本論文は、重陽子のD状態波動関数の高運動量成分の研究を目的とし、偏極重陽子ビームを偏極ヘリウム3標的に入射して(d,p)反応を行い、(c-parallel)と呼ばれる偏極相関係数を測定した結果をまとめたものである。この研究においては、偏極重陽子源と偏極ヘリウム3標的の建設が必須であるが、論文申請者は、その双方に取り組み、特に偏極ヘリウム3標的の建設では中心的な役割を果たした。 さて、重陽子の波動関数は、原子核物理学の最も基本的な研究対象であり、陽子-中性子の距離が大きな領域では、非常に良く理解されている。しかし、近距離(高運動量)での振る舞い、特にD状態に関してはまだ理解されていない部分が多い。すなわち、幾つかの実績ある核力模型によるD状態波動関数の計算値が、陽子-中性子の相対運動量が数十MeV/cを越えたところで互いに大きく異なっている。そこで論文申請者はこの問題に取り組む新しい手段として、偏極ヘリウムを標的とし、偏極重陽子ビームを用いた(d,p)反応の偏極相関係数測定を提案した。偏極相関係数()は「スピンが並行な場合の散乱断面積と非偏極散乱断面積の比」と定義される。平面波ボルン近似によると、は重陽子波動関数のD状態密度に強く依存すると予想され、この研究には最適な観測量であると考えられた。 この実験を行うために、論文申請者が中心となって、理化学研究所にスピン交換型の偏極ヘリウム3標的を建設した。ビームを通すために薄い窓を持ったガラスセルに封じ込んだヘリウム3ガスにルビジウムを混入し、円偏光させたダイオードレーザー光でルビジウム原子を偏極させ、その偏極をヘリウム3原子核に移行させる。ここで最も重要なのが、ヘリウム3原子核のスピン偏極緩和時間を十分に長く保つことであるが、論文申請者は、セル内の不純物除去等により、テストセルで65時間という十分長い偏極緩和時間を達成した。標的の密度は2.2×1020atoms/cm3であり、世界的に見ても高密度の部類に入る。なお,実験中の偏極度は約12%であった。 実験は理化学研究所加速器研究施設のリングサイクロトロンで重陽子を270MeVに加速し、これを前述の偏極ヘリウム3標的に当てて行われた。前方4°に散乱された陽子を、2.6m下流に置いた上下左右4組の検出器で検出した。各検出器は、径2インチ、厚さ3インチのNaIシンチレーターと厚さ2ミリのプラスチックシンチレーターよりなる。これらの検出器の前には、重陽子分解反応から来るバックグラウンドを取り除くため、エネルギー減衰器が置かれた。このエネルギー減衰器の厚さを調整することによって、バックグラウンドを大幅に取り除き、効率的に測定を行った。4組の検出器を用いることとビーム及び標的の偏極の組み合わせを変えることによって、様々な系統誤差を打ち消し、信頼性の高い偏極観測量が導出された。 その結果として得られたは、0.223±0.044(統計誤差)±0.037(系統誤差)であり、代表的な核力ポテンシャルを用いた平面波ボルン近似の予想値(0.695)より大幅に小さかった。重陽子と陽子の歪曲を考慮した計算を行っても計算結果はほとんど変化しなかった(0.615)。この実験と理論の不一致は、という観測量が、当初の予想とは異なり反応機構を敏感に反映しているためと考えられるが、その解明は今後の研究課題である。 論文の最後の部分では、陽子・重陽子の後方散乱、及び重陽子の分解反応における偏極分解能・偏極移行係数と本実験結果との比較を行った。これらの反応は、反応機構が類似であり、偏極測定量にも互いに簡単な関係が成り立つと考えられる。事実、相互のデータには類似性が認められたが、本実験の測定点が、陽子-中性子の相対運動量が230MeV/cの一点のみであるため、確定的な結論を得るには至らなかった。 以上述べたように、本論文は実験の立案、装置の建設、データの解析を論文提出者が主体となって行い、中間エネルギーの原子核反応機構を偏極測定量を通じて解明する新しい糸口を開くものであり、博士(理学)の学位を授与できると認める。 |