学位論文要旨



No 113072
著者(漢字) 馬,耀輝
著者(英字)
著者(カナ) マ,ヨウフイ
標題(和) 清末国会開設請願運動の研究
標題(洋)
報告番号 113072
報告番号 甲13072
学位授与日 1998.01.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第128号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 並木,頼寿
 東京大学 教授 石井,明
 東京大学 助教授 黒住,真
 東京大学 助教授 村田,雄二郎
 東京大学 教授 佐藤,慎一
内容要旨

 一九〇七年の九月から十一年の年頭にかけて、清末中国では、国会開設請願運動(以下、運動と略称する)が発生した。先行研究においては、運動に関わっていた、君主立憲制の理論的・実践的指導者や政治団体の活動の考察に重点を置いて論及されている。しかし、運動の期間・回数という基本的な事実についてさえ定まった見方がまだなく、その全貌は明らかにされていない。また、先行研究においては、人々の政治意識の喚起や革命への目覚め、清朝の予備立憲の虚偽性と政治の腐敗ぶりの暴露など、辛亥革命の成功と清朝の崩壊に積極的な役割を果たしたという点に、運動の歴史的意義が見出されている。確かに、そのような歴史の因果関係に、運動は影響を及ぼした。しかし、運動自体はもともと革命に向かって歴史の進路を開こうとするものではなかった。むしろ、革命を回避しようとした。従って、本論文は、新聞・雑誌の報道・論評、請願書、上奏文、個人の日記などを手掛かりに、清末社会の変動との関連において、運動の生成・展開過程及び要求の理由・内容を明らかにし、運動の歴史的意義・位置づけを再検討した。

 まず、当時の時代背景を見たところ、国内外の危機的状況と清朝政府の「新政」着手の中、運動発生の諸前提として、清末の社会には様々な変化が現われていた。新聞・雑誌の発刊や新聞閲覧所・講読所の設置、演説会の開催など、新知識・情報の伝達手段と伝播機関が増加した。新式学堂の増設に伴って学生数が急増し、商業、教育、政治など、様々な社団も叢生し始めた。しかも、学堂・社団を媒介ないし拠点として利権回収や外国商品不買、対外借款反対の運動が繰り広げられていた。時期を同じくして、民族資本による民営企業も発展期を迎え、一部の地域では、地方自治の試行が開始された。これらの変化と共に、士紳や学生、一般民衆が政治・経済・外交・教育の諸問題及びそれらに対する政府の取組みに関心を持つようになり、政策決定過程に関わることによって問題の解決を図ろうとする政治参加の傾向が強まってきた。運動はそうした変化や傾向と相俟って、政治的・社会的状況の推移の中で登場した。七回に及ぶ運動の展開過程は次のように要約される。

 最初の請願は一九〇七年九月二十五日、日本留学中の知識人ら百人以上の連名による請願書を都察院に提出する形で清朝政府に対して行われた。二回目は一九〇八年三月十日、四千人以上の署名とされる「湖南全体人民民選議院請願書」の提出で実施された一省の名義の請願であった。この請願は各省に刺激を与え、他の省も署名を集め、上京代表を派遣し、七月から十月にかけて都察院にそれぞれ請願書を提出した。合計十万人近くの人々が署名し、十七省が参加したこの三回目の各省連合請願に対して、政府は九年内に諸予備事項を完成し、憲法を発布し、議会を召集する、という九年の国会開設期限の決定で応えた。

 一九〇九年には請願がなかったが、翌一九一〇年に入ると、四回あった。一九一〇年一月の第一次請願は、前年十月に開設された諮議局の十六省・三十三人の議員代表が北京に集まり、連名による請願書を都察院に提出した。今回の請願は、以前の各省の任意的結合と署名者多数による総意表明の上京請願とは違い、法定的民意表示・議政機関である諮議局の民選議員が全体的・代表的意見を表出すると意味づけられていた。しかも、諮議局の最初の議政が行われた後に請願はなされており、議員らは議政を遂行しえた民度の高さは国会にも十分通用するという自信を抱いていた。しかし、諮議局には、議政範囲上と権限範囲上の限界が存在した。諮議局が請願に乗り出したのも、請願が却下された後、諮議局連合会が結成されたのも、諮議局が直面した限界の解消・克服を志向するものと思われる。

