学位論文要旨



No 113039
著者(漢字) 蔡,兵
著者(英字)
著者(カナ) ツアイ,ピン
標題(和) ストレスタンパク質GRP78とEGFレセプターとの細胞内複合体形成による細胞増殖制御
標題(洋) Stress-induced GRP78/BiP regulates cell growth by forming a stable complex with Epidermal Growth Factor Receptor
報告番号 113039
報告番号 甲13039
学位授与日 1997.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第813号
研究科 薬学系研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鶴尾,隆
 東京大学 教授 杉山,雄一
 東京大学 教授 松木,則夫
 東京大学 助教授 久保,健雄
 東京大学 助教授 橋本,祐一
内容要旨 【序論】

 固形がん内部では血管形成が不十分なため、低酸素状態・栄養飢餓状態などの特殊な環境が形成されている。こうした環境は、がん細胞にストレス応答を誘導し、グルコース調節タンパク質(glucose-regulated protein;GRP)と呼ばれるストレスタンパク質の合成を促す。当研究室ではこれまでに、ストレス応答したヒトがん細胞が多くの抗がん剤に耐性を示すこと、この耐性誘導には細胞周期のG1期停止が関与することを明らかにしてきた。したがって、ストレス環境下でのがん細胞のG1期停止の機序の解明は、固形がんの薬剤耐性の克服や新たな治療法の開発につながる可能性が考えられる。本研究で私は、EGFレセプターを高発現し低濃度のEGFによって増殖が誘導されるヒト扁平上皮がんA431細胞を用い、1)ストレス環境下での増殖因子EGF・EGFレセプターシグナル伝達系の抑制メカニズム、2)ストレスタンパク質GRPのストレス環境下での増殖制御への関与について検討し以下の成果を得た。

【結果・考察】GRPの誘導と細胞周期のG1期停止

 A431細胞をストレス誘導化合物である10mM2-deoxyglucose(2DG)あるいは10mM glucosamine(GlcN)で24時間処理すると、GRP78および94の発現量が増大しストレス応答が確認された(図1)。フローサイトメトリーによる細胞周期解析の結果、2DGあるいはGlcNの処理時間依存的にG1期細胞の増加と共にS期細胞の減少(G1/S ratioの増大)が認められ、ストレスによるA431細胞のG1期停止が明らかになった(図1)。

ストレス環境下で産生される低糖鎖型EGFレセプター

 上記のストレス環境下では、細胞増殖に十分な増殖因子(血清)が培地中に含まれているにもかかわらず増殖が抑制されることから、ストレスの増殖因子レセプターへの影響を検討することにした。A431細胞の増殖にはEGFレセプターが重要な役割を果たしていることから、ストレス環境下でのEGFレセプターの発現を調べた。EGFレセプターは、130kDdのペプチド部分の翻訳に共役して糖鎖付加され、170kDdの成熟レセプターとして細胞膜表面に発現される。2DGのストレス条件下にA431細胞を曝すと、2DGの処理時間に依存して、170kDaの成熟型EGFレセプターが減少し、その代わりに150kDaのEGFレセプターが増加した(図2A)。2DGなどのストレス誘導化合物が糖鎖合成を阻害すること、EGFレセプターの糖鎖に対する抗体の反応性が低下すること、糖鎖付加を阻害するツニカマイシン処理によって合成される130kDaのレセプターと明確に区別できることから、この150kDaのEGFレセプターは低糖鎖型(underglycosylated)のEGFレセプターであると結論された。

 EGFレセプターは、リガンドEGFの結合により活性化されレセプター自身及び特定の細胞内タンパク質のチロシンをリン酸化しシグナル伝達する。そこで、EGFレセプターのチロシンリン酸化について検討した(図2B)。A431細胞をEGF処理すると、170kDaの成熟EGFレセプターの顕著なチロシンリン酸化が認められた。一方、2DG処理によりストレス応答した細胞をEGF処理した場合には、低糖鎖型150kDaレセプターのチロシンリン酸化は検出されなかった。しかしながら、細胞を破砕後そのlysateにEGFを添加すると、低糖鎖型150kDaレセプターのチロシンリン酸化が顕著に誘導された。したがって、この低糖鎖型レセプターはEGFに対する反応性を有していることが明らかになった。EGFは細胞膜を透過できないことから、低糖鎖型150kDa EGFレセプターは細胞内に存在し、細胞外のEGFと結合できないためにEGFによる活性化(チロシンリン酸化)が起こらないものと考えられた。

