内容要旨 | | 本研究の目的は2つある.1つは昆虫のニューロエソロジ(神経行動学)のための機械的,電気的な実験装置とソフトウエアのツールを提供すること.もう1つはゴキブリの逃避行動を調べること.その研究のアプローチは,エンジニアのアプローチである.昆虫の神経系をブラック・ボックスと見なし,入力・出力の関係を探る.昆虫のニューロエソロジは工学に広く貢献する.ロボティックスではマイクロロボットの設計,コンピュータサイエンスでは人工神経網,バイオロジでは新しいモデルの構築に役に立つ.本研究で使用した実験昆虫は,世界の暖かい所に繁殖しているワモンゴキブリ,学術名はペリプラネタ・アメリカナである. 昆虫の頭部にある触角からの司令は介在神経を経て神経節へ伝わって行く.神経節はロコモーション・パターンの制御部である.ゴキブリは頭を切断しても歩行できる.脳の神経数は多いが,1つ脚のモーターニューロンは70個位しかない.脳と神経節内の神経と違って,モーターニューロンはすべて同定可能である.神経節からのモーターニューロンが筋肉を収縮させる.表皮にあるプロピオセプターは,表皮の歪みを測定し,力のセンサになっている.そのフィードバック・ループは次の要素を含む:モーターニューロン,筋肉,プロピオセプター,神経節のインターニューロン. 昆虫は小さいので,普通は顕微鏡の下で操作する.電極を刺したり,解剖したりするときには次の問題がおこる.解剖するためのツールはたくさんあるが,研究者はそれらを同時に使いこなすことができない.また人間の筋肉は不安定であるためツールの先が振動してしまう.それらの問題点の対策のために,「マグシス」を製作した.マグシスはマグネットを使っているパッシブなマニプレーション・システムである.鉄板の基板の上にL字型ホルダを磁石で固定されている.そのL字型ホルダはxy移動と回転ができ,3自由度を持っている.そのホルダにもう一つの磁石でツールを固定する.ツールとして:電極,マイクロ剪刀.ピペットなどある.機械的な小さいリンクで構成されているため振動が少なく,1センチ立方のワークスペースで複数のツールをセットアップできる 昆虫とコンピュータの間のインタフェイスを図1に示す.電気刺激しながら昆虫の歩行行動をコンピュータで制御,その時の速度や回転速度を記録するために,トラックボールシステムを作成した.ユーザインタフェイスはLabVIEWというグラフィカル・プログラミング言語で作成した.外部との通信はシリアル・ポート,入出力拡張ボードとGPIB拡張ボードで行われている.昆虫側は触角と尾葉に刺激を与える.ゴキブリの反応はトラックボールで測定する.ロータリエンコーダの情報はPICを搭載したインタフェイスを経てコンピュータに送られる.オプティカル・エンコーダが二つ使われている.一つは回転,もう一つは前進速度を検出する.ゴキブリの筋電を胸部からとって,前置増幅器を通って,アナログ入力拡張ボード,または,デジタルオシロスコープへ送る. 図1:昆虫とコンピュータのインタフェース 図2は実際にトラックボールで測定した前進と回転速度のプロファイルである.刺激のパラメータである,パルス幅(t)は1ms,パルス数(N)は20である.前進スピード・プロファイルは,四角形の形で速度は約30cm/sである.前進と回転速度を積分すると,距離と角度を得られる.ここでは,歩行距離は35cm,角度約80度である.刺激を送った瞬間を見ると,まず一歩後ろへさがる.回転は0.25秒後で終わり,ピークは200msのときある. 図2:トラックボールで測定した前進と回転速度プロファイル パラメータ選択の戦略は,昆虫の反応は,ばらつきが大きくで,時間が立つと変わるため,時刻が離れていると刺激・反応が比較できなくなるため比較したいパラメータを15秒おきに変更して刺激する.パラメータの値は,間隔を指数関数に基づいて選ぶ.これからの実験でパルス数Nをパラメータとして,3,10,30,100に設定した.またスピード・プロファイルから積分して歩行距離を計算した.各パラメータにおける歩行距離を線で結ぶとその線は頻繁に交差する.そのばらつきをキャンセルするため各実験の平均を取った.そうすると,線の交差がなくなる.歩行距離はパルス数Nが大きくなるほど大きくなる(図3).実験を15分間隔で繰り返すと,疲労のため反応が小さくなる.2時間休憩を与えると,ある程度回復する. 図3:パルス数Nを3,10,30,100に設定したスピード・プロファイルの平均 次に左右の触角への刺激に対する反応を計測した.30秒間隔で右側,左側を刺激した.その結果を見ると,一般的に右の触角へ刺激すると左へ回転する,左の触角へ刺激すると,右へ回転する.