 請願却下後、北京の請願代表団は早速、大規模な請願活動を練り始め、諮議局と請願即開国会同志会、京師国会期成会、教育会、商会、政治団体を足掛かりに、各省・各団体の連携・結集による連合上京請願が実現した。一九一〇年六月の北京で、元の諮議局議員代表に加わって、二十省の諮議局・教育会・商会・政治団体・紳民から派遣された、一四六人以上と思われる請願代表は一大請願グループを形成した。代表分野の多様さに応じて、請願書も十四通に上る。しかし、政府の返事は相変わらず、却下であった。

 第三次請願においては、請願書の提出先が、都察院から開設まもない資政院に変わったことと、各地に督撫の代理上奏を要求するデモ行進が発生したことなどの変化があった。結果的には、国会の即時開設は、法定的民意表示・議政機関の諮議局が会合して議決した議案として法的手続きに沿って提案され、資政院での議論を受け、多数決の原則に従って可決され、十月二十八日、上奏された。一方、各地のデモ行進による代理上奏の要求に督撫たちも応じた。しかも、二十人近くの督撫が連名で国会の即時開設を二度上奏した。衆論に囲まれて、政府は、国会を宣統五年(一九一三年)に召集するという期限短縮の上論を発布したが、請願代表たちを帰郷させ、国会の即時開設を再議してはならないと命じた。

 しかし、奉天から第四次請願を引き起こす動きがあった。上京代表が派遣され、奉天でデモ行進が行われ、天津でも学生の授業ボイコット・デモ行進が発生した。政府はまたも請願を却下した。しかも、強硬な姿勢で各地の請願活動を抑えた。

 七回の運動を集計すると、二十省の約六十万人が関わっていた運動であった。その展開過程に即して言えば、運動は、清末社会の変化とともに様々な政治関与の傾向が出てきた中で、政治への民意の反映を求めた過程に人民の代表が参加することを求めた、平和的手段による全国的規模の政治的大衆運動であった。

 運動の主な要求内容は、国会の開設にあった。しかし、国会を開設しなければならない理由は、政治的・社会的状況の推移と共に、異なる中身を持っていた。最初の請願は、政府の官制改革に対する批判・不満からその端を発した。責任内閣の設立が実現しなかったため、国会なしに行政府に行政責任を負わせることは不可能である、ということが強調されていた。次の湖南省請願の場合は、それまでの政治的・社会的出来事において、政府の様々な不当とされる挙措に対する専制体制の弊害の実感から、専制体制より立憲体制への移行に国会の不可欠さが指摘されていた。その年の各省請願になると、外交・内政における諸困難を解決する道として、国会開設のメリット、例えば国力の増強や利権の回収、実業の振興、財政の整理、教育の普及、地方自治の施行、民度の向上、民心の安定、君権の保障などが具体的に提起された。諮議局開設後の国会開設論は、諮議局の限界解消・克服の意味合いを帯びるものとなった。さらに後の三回の請願では、主に予備立憲の不十分・無効果や資政院の非議会的性質に対する批判から、国会の即時開設が要求されていた。

 これら要求理由の異なる中身に対し、請願運動の全過程において、国会の開設を通じて一貫して実現されようとしたのは、立法と行政監督という二原則の確立であった。運動はその時代の様々な問題を指摘し、その原因を政府有司の専制に求め、その改革方法として、行政府を責任政府にしなければならないが、そのためには、三権分立に立脚し、立法・行政監督の機能を具え、民選議員で構成される国会の開設が必要だと要求していた。そして、国会開設のメリットは、実に多く指摘された。例えば、国家主権の確立、利権の回収・保護、行政方針の統一、実業の振興、財政の整理、地方自治の普及、省間の利益衝突の調整、国内各民族の平等、教育の普及、民度の高い均質的な国民の創出、民衆の国民的連帯感・一体感の形成などである。国会開設に万能薬としての期待がかけられたのである。その意味で、運動は、立憲政治、とりわけ国会開設の実現を通じて、上下の一体化と協力による、責任政府の成立と政府の職能強化、民生の発達、国家の富強に対する強い期待感の反映であったと言えよう。しかも、運動は、多数決の議事原則と上京請願代表の公開選挙、法定の手続、平和的手段を踏まえた上で、国家・社会の発展進路への期待を表明し、国会開設の要求を国民的意見として盛り上げた。従来の「政治改革」と言えば、皇帝・政府高官の主導によるものや民衆の革命蜂起によるものが多く見られる中国歴史においては、運動のような形のものは、類例を見ないと認めなければならない。

