高い生理活性を持つアルカロイドは植物の二次代謝産物であり、近年の植物細胞培養法の発展により大量かつ安定に生産できる期待が持たれている。アルカロイドを微量含有する培養液から効率的に濃縮分離回収する方法として、吸着法は期待できる方法の一つと考えられるが、培養液の中には目的のアルカロイドと構造的にまたは性質的に類似の物質が多量に共存するため、吸着分離においては各化合物の間の競合吸着や溶媒による選択的な脱着などについての体系的な理解が必要である。本研究は、以上の観点からアルカロイド・溶媒・吸着剤の3者の間の相互作用やアルカロイドの吸脱着挙動、溶媒の影響などに関する分子レベルでの理解を深めるために、分子シミュレーション(分子力学と分子動力学)によりアルカロイドの吸脱着分離に関する基礎的な検討を行ったものである。 第1章においては、アルカロイドの分離における問題点を整理するとともに、吸着平衡に関する各種予測理論の限界を示し、分子シミュレーションの吸着現象への適用に関する既往の研究を整理している。これにより、本研究において、分子構造のみから類似化合物の間の相対吸着容量及び優先吸着を予測する手法、また吸着されたアルカロイドの吸着剤からの脱着に適切な溶媒を選択する手法を構築することを目標としている。 第2章では、まず、液相吸着の分子シミュレーションのためにアルカロイド・溶媒・固体表面からなる吸着系を表現する分子群モデルを構築した。この分子群モデルは一つのアルカロイド分子とそれを取り囲む溶媒分子のシェル及び吸着剤固体表面からなっている。ここでは、溶媒分子が逃げ出さないようにドーム型の反射壁をシェルの外面に配置し、これにより必要かつ最少数の溶媒分子を用いることによる計算時間の短縮化を可能としている。この分子群モデルに分子力学法及び分子動力学法を適用し、真空-固体界面、溶媒-固体界面およびバルク溶媒中におけるアルカロイドの挙動を検討し、アルカロイド-固体表面とアルカロイド-溶媒間の相互作用エネルギーを求めた。アルカロイド分子の固体表面近傍での挙動のシミュレーション結果によると、芳香環がグラファイト面に平行な状態で吸着されているアルカロイド分子が最も安定な状態であること、また分子のコンフォメーションは溶媒への溶解及び固体表面への吸着過程でほとんど変化しないことなどが明らかとなっている。また、溶液中から固体表面への吸着に伴うアルカロイド分子のポテンシャルエネルギーの時間変化により、吸着に及ぼす溶媒の影響が明らかにされている。 第3章では、分子シミュレーション法と疎溶媒理論を組み合わせることにより液相吸着における溶媒効果を検討する計算手法を構築している。本手法の特徴は、溶媒効果に起因するポテンシャルエネルギー変化を溶質の物理化学的物性からではなく分子構造のみによって計算できることである。本手法を用いて、ベルベリン系アルカロイドの6種類の溶媒中からのグラファイト面への液相吸着を検討し、アルカロイドの相対吸着容量に関する知見を得、液相からグラファイト面への各種のアルカロイドの優先的な吸着及びグラファイト面からのアルカロイドの脱着に対する溶媒の溶出強度などを予測している。また、吸着容量の予測結果を検証するため、ベルベリン系アルカロイドのCoptis japonica Makinoの水抽出液から活性炭素繊維への吸着実験を行い、本手法による計算結果が実験結果を良く説明している。 第4章においては、溶質のバルク液相から吸着面への吸着メカニズムを分子レベルで解析するために、吸着に伴う吸着質・溶媒・吸着面からなる吸着系の正味の吸着エネルギーを分子シミュレーションを用いて計算する手法を開発している。ベルベリン系アルカロイドの溶媒中からのグラファイト面への吸着における正味の吸着エネルギーを計算し、各アルカロイドの相対吸着容量及び各種溶媒の相対溶出強度を予測し、ベルベリン系アルカロイドの選択吸脱着に関する検討を行っている。 第5章では、ベルベリン系アルカロイドの炭素表面への吸着挙動における表面官能基の影響を分子動力学法により検討している。即ち、炭素表面の含酸素官能基に注目し、ベルベリン系アルカロイドの吸着に及ぼす官能基の種類や密度などの影響を考察している。本結果はベルベリン系アルカロイドの吸着分離に適切な活性炭の表面改質に重要な指針となりうると考えられる。 第6章は以上の検討結果の総括を行い、今後の展開の方向を示している。 以上要するに、本研究は、アルカロイドについて分子構造の情報のみから炭素表面上の吸着容量及び適切な脱着溶媒を予測する手法を構築した。本論文で構築した分子シミュレーション手法は、溶液系のアルカロイド等の複雑分子の吸着分離操作における吸着剤及び吸脱着プロセスの設計に有用な指針を与えたという点で工学的な価値の高いものである。 よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。 |