この実験にもばらつきがあるが,左右の回転方向がよく区別されて,交差は少ない.刺激時間が大きくなると,方向の区別がなくなる(図4).パルス幅が1ミリ秒の場合は,Nが10,30,100になると,回転角度がだんだん大きくなる.パルス幅が3ミリ秒の場合は,刺激のバースト幅が長すぎると,方向の区別は減少する.その理由は,先ほどのスピードプロファイルで回転速度インパルスは250ミリ秒で,刺激時間がそれ以上長くなると,昆虫は混乱状態になるからと考えられる. 図4:Nが10,30,100での回転角度の平均 今まで刺激の強さと左右区別を調べた.ここで時間の影響を見る.片側の刺激を連続的に繰り返すと,回転角度は時間が経つと指数関数的に小さくなる(図5).その値の平均と標準偏差を対数グラフに表示すると,結果は直線になる.N=3,10の平均はゼロ,ここの場合N=10がスレショルドになっている.標準偏差の値はすべて線の上にある.標準偏差は大きく,平均値と同じぐらいである. 図5:回転角度は時間が経つと指数関数的に小さくなる.その平均と基準偏差. 今までの実験データに基づいて,刺激反応の単純な3段階モデルを提案した(図6).入力は刺激の強さN,出力は角度シータ又は距離sである. 図6:簡単な3段階モデル 第1目の段階でウエーバ法則により,対数関数的な変換をするスケーリングを行う. 第2目の段階で内部状態とヒストリの影響が現れる. 指数関数の指数は今まで加算した刺激である.最後の段階にランダムな変更を加える. そのガウス分布の平均は1,シグマは0.5〜1.0である.実験データとMathematicaのシミュレーションの結果を比較した. 内部状態を分かるために筋電位を測る.ゴキブリは300位の筋肉を持っている.筋肉の大部分は胸部にある.ゴキブリ体重の約50%は筋肉である.脚を動かすためには複数の筋肉が使われている.背板に固定されたリモータとプロモータは基節(coxa)の前進・後進をアクチュエートする.背側にはいろいろな筋肉が固定されている.安定する所なので,筋電を測定するには,便利な場所である.ゴキブリの胸部に4カ所電極を刺している.不関電極を腹部にさしてある.その面積は検出電極の面積よりずっと大きい.グラフには4つ筋電図(EMG)を示している.左側と右側のバーストは180度の位相差がある.バースト幅は30ミリ秒,周波数は約12Hzである(図7). 図7:胸部の4カ所の筋電図(EMG) 図8に電子バックパックのモジュールを示す.中心は8ビットPICマイクロコントローラである.その周りにプログラムとデータ保存のEEPROM,電源として3Vのリチウム電池,筋電位を増幅するオペアンプ,環境からの情報を取り出す光センサ,とコントローラの命令を受ける赤外線モジュールがある.エレクトロニック・バックパックの特徴を以下に記す. ・自然の中で実験できること, ・神経と筋電信号の収録, ・複数カ所の電気刺激, ・装置は非常にコンパクト, ・電子回路は背中の上にあるから,接続線は非常に短くて,ノイズに強い. 図8:エレクトロニック・バックパックの概要図 最初に「ペーサ」という回路を作成した.ペーサはただの刺激発生装置である.パソコンからプログラムをダウンロードできる.後ろに2つのLEDが付いている.その回路は接着剤で直接胸部と腹部の表皮に接着した.この実験で分かった点は,重心は高すぎて転びやすい,固定した電極は不便,背中に接着した回路は不便で交換は出来ない,である. トラックボール・インタフェイスとエレクトロニック・バックパックにはPICという8ビットマイクロコントローラを採用した.その特徴を次にあげる.CMOSなので,非常に低電力,採用した16C71はプログラムメモリ1キロのEEPROMとデータの36バイトのRAMを持っている,クロック周波数は4MHz,3ボルトから6ボルトまで駆動できる.電流はクロックに比例し,32kHzで動作する場合,わずかの15mAしか消費しない.入出力は13ライン,AD入力は4チャンネル,アーキテクチャはデータとプログラムが分離されたハーバードタイプのRISCアーキテクチャである. 「テレローチ」というエレクトロニック・バックパックは赤外線受信モジュールを含む.市販のCDリモートコントローラから,命令を送ることができる.赤外線モジュールのためリチウム電池を2つを載せる必要がある.ゴキブリの背中にコネクタと電極の基板を設置した.このコネクタに細いケーブルをつなぐと,有線で制御できる. デジタル回路をうまく使えば,アナログの値も測定する事ができる.電流が生体組織を通って,キャパシタをチャージする.