学位論文要旨



No 113077
著者(漢字) 松山,圭子
著者(英字)
著者(カナ) マツヤマ,ケイコ
標題(和) 医学報道と医学啓蒙の構造 : 医学用語「コレステロール」の活字メディアにおける語られ方を事例として
標題(洋)
報告番号 113077
報告番号 甲13077
学位授与日 1998.01.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博工第4023号
研究科 工学系研究科
専攻 先端学際工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 廣松,毅
 東京大学 教授 青木,保
 東京大学 教授 満渕,邦彦
 東京大学 教授 児玉,龍彦
 東京大学 助教授 橋本,毅彦
 国際基督教大学 教授 村上,陽一郎
内容要旨 1.概要

 本論文は、医師や科学者を発信源とする医学(科学)情報が新聞・雑誌記事や啓蒙書に仕上がっていくまでに何が起こっているのかを考察するために、事例として「コレステロール」に関する報道をとりあげ検討したものである。その上で、「コレステロール」報道に限らず、医学(科学)知識に関する一般市民向けニュースや解説が編成されていく際の専門家の言説とマスメディアの言説との関係および構造を解明している。

 主な内容を以下に示す。

 ・医学(科学)報道研究の目的と問題意識、問題としての「コレステロール」報道

 ・医学(科学)報道研究のための視点と参照する研究枠組み

 ・医学用語「コレステロール」の普及と「コレステロール」言説の変貌

 ・コレステロール過剰対不足論争を背景にした報道および鶏卵論争の報道、論争中のテーマをとりあげるマスメディアの方法

 ・臨床的疫学研究の報道における医学知識の正確さの重層的構造

 ・新聞・雑誌記事、啓蒙書での「善玉/悪玉コレステロール」という言葉や挿絵の使用、コレステロールを下げる民間療法・健康法の紹介にみる「コレステロール」言説の大衆化

 ・さまざまな視点からの医学(科学)報道のまとめ、専門性の高い知識を「わかりやすく」伝達する過程における、陥穽をはらんだ医学(科学)報道の構造と役割

2.医学(科学)報道研究の目的と問題意識、問題としての「コレステロール」報道

 専門細分化した医学言説のうち何がマスメディアに現れるのか、啓蒙書は正紙派医学と同一の内容を「やさしくわかりやすく」表現しているのか、マスメディアが射程に入れる民間療法・健康法はどのようにして選ばれるのか等の疑問を解くために、「コレステロール」言説及びその報道を事例としてとりあげる。その理由は、「コレステロール」報道が(1)論争中のテーマなど不確実な医学の言説を扱うという問題、(2)言説の意味が変容するという問題、(3)言葉とともに概念も大衆化するという問題を抱えているからである。

3.医学(科学)報道研究のための観点と参照する研究枠組み

 医学(科学)報道を考えるために、医師(科学者)の言説とメディアの言説との関係から5通りの視点を設定した後、マスコミュニケーション研究、医療社会学、医療人類学、科学社会学の分野における先行研究から研究枠組みを探る。なかでも、医師(科学者)の言説とメディアの言説との関係について、ホール(Hall)のエンコーディング/ディコーディング・モデル、用いる言語によって世界が異なって分節されるという村上の〈文脈〉モデルを検討する。そのうえで、本論文は、専門家集団とマスメディアとのやりとりの中で構成される医学知識について分析する。用いた研究資料は、各種新関・雑誌記事、啓蒙書のほか、新聞・雑誌から取材されたことのある医師・医学者、および医学記事を執筆する新聞記者、健康雑誌(一部女性雑誌)編集者への面接調査による聞き取りの記録である。

4.医学用語「コレステロール」の普及と「コレステロール」言説の変貌

 コレステロールは、日本では1950年代後半に医学界で高血圧と動脈硬化に関連して語られる物質となった。しかし、60年代後半には、高血圧患者は高コレステロール値という臨床医学、栄養学の常識とそれに対する公衆衛生学者の反論が、並立していた。開業医向け医学書・医学雑誌や一般市民向け新聞記事にも、こうした言説の混乱と変貌が反映されている。70年代後半にはHDL、LDLの区分が広まり、それが啓蒙書の中で、善玉コレステロール、悪玉コレステロールと呼ばれ始めたのは、1980年である。

 記者・編集者の多くは、「コレステロール」言説の変貌には取材や編集上のテクニックで対処しようとした。と同時に彼(女)らは、医学言説の変貌は医学が十分に進歩していないがゆえにおきるもの、あるいは本来の科学的医学にはふさわしくない流行のせいでおこるものと考えており、その対極に、もっとすばらしく進歩した科学的医学を想定している。