GRP78と低糖鎖型EGFレセプターの細胞内複合体形成

 ストレスにより誘導されるGRP78は、小胞体(ER)の内腔に局在し、合成途中のタンパク質に結合し正常なフォールディングを補助したり、異常な構造を持つタンパク質や未成熟なタンパク質に結合し小胞体外への分泌を防ぐなど分子シャペロンとして機能する。ストレス条件下で合成される低糖鎖型の150kDa EGFレセプターとこのGRP78の複合体形成について免疫沈降法により検討した。2DG処理によりストレス応答したA431細胞のlysateを用い、抗GRP78抗体によって免疫沈降すると、GRP78とともに150kDa EGFレセプターが共沈した(図3A)。抗EGFレセプター抗体で免疫沈降した場合にもEGFレセプターとともにGRP78が共沈した(図3B)。したがって、GRP78と150kDa EGFレセプターは複合体を形成していることが明らかになった。このGRP78と150kDa EGFレセプターの複合体は、ATPの添加により解離されたことから(図3B)、複合体の形成にはGRP78の分子シャペロンとしての機能が関与していることが示唆された。GRP78は、ストレス条件下で合成される低糖鎖型150kDa EGFレセプターと結合することにより、レセプターを小胞体内にとどめていると考えられた。

ストレス環境下でのサイクリンD3の発現低下

 上記の結果より、ストレス応答したA431細ではEGFレセプターがGRP78と細胞内で複合体を形成し、細胞膜上に発現しないためにEGFからの増殖シグナルが遮断されていることが示された。このEGFシグナルの遮断が、細胞周期のG1期停止に関与するかを検証するため,G1期からS期の進行に必要なG1サイクリンのサイクリンD3の発現を調べた。Dタイプサイクリンの発現は一般に増殖因子刺激に依存しており、A431細胞においても血清の除去によりサイクリンD3の発現が低下し、また、EGFの添加によりサイクリンD3の発現が誘導された(図4A and B)。したがって、A431細胞でのサイクリンD3の発現は正常に制御されており、また、EGFによって誘導されることがわかった。次に、2DGおよびGlcN処理によってストレス応答したA431細胞について検討してみると、これらのストレスによりサイクリンD3の発現量が顕著に低下した(図4C)。このことから、ストレスによるEGFシグナルの遮断がG1期停止に直接関与していることが示唆された。

GRP78/EGFレセプター複合体の解離と細胞周期停止の解除

 GRP78/EGFレセプター複合形成と細胞周期のG1期停止との関係をさらに検証するため、ストレス条件下からのrelease実験を行った。2DG処理24時間後に培地交換しA431細胞をストレス環境下より解放すると、GRP78/EGFレセプター複合体は解離され、それに伴いEGFレセプターは徐々に170kDaの成熟型に変化していった(図5A)。EGFレセプターのチロシンリン酸化も回復し(図5B)、さらに、サイクリンD3の発現(図5C)も回復することが明らかになった。これらの変化に伴いG1/S ratioが低下し細胞周期のG1期からS期への進行が観察された(図5D)。

まとめ

 ストレス応答したA431細胞において低糖鎖型のEGFレセプターが産生されることを見い出した。低糖鎖型EGFレセプターは、細胞膜上に発現せず、分子シャペロンGRP78と安定な複合体を形成し細胞内に存在することを明らかにした。GRP78/EGFレセプター複合体の形成は、G1期からS期の進行に重要なサイクリンD3の発現低下を導き、ストレス応答したA431細胞のG1期停止に関与することを示した。以上のことからストレスにより誘導されるGRP78は、EGFレセプターを細胞内にとどめ、EGFからサイクリンD3への増殖シグナルを遮断し、ストレス環境下でのA431細胞の増殖を制御していると考えられた。

参考文献Cai,B.,Tomida,A.,Mikami,K.,et al.(1997)submitted
審査要旨

 固形がん内部では血管形成が不十分なため、低酸素状態・栄養飢餓状態など特有の環境が形成される。こうした環境は、がん細胞にストレス応答を誘導し、ストレスタンパク質GRPの合成を促す。ストレス応答したヒトがん細胞は細胞周期のG1期停止を介して抗がん剤耐性を示すことが明らかになってきており、ストレス環境下でのG1期停止の機序解明は薬剤耐性の克服など固形がんの治療研究の基礎として重要な課題である。本研究は、ストレスタンパク質GRP78が増殖制御に関与することを初めて見い出し、ストレス環境下でEGF・EGFレセプターによる増殖シグナルを抑制することを明らかにしたものである。