生体組織とキャパシタとのRC時定数を測定する.時定数はインピーダンスに比例する. 「トレーサ」には環境の情報を検出できるセンサが搭載されている(図9).白黒二段階だけの情報を検出できる非常に簡単な光センサである.トレーサのプログラムは,黒線にフォローするように設定されている.アルゴリズムは簡単である.まず昆虫を黒線に置く.線から離れると,光センサが黒線との交差を検出する.そうして反対側の触角に刺激して,黒線の方へ戻す命令を送る.短い距離では線の上を歩けるが,距離が長くなると,回転角度のばらつきによって補正ができない場合もある. 図9:「トレーサ」(Tracer)と「テレローチ」(TeleRoach)というエレクトロニック・バックパック 最後に結論として,ニューロエソロジはロボティックスにいろいろ貢献する.例えばロコモーション・コントロール,逃避行動,人工ニューラルネット,センサ・インテグレーション,飛行中の姿勢制御など. 逆にロボティックスもニューロエソロジに貢献する.生物学的なモデルをロボットでテストできる,人工脚を作ると,昆虫の脚の構造をより理解できる,人工神経回路モデルから,昆虫の神経回路に存在する要素を推測できるなど. 将来については,MEMS技術を採用して昆虫型のマイクロロボットを作るのが,一つの目的であるが,それ以外昆虫の中枢神経系をより理解できれば,コンピュータサイエンスと制御論にも重要な貢献になる.マイクロ電極と生理信号のモニタリングは将来医学と人間にも貢献するはずである. |
審査要旨 | | 本論文は,「電気刺激による昆虫の行動発現に関する研究」と題し,7章からなっている. 昆虫は,高等動物に比べるとニューロンの個数がはるかに少ないこと,従って,行動の発現メカニズムも比較的単純であること(主に反射行動と定形行動が中心である)などの理由もあって,最近,昆虫の「神経生理学」,「神経行動学」等に著しい発展が見られている.そこで,その成果を工学に応用すると同時に,工学側から協力できそうな事柄も多くありそうだと言う考えが盛んになってきた.そのような学際的な協力から生まれるであろう成果は,ロボティクスではマイクロロボットの設計理論や制御アルゴリズムの構築に役立つであろうし,AIの分野では人工神経網の研究に良いヒントを与えるかもしれないし,生物学では昆虫の工学的なモデル形成などに役立つ可能性が大きいと考えられている.本論文は,まさにその一環をなす研究をまとめたものである. 第1章「序論」では,上記のような本研究の背景が述べられ,大きな目的が2つあることが示されている.1つは,昆虫の神経行動学のための新しい実験システムを開発し提供することであり,もう1つは,そのシステムを用いて,ゴキブリにおける入力(刺激)と出力(行動)の関係を定量的に測定し,評価すると共に,開発したシステムの有用性をも実証することであると述べている. 第2章「昆虫の構造と神経および筋肉システム」では,ゴキブリの構造や,本研究に関係する神経系,筋肉系について説明されている.触角からの情報は,介在神経を経て神経節へ伝わり,神経節からのモーターニューロンが筋肉を収縮させる.一脚のモーターニューロンは70個位,筋肉は300個位しかなく,すべて同定されている(マップが出来ている).このような過去の研究の実績を利用できることが,本研究において,実験対象昆虫としてゴキブリを選んだ理由のひとつであると述べている. 第3章「筋電位の測定とデータ処理」では,ノイズが多く含まれる可能性の大きい生体計測を如何に巧みに行って,正確なデータを獲得するかの工夫について述べられている.とくに,筋電位を計測するために筋肉に挿入する双極電極については独自のものを製作している.ポリイミド基板上に2本のステンレス針を0.6ミリの間隔に並べて固定しこれを挿入端として用い,信号は銅線を半田付けして取り出すものを作っているが,これまでの電極に比較して,生体に与える影響も少なく,正確な筋電位を測定できると報告され,製作法も詳しく説明されている. 第4章「昆虫の総合実験システム」では,顕微鏡の下で昆虫に電極を刺したり,解剖したりする操作を行い易くするための工夫が盛り込まれた実験システムの開発について述べられている.従来から,これらの操作を行うツールは数多く存在するが,同時に使いこなすことが不可能であったり,人間の手の震えのために精密な操作が出来なかったりするする欠点があった.そこで,「マグシス」と名付けたシステムを作り上げている.