学位論文要旨



No 113066
著者(漢字) 尹,炳星
著者(英字)
著者(カナ) ユン,ピョンソン
標題(和) 水稲直播栽培における出芽制御機構に関する生態学的研究
標題(洋)
報告番号 113066
報告番号 甲13066
学位授与日 1997.12.18
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1844号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生産・環境生物学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 秋田,重誠
 東京大学 教授 石井,龍一
 東京大学 教授 長戸,康郎
 東京大学 教授 坂,齋
 名古屋大学 助教授 山口,淳二
内容要旨

 米生産費の低減のための直播栽培に世界的な関心が寄せられている。しかし、作物として栽培が始められて以来移植栽培を行ってきた現在の極東アジアの水稲においてはほとんどの品種の直播栽培に対する適性は低い。直播適性のなかでも、特に、水稲の生育初期が低温である温帯稲作に直播栽培を導入するにあたって、出芽能力を向上させることは出芽自体の安定化と同時に直播栽培で最大の問題である耐転び倒伏性の向上にも寄与する重要な形質である。本論文は温帯北限地帯における水稲直播栽培を安定化するうえで最も緊要とされる水稲の低温下かつ湛水土壌中からの出芽という生態学的問題を解決するために出芽の制御機構を形態学的・生理学的手法により解明しようとした。

第1章低温・湛水土壌条件下での稲の出芽速度と胚重の関係

 温帯北限地帯の水稲直播栽培を安定化するうえで不可欠な条件となる低温下かつ湛水土壌中での出芽性の品種による変異の大きさとその変異の機構を胚の大きさに着目して検討した。胚重の頻度分布は、インド型品種では最小0.28mg、最大0.76mg、平均は0.47mgであったのに対して日本型水稲品種では最小0.41mg、最大0.81mg、平均0.60mgであった。供試した158品種中18℃の湛水土壌条件下で25%出芽率に達した品種は102であった。25%まで出芽しなかった56品種の大半はインド型品種および陸稲品種であった。インド型品種と日本型水稲品種の出芽係数の頻度分布はインド型品種の場合は平均0.8と低い値であったのに対し、日本型水稲品種の場合は5.5であった。これまで低温下での出芽がよいとされてきた米国・ヨーロッパの品種Fortana I-133、Italica livornoやインド型品種のなかで低温・湛水土壌条件下での出芽が良好な品種のほとんどは胚重が大きいグループに属していた。このことは胚重が大きいことは高い出芽性を示すための一つの条件であることを示唆している。しかし、供試したすべての品種を対象にすると胚重と出芽係数の間にほとんど相関が見られないうえ、ハタニシキなどのような品種は胚が大きくても出芽が悪い場合があり、また、農林6号、上州などのように胚が小さいにもかかわらず比較的高い出芽性を示す場合もあった。この結果は胚重が大きいことが低温・湛水土壌中からの出芽について十分条件ではないことを示しているともに出芽は胚重による支配をある程度うけるが、胚重以外の初期生長速度の差をもたらす要因による支配もかなり強く受けることが明らかとなった。

第2章稲の低温・湛水土壌条件下での出芽とアミラーゼ活性

 低温下でしかも湛水土壌中というストレス条件下における稲品種の出芽性とアミラーゼによるデンプン分解系の関わりについて検討するため、上記条件下の試験において出芽の良好なものと不良のもの合計25品種を選び、常温(30℃)と低温(18℃)下においてそれぞれ大気中酸素濃度区(濾紙上)、湛水区(1.5cmの水中)、湛水土壌中区(種子を播種後厚さ1cmの覆土と深さ1cmの湛水)の合計6つの処理区を設け、出芽およびアミラーゼ活性を調査した。幼植物の長さ(出芽長)と全アミラーゼ活性の関連性を検討した結果、低温・湛水土壌条件区では出芽長と全アミラーゼ活性の間に高い正の相関(r=0.81**)が認められた。しかし、常温下ではいずれの区でも出芽長と全アミラーゼ活性の間に相関は見られなかった。ついで、ザイモグラムを用いてアミラーゼ分子種について解析すると-アミラーゼ活性はどのような条件下でも発現したが、-アミラーゼ活性は条件によって発現する場合としない場合が見られた。すなわち、低温・湛水土壌条件でも-アミラーゼ活性が検出されるグループ(I)、常温・通常の酸素濃度下では-アミラーゼ活性があるが低温・湛水土壌条件では検出されないグループ(II)、実験したすべての条件下でも-アミラーゼ活性が検出されないグループ(III)の三つに分けられた。特に、低温・湛水土壌条件でのグループ(I)は幼植物の長さと-アミラーゼ活性との間に正の相関を示したが、グループ(II)はほとんど出芽しなかった。また、グループ(III)は出芽特性によりさらに二つのタイプ、すなわち、陸稲などの品種群グループ(IIIA)と農林6号などの水稲品種グループ(IIIB)に分けられ、前者は出芽が悪かったのに対し、後者は高い出芽性を示した。グループ(II)の水原287号では-アミラーゼ遺伝子のなかのRAmy1Aのみしか見られなかったが、グループIの長香稲およびグループ(IIIB)の農林6号では発芽直後に-アミラーゼ遺伝子のサブファミリーが検出された。この結果は低温・湛水土壌条件という実用的な直播条件下での出芽においてアミラーゼによるデンプン分解系が強い支配をもっており、特に-アミラーゼの関わりのつよいことおよび発芽・出芽の初期段階で-アミラーゼのサブファミリの発現が出芽を大きく支配することを示すと考えられた。

