まれる多糖類の中で、レンチナンおよびPC-2の二つのグルカンが長期増強を増大させることを見出した。驚いたことにこれらのグルカンは経口投与した場合には有効であるが、脳室内に直接投与した場合には無効であった。脳内各部位の血流量をファンクショナルMRIを用いて計測したが、これらのグルカンに顕著な作用は認められなかった。さらに、副腎を予め摘出しておいたラットでは、グルカンが長期増強を増大させる作用が消失していた。これらの事実から副腎ホルモンが海馬シナプス可塑性を制御している可能性が考えられたので以下の研究を行った。

 ラットを麻酔して脳定位固定装置に保持し、貫通線維を刺激して歯状回より集合電位を記録した。60ヘルツのテタヌスを与え、長期増強を記録した。副腎を一週間前に摘出し、血中のコルチコイドレベルが十分に低下したラットの海馬における神経伝達を解析したところ、副腎摘出により通常のシナプス伝達は影響されないが、長期増強が減少することを見出した。この抑制効果は長期増強が飽和するような強い刺激を与えた場合にのみ観察された。副腎摘出ラットにコルチコステロンを投与すると抑制効果が消失した。逆に、正常動物にコルチコステロンを投与すると長期増強が抑制された。このように、副腎ホルモンのレベルにより海馬のシナプス可塑性が制御されることを明らかにした。海馬をはじめとして脳の各部位にコルチコイド受容体が存在することが知られていたが生理的な機能は不明であった。本研究によりシナプス可塑性に関与する可能性が示された。

 次に、グルココルチコイドとミネラルコルチコイドのどちらが重要かを検討した。その結果、ミネラルコルチコイドの一つであるアルドステロンがコルチコステロンと同様の作用を持つこと、アルドステロンの作用がミネラルコルチコイド受容体遮断薬であるスピロノラクトンにより消失することから、ミネラルグルココルチコイドがシナプス可塑性を調節していると考えられた。

 さらにアドレナリンの関与についても検討した。アドレナリンの末梢投与によって長期増強が増大した。この作用はアドレナリン受容体を介していた。ミネラルコルチコイドによる長期増強の抑制がアドレナリンベータ受容体遮断薬で回復することを明らかにした。従って、シナプス可塑性に対するミネラルコルチコイドの作用の少なくとも一部はアドレナリン作動性神経を介した間接的なものであることが示唆された。

 近年、免疫系など神経系以外の経路による脳機能の調節が注目されているが、細胞レベルでの研究が多く、全身動物を用いて実際に示した研究は少ない。また、視床下部→下垂体→副腎とつながる経路はストレッサーに対する下行性の応答経路と従来考えられてきた。本研究により、副腎の機能が上位中枢の機能を調節している可能性が明らかになった。この分野における今後の研究進展への貢献は大きく、博士(薬学)の学位に値する論文である。

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