本論文は、温帯北限地帯における水稲の直播栽培の安定化のために必要とされる出芽という作物生態学上重要な問題を取り上げたものである。これまでの、発芽・出芽の機構についての研究と異なり、実際に農業場面に求められる要求に応えるという明確な視点のもとに行われた研究であり、イネの出芽という生態的現象を支配する主要な形質の同定、これらを支配する遺伝子の発現との対応関係までを取り上げた生理学的、形態学的にもオリジナリティーの高いものである。内容の要旨は以下の通りである。 まず、これまで低温下での生育が比較的良いとされてきた水稲品種を中心とするイネ158品種を用いて極東アジアの直播栽培に求められる低温・湛水土壌条件下で、出芽速度に強い影響を及ぼす可能性が指摘されてきた胚重との関係を検討している。その結果、出芽が良好な品種のほとんどは胚重が大きいグループに属してはいたが、供試したすべての品種を対象にした場合、胚重と出芽速度の間にほとんど相関を見出すことは出来ず、胚重が大きいことは低温・湛水土壌中からの出芽について一つの条件ではあるが十分条件ではないことを示した。また、温度、酸素濃度が異なる条件下での品種による出芽特性を比較し、比較的温度が高い、あるいは低温でも酸素が十分ある中で行われてきたこれまでの品種の反応と、低温・湛水という条件下での出芽の反応はまったく異なっていることから、このような特殊な条件下で働く出芽の制御機構はこれまで明らかにされてきた出芽の制御機構によっては説明することが出来ないことを示した。 次に、上記観察結果の中から低温・湛水下で出芽速度が上位、中位、下位に属する合計25品種を選抜し、胚重以外の出芽制御に関わる要因として重要なアミラーゼ活性と低温・湛水土壌条件下での出芽速度の関係について検討し、出芽長と全アミラーゼ活性の間に、低温・湛水土壌条件下では高い正の相関があることを見出した。そこで、ザイモグラムを用いてアミラーゼ分子種の発現パターンの品種間差を解析、-アミラーゼ活性はどのような条件下でも発現したが、-アミラーゼ活性は条件によって発現する場合としない場合が見られることを見出し、この-アミラーゼの環境条件および品種による発現様式の分類を試みた。このようなイネの-アミラーゼ発現様式の分類は世界的にもはじめての研究である。さらに、-アミラーゼ活性の発現と出芽速度の間に強い関係のあること、-アミラーゼ活性が見られないにもかかわらず出芽が良い場合には、RAmy1A遺伝子に対応する-アミラーゼ以外の-アミラーゼサブファミリーが検出されることを明らかにした。この結果は低温・湛水土壌条件という実用的な直播条件下での出芽に対しては、アミラーゼによるデンプン分解系が強い支配をもっており、特に、発芽・出芽の初期段階で-アミラーゼ、あるいは、-アミラーゼサブファミリーの発現が強く関わることを見出した。 さらに、低温・湛水土条件下でのイネ種子中におけるアミラーゼ遺伝子の発現の時間的・空間的発現状況をin situハイブリダイゼーション法を用いて検討し、-アミラーゼ遺伝子は3日目胚盤上皮細胞で発現すること、また、-アミラーゼ遺伝子についてはこれが発現する品種では胚付近のアリューロン層で3日目に発現、その後、さらに胚乳先端側に広がり、-アミラーゼ活性が見られなかった品種では-アミラーゼ遺伝子も発現しないことを明らかにし、in situハイブリダイゼーション法で得られたアミラーゼ遺伝子の発現パターンが電気泳動法による活性測定の結果とほとんど一致する、すなわち、アミラーゼ活性が遺伝子の転写レベルで調節されている可能性を示した。また、-アミラーゼ活性の有無と胚盤細胞に近い胚乳部分のデンプン分解量の変化は連動しており、-アミラーゼ遺伝子の発現とデンプン分解量とが対応することを示した。 以上のように、本論文は温帯北限地帯という厳しい条件下で水稲直播を安定下させるための基本的条件である低温湛水土壌中からの安定的出芽には、-アミラーゼ活性、あるいは-アミラーゼのなかでもRAmy1A以外の遺伝子により支配されるアイソザイムの発芽初期での活性を選抜の対象とすることが望ましいことを形態的観察、酵素活性の測定、遺伝子発現を調査することにより明らかにするとともに、その制御の機構の端緒を切り拓いたものであり、応用上のみならず学術的にも価値が高い。よって、審査員一同は本論文が博士(農学)の学位を授与するにふさわしいと判断した。 |