これは,電極,マイクロ剪刀,ピペットなどのツールを任意の姿勢で任意の位置に磁力で固定できるホルダーが,基盤上でX-Y移動と方向転換の3自由度を持つようになっており,これも磁力によって基盤に固定できるようになっている.1センチ立方のワークスペースで複数のツールがセットできるこのシステムは,本研究で威力を発揮し,実験が効率良く行えたと述べてられている. 昆虫の行動の記録のためには,トラックボールシステムを開発している.これは,背中を接着剤などで位置と方向を固定された昆虫を,中心回りの回転が自由である球殻面上で歩行,走行させ,球殻の回転を二つのロータリーエンコーダで測定して,移動速度,移動距離,移動方向,方向転換角速度などを計測するものである.計測結果はコンピュータに取り込まれるようになっている.触角や尾葉に電気刺激を与えてその反応行動を調べる本研究のような場合には非常に適した装置であると考えられる.今後,いろいろな昆虫実験に有用であろう. 第5章「昆虫の電気刺激による実験」では,触角に電気刺激を与えて,ゴキブリに逃避行動を起こさせ,刺激と逃避速度および逃避方向の関係を定量的に調べた結果が述べられている.また,その結果を基にゴキブリの逃避行動のモデル構築を試みたり,ゴキブリを目的点まで誘導する実験の結果が述べられている. 生体実験において,個体差があるのは仕方がないとして,同一個体でも再現性を得るのは難しい.入力(刺激)の与え方(パターン)によって,出力(行動)の再現性が大きく異なるのである.そこで,刺激と行動との因果関係をきちんと定量的にに把握するには,与える刺激パターンをうまく定める必要がある.本研究では数多くの刺激の仕方を探った結果つぎのようなパターンを用いることにしている.左あるいは右の触角に,電圧4.5V,幅1msのパルスを1msの間隔でN個与えるのを刺激の1単位とし,N=3,10,30,100の4種類を用いている.Nは刺激の強さを表わすパラメータと考えられる.単位刺激を与えて走行距離(単位刺激に対してある時間だけ走行するとゴキブリは停止する.それまでの距離)を測定するが,刺激を与える時間間隔もデータのばらつきに影響を与える.実験によれば15秒間隔で与えるのが最適であった.したがって,N=3からN=100までの4種類の刺激を与える実験は1分で1サイクルである.これを10ないし15サイクル繰り返して平均値を実験データとすることによりばらつきを少しでも解消しようとしている.15分実験を続けると疲労のため昆虫の反応が悪くなるが,2時間の休憩を与えると回復する.以上のような実験法で得られた結果は,刺激の強さに対して走行距離は単純増加を示し,再現性もあり,信頼できる定量的なデータを得ている. 方向転換に関しては,左右の触角に上記の刺激パターンを30秒毎に交互に与えて回転角度を調べている.N=3,10までは回転角度は0で,10が閾値で,N=30,100の刺激に対して回転角度が単純増加している.この場合も,再現性は確認されている. 上記の刺激パターンとは異なる刺激,たとえばパルス幅を3msにすると,方向転換に関する実験結果はでたらめなものになってしまい,長い時間の刺激では昆虫が混乱状態になってしまっている様子が分かる.適当な刺激パターン選択の重要性が如実に示されいるといえよう. ゴキブリの逃避行動モデルでは,入力(刺激)と出力(走行距離,回転角度)は対数関数的であって,飽和があること,刺激の回数が増すと,反応が指数関数的に下がってくること,出力にはガウス分布状のランダム性があることなどが組み込まれ,モデルによるシミュレーションと実際のゴキブリの動きがよく似ていることが述べられている. トラックボール上のゴキブリに電気刺激を与えることで仮想的な目標点へ誘導する実験も行われているが,必ずしも毎回成功するわけではないが,ここで行っているような単純な刺激方法にしては良好な結果が得られていると云えよう. 第6章「ゴキブリ用電子バックパック」では,ゴキブリの背中に小さな電子装置(3グラム位)を搭載して,自由走行可能な状態で実験する試みが述べられている.装置には,3Vのリチウム電池,オペアンプ,光センサ,赤外線モジュールなどが含まれており,ワイヤレスで外部から刺激を与えて走行させる実験,白い床の上に描かれた黒線を追跡させる実験などを行って,今後のこの分野の研究での利用可能性を実証している. 第7章「結論」では,本論文の結論がまとめられている. 以上を要するに,本論文は,昆虫における入力(刺激)と出力(行動)の関係を定量的に計測することを対象としつつ,工学と生物学との学際的な融合を試みようとした研究をまとめたものであって,情報工学,ロボット工学に寄与するところが少なくない.よって,本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる. |