審査要旨 | | 本論文は,戦後期から現代に至る時代の日本における,子育てをめぐる公的なシステムの変遷を主題として,その社会的な背景と実態的な帰結にも目を配りながら,歴史的,総合的なサーヴェイを行ったものである。 本論文は,5つの章と,序章,終章,補論とから構成されている。序章は問題意識と,具体的な研究課題の設定であり,公的領域における子育て関連ニーズの充足を社会的なパースペクティブから捉えようとする筆者の企図と,戦後から現代に至る日本における,子育ての公的システムの変容を,保育関連政策の展開過程とそれによる公的支援の推移を追うという課題が提示される。第一章は先行研究の成果と,論点の整理に当てられ,福祉国家論の流れと,フェミニズムの視角からの福祉国家研究の流れとを踏まえた上で,子育てをめぐる社会的分業に関する論点が整理される。第二章では,子育ての背景としての,戦後日本の社会の変容が,人口構造の側面(第一節),家族構造の側面(第二節),女性の就労の側面(第三節)から概観される。第三章では,戦後期から現代に至る時代の日本の保育政策の変遷が主題化される。保育所(第一節),児童手当(第二節),育児休業(第三節)の「三本柱」について,それぞれ,政策化の意義,国際的動向が簡潔に概観された上で,日本における法制化の経過と,制度の展開が詳細に跡づけられている。第四章は,この第三章の成果(政策,法制,制度展開)を、第五章(社会的な効果,帰結と実態)に媒介するための用意として,保育関連政策の時期的な動向が小括される。第五章では,子育てにおける公的な支援の推移が,その社会的な実態において主題化される。第三章の「三本柱」は,それぞれ,保育サービスの提供(第一節),子育てコストの分担(第二節),権利としての育児の保障(第三節)という,より一般的な視点から捉え返され,その社会的な実態が詳細に跡づけられ,考察される。終章では,以上のサーヴェイと考察が簡潔に要約された上で,戦後期から現代に至る日本の,子育てをめぐる公的システムの特質と問題点について,(1)「ジェンダーによる分業に基づく家族」を前提とする福祉政策であること。(2)政策意図の指向性としては,保育関連政策の発展期における,北欧型の「制度的福祉国家」から,新保守主義的な転換期以後の,アメリカ型の「自由主義的福祉国家」への接近が見られること。(3)子育て支援の形態からみると,国際的な動向としての現金給付の優先性とは対照的に,圧倒的に現物給付の形態をとっていること。(4)子育て支援制度の財政構造が複合的であり,公的責任の限度があいまいであるということが,実態面での帰結として,諸々の不平等を形成していること。等が,それぞれ実証的な根拠に基づいて指摘され,子育てをめぐる社会的分業のあり方が,国家,家族,市場等の関わりの再編成と,男女役割の分業構造等を含めた社会構造の再検討をとおして,新しく構築されてゆくことの可能性が展望されている。補論では,筆者自身が参画してオリジナルに行った,中野区民を対象とする,「乳幼児の親の意識と実態に関する調査」(有効回収票で,276組の父母)の,結果が報告され分析されている。 本論文は,特にその実質をなす第三章,第五章において見られるように,現代日本の保育に関する上記3つの分野についての,このように総合的な,かつ,政策・制度形成の過程と社会的な実態とを両面から把握した研究は,これまで,日本人自身によってもなされていないものであり,筆者の故国にとってはもちろん,日本人研究者たちにとっても,大きな意義をもつ基礎的な業績であるといえる。 このことの基本的な評価の上で、本論文の問題点(批判,および疑問)として,審査委員会において提起された主要な論点は,次のようなものであった。 第1に,大量の資料を丁寧に用いた労作であることの結果,時に資料集を読んでいるような感じを与えることがある。理論的にオリジナルなものであるという感じが少ない。特に第三章の「3本柱」の内,保育所と育児休業に関しては,専門家なら知っていることばかりではないのか。 第2に,筆者は全体として,保育について国が前面に出ることを積極的に評価しているが,労働力の再生産に関するコストの非個人的な分担主体としては国だけでなく,地方公共団体,または市場という選択もあり得,その方が財政資源の配分の視点から見ても,また,いわば保育内在的な理由からも,合理的であることもあるのではないか。特に,児童手当を所得制限を解いて支給すべきとの主張には,専業主婦世帯や裕福な世帯にまで支給することは税金の無駄遣いではないか,等の反対論もありうる。 その他詳細の点としては,(3)第四章の時代区分の根拠が明確でない。