5.論争中の「コレステロール」を扱った報道

 1960〜70年代日本人の死因として多かった脳卒中をめぐる、コレステロール摂取が過剰か不足かの論争は、それぞれの説に、各医師の専門分野、観察対象、留学歴等の違いを反映していた。新聞・雑誌記事は、a)常識確認型(コレステロール過剰だから摂取を減らす)、b)常識再考型(コレステロールが不足していて高血圧だから、日本人は脳卒中が多い)のいずれかであり、この論争は読者に見えなかった。1974年、鶏卵適正摂取量について健康雑誌『壮快』に誌上論争が掲載された。卵を食べて血中コレステロール値が上がるか否かは、実験により結果が異なり、いまだ結論が出ていない。これについても新聞には、a)常識確認、b)常識再考いずれかのタイプの記事のみが出ていて、論争そのものを扱った記事はない。記者・編集者らは、正しい報道をすべきだと考えていても、自分たちが実証する手段を持たないことを理由に、論争に関する判断を回避して、医師に原稿を依頼したり取材したりすることが多い。これでは、ある医師の見解を「そのまま正確に」伝えても、論争当事者の一方の代弁でしかない。

6.臨床的疫学研究の報道に反映された医学知識の正確さの重層的機造

 コレステロール低下剤の効果を検討した米国の臨床的疫学研究LRC-CPPTの結果がどう報道されたかを検討する。コール(Cole)によれば、医学論文が言い換えられている間に、言い過ぎの記事となって「possibility(〜かもしれないこと)からのprobability(おそらく〜だろうということ)へ、さらにfact(事実)へ」となる。それに加えて、医学の言説の中でも、確率論的解釈をする疫学と決定論的解釈(最近では宿命論的解釈をする遺伝子決定論まで現れた)をする基礎医学との間には混同がおきやすく、因果性に関する錯綜が疫学と臨床医学の間でもおきやすい。科学的真実は構成されるのではなくて、唯一の真実がもともと存在するという立場からは、本当に正しければ医学内のサブディシプリン間で見解が不一致になることはないはずである。本論文では、医学知識の階層構造を明らかにすることによって、医学知識の正確さが重層的であることを示す。これは、錯綜している医学報道の原因が、専門家集団内ですでに意味が変容している医学知識の側にもあることを示すものである。

7.「コレステロール」言説の大衆化

 マスメディアには、善玉コレステロールによる悪玉コレステロールの退治という物語や「コレステロールを下げる」民間療法・健康法の紹介が見られる。「善玉/悪玉コレステロール」は凝人化された挿絵とともに流布し、政治や経済の事象まで「善玉/悪玉」の比喩が用いられることがある。このような場合には、HDL、LDLという本来の医学用語抜きで使われ、本来の物質を想起させない。医学において勧善懲悪の比喩は珍しいものではなく、挿絵は換喩の機能を果たす。「コレステロールを下げる」しいたけ健康法は、しいたけの含有成分エリタデニンの検出精製、つまり科学の成功物語として紹介され続けてきた。しかし、血中コレステロール値は素人が自分で測定できないので医療の専門家に頼らねばならない。その意味で、しいたけ健康法の記事は科学的医学(生物医学)を代替するものではなくて、補完するものである。

8.医学(科学)報道と医学(科学)啓蒙の構造と役割

 冒頭に掲げた5通りの視点のうち4つの視点から、これまでの医学(科学)報道を検討した上で、包括的視点から医師(科学者)の言説とメディアの言説との関係を考えるために、科学報道に対して「科学的に不正確である」と「科学に無批判すぎる」という正反対の批判があることに注目する。科学報道は、専門性の高い知識を「わかりやすく」伝達するものである。この「わかりやすい」伝達の方法には、(1)言葉の言い換え+(2)言い控えの中止+(3)説教があげられる。(2)(3)はセンセーショナリゼーションや主観の混入という問題が指摘されることが多いのに比べて、(1)は必然的なものと考えられており、問題が見えにくい。ところが、たとえば「善玉/悪玉コレステロール」は、医学の世界と日常世界を自由に行き来できると思い込んでいる医師の側からの一方的呈示であり、HDL-/LDL-コレステロールの一側面のみを強調した比喩によって医学情報のつまみ食いをさせるエンコーディングである。比喩を物質や数式に転換できる医師と比喩が終着点である素人の間には共約不可能性が横たわる。それでいて、記者がエンコーダーである医師の思い通りのディコーディングを行なうために、医学記事は、医師の言説と同一の言説の中で編成される。これが、現在の医学(科学)報道を成立させている、陥穽をはらんだ構造である。今後、医学(科学)報道は、医師(科学者)の説明責任を点検するためにも、この陥穽を意識し、批判的・対抗的ディコーディングを行なう必要がある。

審査要旨

 今日、科学者の社会的責任の一環として説明責任(自らの科学研究について一般市民に向け説明する責任)が強調されるようになってきている。ことに、医学については、診療や臨床試験において患者や被験者のインフォームド・コンセントが必須のものとなってきており、医師からわかりやすい説明がされるか否かが関心の的となっている。ところが、市民の立場からすれば、医師や科学者個人の行う説明を聞く以前に、科学技術に関する情報が多数にある状態である。活字による情報だけでも、一般市民向けの新聞・雑誌記事、啓蒙書などが豊富であり、医学情報に関しても例外ではない。それにもかかわらず、日本においては医療現場でのインフォームド・コンセントをめぐる倫理学的・社会学的研究は行われているのものの、医学報道や医学啓蒙を扱った研究は、皆無に近い。