第3章水稲の出芽とアミラーゼ活性、遺伝子発現の調節機構

 前章において見いだした-アミラーゼ活性の発現パターンの異なる三つのグループから代表品種として各々長香稲、水原287号、農林6号を選び、時間経過にともなうアミラーゼ活性変化と関連遺伝子の発現場所および発現の時間経過をin situハイブリダイゼーション法を用いて検討した。アミラーゼ活性の発現傾向はこれまでの試験とほぼ同じであり、30℃の大気中酸素濃度条件下では長香稲、水原287号ともに1日目には-アミラーゼ活性が、2日目には強い-アミラーゼ活性が見られた。18℃の低温・湛水土壌条件下では長香稲、水原287号ともに-アミラーゼの活性は3日目に見られた。また、長香稲の-アミラーゼの活性は3日目に見られ、時間経過とともに活性が強くなった。しかし、水原287号は21日目でも-アミラーゼの活性は見られなかった。-アミラーゼ遺伝子の低温・湛水土条件下の発現はいずれの品種でも3日目胚盤上皮細胞で発現した。アリューロン層での-アミラーゼ遺伝子の発現は長香稲のみで見られた。-アミラーゼ遺伝子については低温・湛水土壌条件下での発現は長香稲の場合は胚付近のアリューロン層で3日目に発現、その後、さらに胚乳先端側に広がった。低温・湛水土壌条件下で-アミラーゼ活性が見られなかった水原287号の場合は-アミラーゼ遺伝子も発現しなかった。常温・大気中酸素濃度下でも9日目に-アミラーゼ活性が見られなかった農林6号について低温・湛水上壌条件下で経時的に遺伝子発現状況を追跡したが、9日目まで発現は見られなかった。この結果、in situハイブリダイゼーション法で得られたアミラーゼ遺伝子の発現パターンは電気泳動法による活性測定の結果とほとんど一致しており、アミラーゼ活性が遺伝子の転写レベルで調節されている可能性を示唆した。-アミラーゼ活性の有無が低温・湛水土壌中での稲種子の出芽に際し、実際にデンプン分解に影響を及ぼしたかを確認するため、低温・湛水土壌条件でも-アミラーゼ活性を示す長香稲、銀坊主、Fortana I-133、低温・湛水土壌条件になると-アミラーゼ活性が抑制される水原287号、試験したすべての条件下で-アミラーゼ活性がなかったコシヒカリ、農林6号を用いてPAS反応によりアリューロン層に近い部分のデンプン分解の状況を顕微化学的に調査した。この結果、-アミラーゼ活性の有無により、胚盤細胞に近い胚乳部分のデンプン分解量の変化が見られ、-アミラーゼ活性の高い長香稲の方が-アミラーゼ活性の見られない水原287号より胚盤上皮細胞および胚盤上皮細胞と隣接したアリューロン層に近い胚乳部分のデンプン粒が大きく減少した。また、-アミラーゼ活性のザイモグラムの結果はほぼ同じで、-アミラーゼ活性が見られる銀坊主と見られない農林6号を比較したところ前者の方が胚盤上皮細胞および胚盤上皮細胞と隣接したアリューロン層の近い胚乳のデンプン粒の減少が大きかった。したがって、-アミラーゼ遺伝子の発現とデンプン分解とが対応する可能性が示された。

 以上の結果、温帯北限地帯という厳しい条件下で水稲直播を安定下させるための基本的条件である湛水土壌中からの安定的出芽には(1)胚重、(2)-アミラーゼ活性、さらには、(3)-アミラーゼのRAmy1A以外のアイソザイムの発現が関与することを形態的観察、酵素活性の測定、遺伝子発現を調査することにより明らかにした。しかし、極東アジアのように玄米品質を重視する稲作地帯ではヨーロッパ品種のように胚の大きい形質は搗精歩合を低下させる。したがって、出芽を安定化するためには極東アジアの水稲直播栽培のような低温・湛水土壌という厳しい条件下で品質をも考慮に入れ、-アミラーゼ活性、あるいは農林6号のような-アミラーゼのサブファミリの発芽初期での発現を選抜の対象とすることが望ましいと考えられた。

