英国ルネサンス演劇に於いて変装が用いられる割合は全体で7割を超え、最盛期の1610年代には8割をも超える。なぜここまで変装がもてはやされたのか。本論が主張する第一の点は、変装の流行は、16世紀後半に「世界劇場」(人生は芝居)の概念が広まっていたためとするものである。人生と演技を結びつけるこの概念に支えられ、別の自己を表象する手段である変装は、演劇の中にさらに演技の感覚を取り込むというメタ演技の手法として多用されたのである。しかも、チューダー朝は、ヘルメス思想に支えられた多様性の意識を強く持っており、その多様性に従って、16世紀後半の道徳劇に登場するヴァイス(悪徳)は様々な変装を繰り返した。そこでは変幻自在さが強調され、定まった自己というものは見られなかった。 以上の論はチューダー期演劇に於ける変装のあり方を説明するものだが、本論が主張する第二の点は、1610年代に異様な高まりをみせた変装熱の背後には、もう一つの大きな動き、すなわち新しい近代的主体(自己)の確立へ向けての動きがあったとするものである。それは、変装の背後に隠された主体へのこだわりが急激に大きくなり、変装をする者とその虚偽の姿とのギャップがことさらに強調されるようになった動きに呼応する。いわば変装という仮面の裏側に「演じる私」というものが見えてくるようになったのである。近代的主体がいつ確立したのかについては諸説あるが、本論では少なくともその萌芽は17世紀初頭にすでに見られると考える。それを確実に反映するひとつの事象が、1610年代に突然爆発的に流行した「人物点描」である。これは1608年に文学ジャンルとして確立したが、実は1600年頃から始まっていた。『ハムレット』が書かれた1600年頃から登場人物に人格が与えられ始めていたのである。 英語で「人格」を表す言葉はこの頃まだ存在していなかった。Characterという言葉が「人格」及び「性格」を意味するようになるのは、舞台に於いて変装が、そして文学に於いて「人物点描」が頂点を極めた1610年代を経た1621年以降のことなのである。それまでcharacterという言葉には「内実を表す外側の印」とか「筆跡」といったような意味しかなかったのだが、それが人間の内的特質を指すようになったところに、近代的自己としての内的一貫性の成立の萌芽が見られると考えられる。そう考えれば、変幻自在さが強調されていたチューダー朝の変装とは違って、17世紀の変装には、変装をして演じている自分を見つめる醒めた自分がいるという新たな構造が見られることも説明がつく。 本論では、ここに表象的自己と本質的自己の関係の推移を見る。表象的自己とは、他者との関係の中で自己が初めて意味を持ち、人の性格は行動を通して初めて捉えられるとする自己、あるいは様々な役柄を演じることで他者と対話的関係を打ち立てる役者としての自己のあり方であり、本質的自己とはデカルト的な主体によってのみ成立する自己、あるいは個人的特質によって形成される個としての自己である。15世紀中葉のクザーヌスの「我観られるが故に我あり」から17世紀前半のデカルトの「我思う故に我あり」に至るまで、自己のあり方は徐々に移り変わってきており、その変化はルネサンス演劇の変装にはっきりと読み取ることができるのである。本論の第三にして最後の論点は、この大きな推移のなかで、その動きがもっとも激化し、劇的な緊張をはらんだのは、まさにシェイクスピアの活躍期でもあった1589年から1608年であるとするものである。つまり、この時期以前は表象的自己が優勢を占め、以降は本質的自己の力が強くなってゆくのだが、この時期に於いてはどちらもが互いに譲らぬ力を発揮しあい、絶妙なバランスを保ち、その結果、極めて魅力ある複雑な人間像が舞台に投影されたのである。それは、社会的にも文化的にも激動の時代であり、まさにルネサンスが花開いた時代なのである。 本論は、以上のような視点に基づいて、中世から1642年までの変装の歴史を三章にわけて分析する。但し、表象的自己から本質的自己への動きの中に必ずしも位置づけられないのが、性差による変装である。特にシェイクスピアにも多数登場する男装の女性はルネサンス演劇に百人は下らないという事実を考えても、男装が当時どのような形で捉えられていたのか考察する必要がある。そこで本論最後の第四章では、男装の文化背景として、男女の衣装が互いに類似性を高めていった事情を確認する。そしてミドルトンとデッカーの『女番長モル』(1611)を取り上げ、男装の主人公は変装をしているのではなく、社会的役割に影響されない固定した自己の主体を守るために、わざと社会的に認められた衣装を放棄し、社会のあり方(guise)を批判しているのだと結論づける。 |