 このような中で、本論文は、「コレステロール」に関する報道という限定されてはいるものの、極めて示唆に富む事例をとりあげ、医師・医学者の言説とマスメディアの言説との関係をさぐり、医学報道や医学啓蒙の成立している構造を解明しようと試みている。

 主な内容は以下に示すとおりである。

 序章ではまず、専門家による医学情報がいかにして新聞・雑誌記事や啓蒙書に編成されていくかを解明するという本研究の目的を呈示している。その際、マスコミュケーション研究と医学というほとんど交流のない「学」の間のテーマを扱う以上、既存の学問の個々の分野を細く研究するというのではなくて、科学社会学あるいはSTS(Science,Technology and Society)という学際的な観点をとるという立場を明確にしている。具体的には、「コレステロール」報道に関し、(1)論争の多い不確実な医学言説を扱うという問題、(2)単純明快でない結果を、もつ研究の意味が記事になるまでに変容するという問題、(3)専門用語が普及すると同時に概念が大衆化するという問題を、特に解明すべき問題としてあげている。

 第1章では、医学(科学)報道を考える視点として、医師(科学者)の言説とメディアの言説との関係から5通りの視点を設定したうえで、この論文が取り上げる医学(科学)報道は、医師の側から医学記事の校閲やメディアの問題をマスコミュニケーション研究の一部としてとりあげたものだけではないことを明確にしている。そのうえで、マスコミュニケーション研究、医療社会学、医療人類学、科学社会学などの先行研究を参照しつつ、特に重要な2つのモデル(ホールのエンコーディング/ディコーディング・モデル、村上の科学者の言語と世界が文脈によって規定されるというモデル)について検討している。

 第2章では、医学雑誌と新聞の記事をもとに、「コレステロール」言説の普及とその報道に関するレビューを行っている。具体的に、1950年代から「善玉/悪玉コレステロール」という呼称の現れた1980年頃までの変貌と混乱をまとめた後、新聞記者や雑誌編集者らがこの混乱に翻弄されていたことを聞き取り調査の記録から明らかにしている。

 第3章は、コレステロール過剰対不足論争、鶏卵摂取量論争という性格の異なる2つの論争に関する新聞・雑誌誌事を資料として、前者については論争自体には触れず常識確認型か常識再考型の記事に終始したこと、後者についても誌上論争という形をとった健康雑誌以外は同様であったこと、そしてほとんどの記事が言い過ぎの表現を含むことを明らかにしている。また記者や編集者らが、論争中のテーマには取材や編集上のテクニックで対処したことも指摘している。

 第4章は、医学情報そのものを見直すという視点から、医師・医学者の言説がもつ問題について考察した章である。動脈硬化促進因子という原因物質とは必ずしも言い切れないコレステロールについて、医学の中でも基礎医学、臨床医学、疫学という知識の階層性があり、因果性も集団レベルと個レベルにおいて違いがあって、医学知識の正確さが重層的であることを述べている。そして、医学報道が錯綜する原因のひとつとして、専門家集団内ですでに意味が変容していることがあると指摘している。

 第5章では、「善玉/悪玉コレステロール」という素人向けの比喩が、実はもともと医学にあったものの顕在化であり、換喩の機能を持つ挿絵も使用されることによって比喩が拡大したこと、健康雑誌の健康法も科学的医学に依拠したものであることを述べている。

 第6章では、医師の言説とメディアの言説の両方を包括するという視点から、医学(科学)報道を啓蒙するときの問題に取り組んでいる。そして、専門性の高い科学知識を「わかりやすくやさしく」伝達するということ自体に陥穽があることを指摘している。例えば、「善玉/悪玉コレステロール」のような比喩は、医学の世界と日常の世界を自由に往来できると考えている医師の側から日常世界にのみ生きる素人に向けて呈示されたものであり、記者や編集者がそれをそのまま受け取るところに陥穽があるとしている。この場合、記者や編集者は医師のエンコーディング通りのディコーティングしているにすぎないからである。こうして、本来は共約不可能であるにもかかわらず、医師の示した言説と同一の世界の中で記事が編成されるというのが、現在行われている医学報道の構造であるというのが、本論文の結論である。

 このように本論文は、これまで間題が多いと指摘されつつ研究としては手つかずであった医学報道、医学啓蒙というテーマを複数の視点から扱っている。特に「コレステロール」報道そのものについて、豊富な資料をもとに問題点がよく整理されている。そして、言い過ぎや個人の価値の混入がなくても、「わかりやすく」伝達するために行われる言葉の言い換えが、知識を持つ側からの支配であるということを明らかにした上で、ジャーナリストは専門家の言葉を「そのまま間違いなく」伝えるというだけではその役割を果していることにはならないと、現状の医学(科学)報道に対する警鐘を鳴らしている。

 本論文は、「コレステロール」報道に含まれているあまりにも多くの問題を扱っているために、議論が錯綜し、一部検討不足の所も見受けられる。しかし、題材は医学報道、医学啓蒙であるにしても、広く科学技術に関する報道全般にわたる問題を検討し、構造を解明した点で、本論文は多大の貢献をしており、高く評価できる。

 よって本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。

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