特に,第1期と第2期の境が「67年」であるのはなぜか。等。(4)本論文でいう「現物給付」は,むしろ「サービス給付」というべきものを多く含むのではないか。(5)筆者は子育てコストの分担主体を,公的/私的の2分法で考えており,結論部も「国家か市場か」という問題の立て方になっているが,いわばその中間の,communalなものの可能性も視野に入れるべきではないか。(6)福祉国家の類型論として,筆者はエスパイン-アンデルセンを踏襲して,カナダをアメリカ合衆国と同じ類型としているが,これはエスパイン-アンデルセンの誤りで,カナダはアメリカとは別の類型と考えられるべきである。等の指摘,あるいは意見が出された。 これらに対し,審査の過程では,次のような肯定的な指摘,あるいは証言がなされた。 第1に,個々の記述の内容を立ち入って見ると,この分野の専門家にとっても新しい知見を幾つか見ることができる。たとえば第三章においてすでに,育児休業の法制化過程における審議会の経過など,日本人の研究者にとっても新鮮な情報が含まれている。更に第五章は,財政構造分析にオリジナルな観点がみられ,しかも各自治体の内部資料など,未公開の財政行政データにも足を運んで行った実態分析は,充実している。その結果,国の基準と,実際の経費とのズレの補填をめぐって,どのような実態的な不公平,不都合が生じているかなど,理論的にも意味のある結論を引き出している。 第2に,保育コストの分担をめぐる,国,自治体,市場,共同体,等の役割については,専門家の間でも大きく見解の分かれる所であり,筆者は,故国での福祉政策の充実に資するという抱負もあって,国の果たすべき役割を積極的に評価しているが,単にイデオロギー的な主張はしておらず,それなりの根拠と説得力とをもって記述されている。(費用の自治体等への転嫁の政策が帰結する実態的な問題点の指摘等。)最も反論の多かった,児童手当の支給制限条項への批判的検討も,筆者の企図は,専業主婦の子育てもまた社会的意義をもつものとする考え方に立つものであり,また,少数富裕層への支給の弊害よりも,中間層への(3歳以降の)拡大の意義を考慮するものであり,賛否は別として,1つの見識に立つものと考えられる。 第3に,前項の主題と関連して,本論文の,政府/自治体/企業/保護者の,分担状況の現実の推移の追跡を基礎とした,法制の制定当初の状況とその後の社会の変動とのズレの帰結する,現実の保育ニーズと保育行政とのズレの実態とその原因の分析は,いわば相関社会科学的な考察の成果の1つとして評価しうる。 前記「問題点」の(3),(4),(5),(6)に関して見ると,(3)第4章の時代区分に関しては,研究者の問題意識によっては異見もあり得るが,たとえば第1期/第2期の境に関しても,「保育所緊急整備5か年計画」の開始による,「社会保障の対象としての子育て」の実態的な充実化など,筆者としての根拠は示されている。(4)物でなくサービスの給付を含めて「現物給付」とすることは,筆者自身疑問を感じているものであるが,本論文が膨大に引用せざるを得なかった日本の官庁統計の分類に便宜上従ったものである。(5)communalなものの可能性への目配りは,たしかにあまりされていないが,「子育てをめぐる社会的分業」についての本論文の基本スキーム等をみても,全く考慮されていないわけではない。(6)カナダの位置づけは,指摘の通りであるが,本論文の全体の流れの内では,極めて枝葉の欠陥であり,また,エスパイン-アンデルセンの論文自体に問題があることは,国際的な専門家の間でも必ずしも認識の共有されていない水準の問題点であるということを示すとも考えられる。 以上を総合するならば,本論文は,けっして絢爛たる理論的独創性を誇るタイプの業績ではないが,戦後期から現代に至る日本の保育に関する政策,法制とその社会的,実態的な帰結,展開に関して,広範な第1次資料に当たって辛抱強くこれを整理し,総合的に事実を記述した初めての業績であると同時に,この過程で幾つかの独自の発見を行い,また幾つかの問題点の指摘を,事実に裏打ちされて行ったものということができる。このような基礎的な実証の蓄積を土壌として初めて,後日筆者自身による,あるいは後続の研究者による,一層先端的な理論的展開もまた可能となると考えられる。と同時に,また本論文自体として直接的に,現場の保育,市民運動,政策立案,行政実務,等に携わる人々にとって,必要な情報資料を体系化して提供し,視点と問題意識とを整理する上で大きく役立つものであり,本論文の学界内・外に対する貢献は大きいものということができる。 以上の理由から,本論文は,博士(学術)学位を授与されるに値するものと結論する。 |