審査要旨

 本論文は、温帯北限地帯における水稲の直播栽培の安定化のために必要とされる出芽という作物生態学上重要な問題を取り上げたものである。これまでの、発芽・出芽の機構についての研究と異なり、実際に農業場面に求められる要求に応えるという明確な視点のもとに行われた研究であり、イネの出芽という生態的現象を支配する主要な形質の同定、これらを支配する遺伝子の発現との対応関係までを取り上げた生理学的、形態学的にもオリジナリティーの高いものである。内容の要旨は以下の通りである。

 まず、これまで低温下での生育が比較的良いとされてきた水稲品種を中心とするイネ158品種を用いて極東アジアの直播栽培に求められる低温・湛水土壌条件下で、出芽速度に強い影響を及ぼす可能性が指摘されてきた胚重との関係を検討している。その結果、出芽が良好な品種のほとんどは胚重が大きいグループに属してはいたが、供試したすべての品種を対象にした場合、胚重と出芽速度の間にほとんど相関を見出すことは出来ず、胚重が大きいことは低温・湛水土壌中からの出芽について一つの条件ではあるが十分条件ではないことを示した。また、温度、酸素濃度が異なる条件下での品種による出芽特性を比較し、比較的温度が高い、あるいは低温でも酸素が十分ある中で行われてきたこれまでの品種の反応と、低温・湛水という条件下での出芽の反応はまったく異なっていることから、このような特殊な条件下で働く出芽の制御機構はこれまで明らかにされてきた出芽の制御機構によっては説明することが出来ないことを示した。

 次に、上記観察結果の中から低温・湛水下で出芽速度が上位、中位、下位に属する合計25品種を選抜し、胚重以外の出芽制御に関わる要因として重要なアミラーゼ活性と低温・湛水土壌条件下での出芽速度の関係について検討し、出芽長と全アミラーゼ活性の間に、低温・湛水土壌条件下では高い正の相関があることを見出した。そこで、ザイモグラムを用いてアミラーゼ分子種の発現パターンの品種間差を解析、-アミラーゼ活性はどのような条件下でも発現したが、-アミラーゼ活性は条件によって発現する場合としない場合が見られることを見出し、この-アミラーゼの環境条件および品種による発現様式の分類を試みた。このようなイネの-アミラーゼ発現様式の分類は世界的にもはじめての研究である。さらに、-アミラーゼ活性の発現と出芽速度の間に強い関係のあること、-アミラーゼ活性が見られないにもかかわらず出芽が良い場合には、RAmy1A遺伝子に対応する-アミラーゼ以外の-アミラーゼサブファミリーが検出されることを明らかにした。この結果は低温・湛水土壌条件という実用的な直播条件下での出芽に対しては、アミラーゼによるデンプン分解系が強い支配をもっており、特に、発芽・出芽の初期段階で-アミラーゼ、あるいは、-アミラーゼサブファミリーの発現が強く関わることを見出した。

 さらに、低温・湛水土条件下でのイネ種子中におけるアミラーゼ遺伝子の発現の時間的・空間的発現状況をin situハイブリダイゼーション法を用いて検討し、-アミラーゼ遺伝子は3日目胚盤上皮細胞で発現すること、また、-アミラーゼ遺伝子についてはこれが発現する品種では胚付近のアリューロン層で3日目に発現、その後、さらに胚乳先端側に広がり、-アミラーゼ活性が見られなかった品種では-アミラーゼ遺伝子も発現しないことを明らかにし、in situハイブリダイゼーション法で得られたアミラーゼ遺伝子の発現パターンが電気泳動法による活性測定の結果とほとんど一致する、すなわち、アミラーゼ活性が遺伝子の転写レベルで調節されている可能性を示した。また、-アミラーゼ活性の有無と胚盤細胞に近い胚乳部分のデンプン分解量の変化は連動しており、-アミラーゼ遺伝子の発現とデンプン分解量とが対応することを示した。

 以上のように、本論文は温帯北限地帯という厳しい条件下で水稲直播を安定下させるための基本的条件である低温湛水土壌中からの安定的出芽には、-アミラーゼ活性、あるいは-アミラーゼのなかでもRAmy1A以外の遺伝子により支配されるアイソザイムの発芽初期での活性を選抜の対象とすることが望ましいことを形態的観察、酵素活性の測定、遺伝子発現を調査することにより明らかにするとともに、その制御の機構の端緒を切り拓いたものであり、応用上のみならず学術的にも価値が高い。よって、審査員一同は本論文が博士(農学)の学位を授与するにふさわしいと判断した。

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