 清朝政府は、国会開設の期限を宣統五年と明確に定めたものの、即時開設を受け入れなかった。その原因については、皇族は責任内閣や国会の開設による皇帝権力と政治的主導権の失墜、漢人官僚の実権掌握に対して、危惧の念を抱いていたこと、及び権力の中枢は政治的決断の能力に欠けていたこと、皇族・官僚の権力争いで反対勢力が権力の中枢にすがりついていたことが考えられる。

 本論文の考察で、運動は次のように規定することができよう。つまり、運動は、清末中国に発生した、不特定多数の権力・権限を持たない個人や集団が、国会開設という政治的目的のもとに結集し、平和的な請願・署名・デモなどの方法でその政治的目的の実現を通じて、国民としての参政権の獲得と国民参政機関の設立による政治体制の根本的な変革を目指す、体制変革運動であった。また、清末社会の変化と結び付けて考えると、運動には、近代的政治制度の早期成立や産業の発展、観念の変化、近代国民国家の形成などの諸側面から、中国の近代化の進行方向への転機が内在していたと考えられる。その意味で、運動は、中国近現代史の転換点に当たる歴史的出来事と位置づけられよう。

審査要旨

 本研究は、20世紀初頭の清朝末期の中国において、くり返し実行された国会開設請願運動の実態を、関連する史料を網羅的に博捜し、詳細に描き出した労作である。この国会開設請願運動は、清末に行われた政治改革をめざす一連の動きのなかにあって、とくに国民意識の形成と新たな政治体制の構築を目的としたものとして、深く検討されるべき重要な歴史的事件であったと考えられる。従来の研究史においては、清朝支配の崩壊と中華民国の成立を重視する観点から、国会開設請願運動についても、辛亥革命の成功による共和政中国の誕生の前史として、革命情勢の形成に貢献した面にのみ光があてられ、請願運動自体に即した研究はほとんどなされてこなかった。本研究は、このような研究史をふまえて、先行する関連研究では十分に明らかにされてこなかった運動の全体像を提示し、さらにそこで展開された請願運動の論理を明らかにして、運動の歴史的な意義を確認しようとしたものである。

 本研究は、1907年の初頭から1911年にかけてくりかえして展開された国会開設請願運動を、それぞれの段階の請願書の分析はいうまでもなく、関連して当時の新聞・雑誌の報道や評論記事、中央・地方の官僚の上奏文、個人の日記や文集などの記事など、徹底的に史料を発掘・紹介しながら、その展開過程に即して詳細に明らかにした。これによって、清朝末期のいわゆる「新政」の時期に活発化した責任内閣制度の導入と国会の開設を求める世論の動向が明らかにされるとともに、今後さらに研究を進展させるための基盤が整備された。このように、本研究は開拓的かつ実証的な、今後の研究にも貢献しうる成果をあげた業績として、高く評価することができる。

 本研究は、先行研究の検討と本論文の研究視角を明らかにした序章につづいて、以下のように構成されている。まず、第一章「運動発生の歴史的諸前提」において、清末中国の内外の危機、とくに清末の社会変動と国際環境の変化の概要が述べられる。とくに、請願運動の実現をもたらした新たな知識や情報の移入と受容、学堂や社団の増加と大衆運動の登場、重商主義思潮の台頭と近代産業の発展、地方自治制度の萌芽などの問題をとりあげ、清朝の政治体制がこうした動向に対応しえなくなる趨勢を明らかにした。

 ついで第二章「「運動」の始動」においては、清朝が日本および欧米各国に派遣した海外政治視察五大臣の報告が作成される経過、およびその内容を検討し、清朝が「予備立憲上諭」を発布して限定的な官制改革に着手したのに対して、熊笵輿をはじめとする責任内閣制度の導入を重視する人々が国会開設論を展開し、「民選議院請願書」を提起して世論を指導したことを明らかにした。

 第三章「一九〇八年の「湖南全体人民」の請願」では、革命運動の昂揚や清朝中央の権力闘争、満洲族と漢族の政治的権能を調整する問題、地方財政や借款問題などとの関連のなかで、楊度によって起草された「湖南全体人民民選議院請願書」が、湖南省のみならず中国各地の世論を刺激し、各省からの請願書の提出へと拡大した経過を明らかにした。