 以下、研究結果の要旨を記す。

ストレス環境下で産生される低糖鎖型EGFレセプター

 ヒト扁平上皮がんA431細胞を2-デオキシグルコース(2DG)あるいはグルコサミン(GlcN)で24時間処理すると、GRP78および94が誘導されストレス応答が確認された。細胞周期解析の結果、増殖因子(血清)が十分に存在するにもかかわらずG1期停止が起こることが明らかになった。そこで、ストレス環境下でのEGFレセプターの発現変化を調べた。EGFレセプターは、130kDaのペプチドに糖鎖付加され、170kDaの成熟レセプターとして細胞膜表面に発現される。ストレス環境下では、l70kDaの成熟型EGFレセプターは減少し、代わりに150kDaのEGFレセプターが増加した。この150kDaのEGFレセプターは、1)成熟型EGFレセプターの糖鎖に対する抗体によって認識されないこと、2)糖鎖付加の阻害によって合成される130kDaのレセプターと明確に区別されること、3)2DGなどのストレス誘導化合物が糖鎖合成を阻害することから、低糖鎖型のEGFレセプターであると結論された。

 EGFレセプターは、リガンドEGFの結合により活性化されレセプター自身及び特定の細胞内タンパク質のチロシンをリン酸化しシグナル伝達する。事実、A431細胞をEGF処理すると、170kDaの成熟レセプターの顕著なチロシンリン酸化が認められた。一方、ストレス応答した細胞をEGF処理した場合には、150kDaの低糖鎖型レセプターのチロシンリン酸化は検出されなかった。しかし、細胞を破砕後そのlysateにEGFを添加すると、150kDaレセプターは顕著にチロシンリン酸化され、EGFによって活性化され得ることがわかった。EGFは細胞膜を透過できないことから、低糖鎖型150kDaレセプターは細胞内に存在し、細胞外のEGFと結合できないためにEGFによる活性化(チロシンリン酸化)が起こらないものと考えられた。

GRP78と低糖鎖型EGFレセプターの細胞内複合体形成

 ストレスにより誘導されるGRP78は、小胞体内腔に局在し、合成途中のタンパク質に結合し正常なフォールディングを補助したり、異常な構造のタンパク質や未成熟なタンパク質に結合し小胞体外への分泌を防ぐなど分子シャペロンとして機能する。GRP78と低糖鎖型150kDaレセプターの複合体形成を免疫沈降法により検討した。2DG処理によりストレス応答した細胞の抽出液を用い、抗GRP78抗体によって免疫沈降すると、GRP78とともに150kDaレセプターが共沈した。抗EGFレセプター抗体で免疫沈降した場合にもレセプターとともにGRP78が共沈した。このGRP78/150kDaレセプター複合体は、ATPの添加により解離することから、複合体形成にGRP78の分子シャペロン機能が関与することが示唆された。

GRP78/EGFレセプター複合体形成と細胞周期停止

 ストレス応答したA431細胞ではEGFからの増殖シグナルが遮断されるが、この経路の遮断が直接G1期停止に関与することが示された。すなわち、G1期からS期の進行に関与するサイクリンD3の発現はEGF刺激によって増加するが、ストレス環境下ではサイクリンD3の発現が顕著に低下することが見い出された。さらに、細胞をストレス環境下より解放すると、GRP78/EGFレセプター複合体の解離、レセプターの成熟および細胞表面での発現、レセプターのチロシンリン酸化の回復に引き続き、サイクリンD3の発現も回復し、細胞周期がG1期からS期へ進行することが明らかにされた。

 以上のように、ストレス環境下で誘導されるGRP78は、EGFレセプターを細胞内にとどめ、EGFからサイクリンD3への増殖シグナルを遮断し、細胞増殖制御に関与することが分子レベルで示された。本研究は、固形がん内部での癌細胞の増殖制御機構という新たな研究領域を開拓したものであり、がん生物学、治療研究に寄与するところ大きく、博士(薬学)の学位に値するものと判断した。

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