本稿は、『平家物語』を倫理思想として読み解く一つの試みである。 第一章では、『平家物語』の制作を促した動機とは何であるかを問う。 第一節から第三節までは、動機を問う手掛かりとして、物語中、滅びゆく当事者の傍らにあって、滅びを見聞する人々の描かれ方を見る。滅びゆく当事者の傍らには、あるいはその従者が、あるいは滅ぼす側の武士が、あるいは滅んだ者の縁故の女性が描かれている。いずれも、当事者の滅びをわがこととして受けとめ、単なる傍観者である以上に当事者に準ずる存在として描かれている。ことに建礼門院は、生起した出来事を六道輪廻になぞらえて語りつつ、出来事の各部分をなす事象についても、出来事全体についても、意味づけをなす。 第四節では、物語制作の動機とその由来を問う。『平家物語』制作の動機は、人々が平家滅亡を己れの出来事として経験するところに生じた、過ぎ去ったものへの反復衝動であった。人々が動機をもち得た前提には、人々が既に日々、さまざまな仕方で一回的な生への反復をなしていることと、平家滅亡の場合、子孫が絶え、日々自ずからなる反復が不可能となり、反復衝動がことさら際立ったこととがある。 第二章では、『平家物語』が、その制作を促した動機をいかに実現しているかを問う。 第一節では、過ぎ去った全体的な出来事の反復の仕方を見る。直線的時間軸を創出し、その上に事象を配列する年代記的叙述を通じて、過ぎ去った事象への確実な回帰をなし得るようになる。また年代記的叙述は、各個人を出来事全体のうちへ位置づける効果ももつ。 第二節では、過ぎ去った個体的な生の反復の仕方を見る。瞬間的な光輝、あるいは昴揚する情念において、個体の一回的な生が反復され、意味づけられている。 語は、家の運命の転変をめぐる清盛と重盛の葛藤を通じて理解する。史実からの虚構的逸脱をなしつつ、ともに理想的な人間として二人を描き、かつその二人の共存不可能性を見ることによって、平家滅亡を受け容れる。さらに物語は、建礼門院の往生を伝える叙述によって、滅亡の彼方から滅亡を位置づけ直す。すなわち、この世の時間を超えて、真実の終着点たる浄土往生へと至る過程として、滅亡が位置づけられている。 |