 第四章「一九〇八年の各省請願」は、そのような全国に拡大・波及した運動の広がりを詳細に追跡し、請願運動が中国各地でそれぞれどのような団体や組織によって担われたかを明らかにし、また、清朝中央が世論を背景にした請願運動の盛り上がりにどのように対応したかについても検討した。

 第五章「一九一〇年の請願運動-諮議局議員らの請願」では、1908年の請願運動によって各省に設置された諮議局の活動と関連して、地方自治の推進を国会の開設とどのように関連させるかについて展開された論争を紹介した。そして、地方自治の実現のためにも優先的に国会開設をはかるべきだとする議論が優勢を占めた事情、および江蘇諮議局の指導者張〓に率いられた諮議局議員代表らの上海会合から、北京での請願活動の展開について詳論した。

 第六章「一九一〇年の請願運動-第二次から第三、第四次へ」は、本研究においてもっとも精彩を放つ部分であるが、各省諮議局の代表が北京に集まって、繰り返して国会開設を訴えた運動の昂揚を描き出し、このような情況に対処するため清朝が国会開設期限の短縮をはじめとして、運動に譲歩せざるを得なかった過程を明らかにした。また、各省の諮議局のみならず、北京に設けられた資政院、各省長官である総督・巡撫などが、当時の官制において可能な合法的手続きをつくして運動を推進したことを解明し、代議制的な政治手法が請願運動を通じて現実的に受容されつつあったことを明らかにした。

 このように、本研究は1907年の初頭から1911年にかけてくりかえして展開された国会開設請願運動を、その展開過程に即して詳細に明らかにし、そのような作業をふまえて、終章「請願運動の歴史的意義・位置づけ」において、国会開設請願運動の歴史的な意義と位置づけを論じた。本研究が、論文の終章において強調していることがらをまとめると、以下のように要約できる。

 まず、請願運動の全過程をつうじて、国会の開設によって清朝政府の行政を監督しうる機構が求められた。それによって皇帝は行政責任から自由となり、行政官僚の専制が抑制されるだけでなく、立憲政治の確立によって政府の機能が強化され、さらに国家の富強が達成されることが唱えられた。国会の開設には、内外の困難な課題を一挙に解決しうる特効薬の役割が期待されたのである。これは楽観的な期待ではあったが、本研究は、それをつうじて国家や国民の概念が急速に世論に受け入れられるに至ったことを重視する。

 さらに、国会開設請願運動は、従来の清朝の政治体制にあった「上書」の手続きを踏むことから始まって、しだいに政治的な団体や機関が合法的な方法を駆使して改革意見を表明し、政府にその実施を強く求めるものへと変化していった。これは、政治体制の上層にある権力中枢の権力闘争や、下からの破壊的な民衆反乱などによって政治の方向が変わるのをつねとしてきた中国の歴史に前例を見ないもので、幅広い社会層を背景にした新しい政治運動であった。この点を、本研究は、国会開設請願運動の画期的意義としてもっとも重視している。

 このように、本研究は、清末中国の政治改革の試みのなかでも、社会的運動として大きな規模と重要な内容をもっていた国会開設請願運動を全面的に検討し、従来の研究史では十分に明らかにされてこなかった運動の歴史的意義について、創見に富んだ新たな評価の視点を提起することに成功した。とくに、国会開設請願運動が、中国の歴史において、初めて形成されつつあった国民的な社会階層を基盤に展開されたことを明らかにし、同時に運動の展開によってそのような階層の形成がさらに促進されたことを解明した点が、本研究のもっとも重要な貢献であると思われる。歴史上、この運動は辛亥革命の発生および革命後の袁世凱独裁などによって、直接の政治的成果を得たとはいえない面がある。また、運動の内部には地域的な利害の相剋など複雑かつ錯綜した問題をはらんでいた。本研究は、これらの問題については、必ずしも十分な検討を加えるに至っていない。しかし、むしろ本研究を土台として、今後こうした問題をも視野に入れたより広範囲で発展的な研究の展望が開かれるものと期待される。

 以上、なお議論を深める余地は認められるものの、これは本研究の価値と学界への貢献を減ずるものではなく、審査委員会は、論文審査の結果として、本論文を「博士(学術)」の学位を授与するに値するものと判定する。

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