今日、科学者の社会的責任の一環として説明責任(自らの科学研究について一般市民に向け説明する責任)が強調されるようになってきている。ことに、医学については、診療や臨床試験において患者や被験者のインフォームド・コンセントが必須のものとなってきており、医師からわかりやすい説明がされるか否かが関心の的となっている。ところが、市民の立場からすれば、医師や科学者個人の行う説明を聞く以前に、科学技術に関する情報が多数にある状態である。活字による情報だけでも、一般市民向けの新聞・雑誌記事、啓蒙書などが豊富であり、医学情報に関しても例外ではない。それにもかかわらず、日本においては医療現場でのインフォームド・コンセントをめぐる倫理学的・社会学的研究は行われているのものの、医学報道や医学啓蒙を扱った研究は、皆無に近い。 このような中で、本論文は、「コレステロール」に関する報道という限定されてはいるものの、極めて示唆に富む事例をとりあげ、医師・医学者の言説とマスメディアの言説との関係をさぐり、医学報道や医学啓蒙の成立している構造を解明しようと試みている。 主な内容は以下に示すとおりである。 序章ではまず、専門家による医学情報がいかにして新聞・雑誌記事や啓蒙書に編成されていくかを解明するという本研究の目的を呈示している。その際、マスコミュケーション研究と医学というほとんど交流のない「学」の間のテーマを扱う以上、既存の学問の個々の分野を細く研究するというのではなくて、科学社会学あるいはSTS(Science,Technology and Society)という学際的な観点をとるという立場を明確にしている。具体的には、「コレステロール」報道に関し、(1)論争の多い不確実な医学言説を扱うという問題、(2)単純明快でない結果を、もつ研究の意味が記事になるまでに変容するという問題、(3)専門用語が普及すると同時に概念が大衆化するという問題を、特に解明すべき問題としてあげている。 第1章では、医学(科学)報道を考える視点として、医師(科学者)の言説とメディアの言説との関係から5通りの視点を設定したうえで、この論文が取り上げる医学(科学)報道は、医師の側から医学記事の校閲やメディアの問題をマスコミュニケーション研究の一部としてとりあげたものだけではないことを明確にしている。そのうえで、マスコミュニケーション研究、医療社会学、医療人類学、科学社会学などの先行研究を参照しつつ、特に重要な2つのモデル(ホールのエンコーディング/ディコーディング・モデル、村上の科学者の言語と世界が文脈によって規定されるというモデル)について検討している。 第2章では、医学雑誌と新聞の記事をもとに、「コレステロール」言説の普及とその報道に関するレビューを行っている。具体的に、1950年代から「善玉/悪玉コレステロール」という呼称の現れた1980年頃までの変貌と混乱をまとめた後、新聞記者や雑誌編集者らがこの混乱に翻弄されていたことを聞き取り調査の記録から明らかにしている。 第3章は、コレステロール過剰対不足論争、鶏卵摂取量論争という性格の異なる2つの論争に関する新聞・雑誌誌事を資料として、前者については論争自体には触れず常識確認型か常識再考型の記事に終始したこと、後者についても誌上論争という形をとった健康雑誌以外は同様であったこと、そしてほとんどの記事が言い過ぎの表現を含むことを明らかにしている。また記者や編集者らが、論争中のテーマには取材や編集上のテクニックで対処したことも指摘している。 第4章は、医学情報そのものを見直すという視点から、医師・医学者の言説がもつ問題について考察した章である。動脈硬化促進因子という原因物質とは必ずしも言い切れないコレステロールについて、医学の中でも基礎医学、臨床医学、疫学という知識の階層性があり、因果性も集団レベルと個レベルにおいて違いがあって、医学知識の正確さが重層的であることを述べている。そして、医学報道が錯綜する原因のひとつとして、専門家集団内ですでに意味が変容していることがあると指摘している。 第5章では、「善玉/悪玉コレステロール」という素人向けの比喩が、実はもともと医学にあったものの顕在化であり、換喩の機能を持つ挿絵も使用されることによって比喩が拡大したこと、健康雑誌の健康法も科学的医学に依拠したものであることを述べている。 第6章では、医師の言説とメディアの言説の両方を包括するという視点から、医学(科学)報道を啓蒙するときの問題に取り組んでいる。そして、専門性の高い科学知識を「わかりやすくやさしく」伝達するということ自体に陥穽があることを指摘している。例えば、「善玉/悪玉コレステロール」のような比喩は、医学の世界と日常の世界を自由に往来できると考えている医師の側から日常世界にのみ生きる素人に向けて呈示されたものであり、記者や編集者がそれをそのまま受け取るところに陥穽があるとしている。この場合、記者や編集者は医師のエンコーディング通りのディコーティングしているにすぎないからである。こうして、本来は共約不可能であるにもかかわらず、医師の示した言説と同一の世界の中で記事が編成されるというのが、現在行われている医学報道の構造であるというのが、本論文の結論である。 このように本論文は、これまで間題が多いと指摘されつつ研究としては手つかずであった医学報道、医学啓蒙というテーマを複数の視点から扱っている。特に「コレステロール」報道そのものについて、豊富な資料をもとに問題点がよく整理されている。そして、言い過ぎや個人の価値の混入がなくても、「わかりやすく」伝達するために行われる言葉の言い換えが、知識を持つ側からの支配であるということを明らかにした上で、ジャーナリストは専門家の言葉を「そのまま間違いなく」伝えるというだけではその役割を果していることにはならないと、現状の医学(科学)報道に対する警鐘を鳴らしている。 本論文は、「コレステロール」報道に含まれているあまりにも多くの問題を扱っているために、議論が錯綜し、一部検討不足の所も見受けられる。しかし、題材は医学報道、医学啓蒙であるにしても、広く科学技術に関する報道全般にわたる問題を検討し、構造を解明した点で、本論文は多大の貢献をしており、高く評価できる。 よって本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。 |