本研究では、1960年代の教育改革とその背後にあるリベラリズムの思想、および、それに対する批判として、ボウルズ=ギンタスの再生産理論に注目し、その思想史的意味を、教育におけるリベラリズムと公共性の再審という視角から明らかにしようとするものである。 第1章ではまず、1960年代のアメリカ合衆国の教育改革の前史的な考察として、1954年のブラウン判決以降の統合教育への動きと、それに対するハンナ・アレントの批判を検討した。それによって、1960年代の教育改革を生みだしたリベラリズムとそれへの批判の思想的文脈のそれぞれが、1950年代の時点ですでに準備されていたことを確認した(第1節)。それをうけて次に、1960年代のアメリカ合衆国の教育改革と、その背後にあるリベラリズムの思想的特徴を概観した(第2節)。続いて、1960年代の教育改革の理念を継承し、リベラリズムの再建を企てたジョン・ロールズの『正義論』を検討し、あわせて、このロールズの正義論に対する再生産理論からの批判と、両者の対抗関係を分析した(第3節)。 第2章では、ボウルズ=ギンタスの再生産理論の形成と展開の過程を、リベラリズム批判という視点から取り上げ、検討した。まず、ボウルズ=ギンタスが1960年代の教育改革論をリベラル派の理論として批判しつつ、その教育改革批判論を再生産理論として展開していく過程を分析した(第1節)。そのうえで、彼らが1980年代以降自らに寄せられた批判をもふまえつつ、自身の再生産理論を発展させていく点を検討した(第2節)。 第3章では、1980年代以降のボウルズ=ギンタスの思想展開について、彼らがリベラリズムに代わるいかなる思想的な枠組みを提起しようとしているかに着目して検討した。まず、1986年の『民主主義と資本主義』で提唱されるポストリベラル民主主義の社会像を分析し(第1節)、次に、『民主主義と資本主義』での枠組みをふまえ1990年代にボウルズ=ギンタスによって展開される「競合的交換」の理論と、ギンタスが教育改革論として提起する「学校選択の政治経済学」を検討した(第2節)。 第4章では、ボウルズ=ギンタスの再生産理論の展開によって提起された論点の思想史的な意味を、教育における公共性の再審という文脈のなかで分析した。ここでは特に、再生産理論と政治思想史的な文脈との交差に着目することを通じ、ボウルズ=ギンタスの思想的展開にはらまれている重層的な性格を分析した。まず、ボウルズ=ギンタスが1980年代以降に到達した民主主義論の特徴を、ラディカル・デモクラシーと思想的な交わりに注目して検討し、そのうえで、このラディカル・デモクラシーの思想史的な意味を、レオ・シュトラウスやアラン・ブルームらの古典教養主義との相克という点に注目して検討した(第1節)。次に、ラディカル・デモクラシーと古典教養主義の相克とは異なる位相からリベラリズム批判の方向性を示すものとして、第1章で言及したハンナ・アレントの公共性論を再び取り上げた。その際、ボウルズ=ギンタスの『民主主義と資本主義』でのアレントへの言及の思想史的な意味を検討した。それによって、前節とは異なる位相での教育の公共性の問い直しの視点を抽出した(第2節)。 最後に全体のまとめとして、現代アメリカの教育改革論議の文脈でリベラリズムの公教育論がどのような形で問い直されているのかを、その重層性をふまえつつ整理し、同時に、そこでの議論の枠組みが1960年代のそれと比較していかに転換しているかを、教育における公共性の問い直しという視点から分析した(終章)。 以上の論述を通じ、以下の点が明らかとなった。まず、ボウルズ=ギンタスの再生産理論の思想史的意味については、1960年代の教育改革に対する理論的な反省のしかたという点において、ジョン・ロールズの正義論との間で鮮明な対照をなすものであることが明らかとなった。すなわち、ロールズの正義論が1960年代の教育改革の思想的背景をなすリベラリズムの継承を企てるものであったのに対し、ボウルズ=ギンタスの再生産理論は、リベラリズムの根底的な批判を行うものであった。 また、ボウルズ=ギンタスの議論は、1960年代の教育改革の思想的背景をなすリベラリズムを批判の俎上にのせるというという点では、すでに1950年代にそうした視点から統合教育批判を展開していたハンナ・アレントの思想的モチーフを継承するという側面をもっていた。ボウルズ=ギンタスが1980年代以降の理論的洗練化の過程でアレントの公共性論に立脚した議論を展開していくことは、そうした側面をうらづけるものであった。 このように、本研究におけるボウルズ=ギンタスの理論展開を軸とした思想史的な検討を通じ、教育改革におけるリベラリズム批判の系譜を浮かび上がらせることができた。さらに、それによって、以下の二つの理論的な成果がもたらされた。 一つは、市場論に依拠する公共性論と国家的再分配に依拠する公共性論に通底して存在するリベラリズムの用語法とその時代的な制約性を、明瞭な形で浮き彫りにすることができたという点である。ボウルズ=ギンタスはそうしたリベラリズムの用語法を「政治学的思考に経済学的メタファーを導入する」政治経済学であると規定し、それに対して「経済学的思考に対する政治的批判」としての政治経済学を対置した。このボウルズ=ギンタスの政治経済学的モチーフは、社会的なるものの勃興に対する批判概念として公共性をとらえるアレントのモチーフと重なり合うものであった。このように、アレントやボウルズ=ギンタスにおいて、公共性とは、リベラルな用語法の転換に際し、中核的な位置を占めるものであった。その意味において、本研究で検討してきたリベラリズム批判の思想系譜は、市場論をベースとした教育の公共性論では十分に把握されているとはいえなかった、ポストリベラルの時代における教育の公共性概念の再編の方向性を指し示すものであった。 本研究において獲得されたもう一つの成果は、教育における公共性の再編が直面する新たな問題の性格を、理論的な課題として明らかにした点にある。ボウルズ=ギンタスはこの問題に、「学習過程の民主化」を導き出しうる政治経済学の構築によって答えようとしたが、本研究では、この学習過程の民主化にはらまれているポストリベラルの時代に固有の理論的課題を、ボウルズ=ギンタス自身が言及していない論点にまでふみこんで分節的に明きらかにした。 この学習過程の民主化にはらまれているポストリベラルの時代に固有の理論的課題とは、それが相克をうちに含む二つの異なる次元によって、重層的に構成されている点にほかならない。すなわちその一つは、異質で多様なアイデンティティが形成されるという次元である。そこでは、ムフらのラディカル・デモクラシーが議論したような、敵対的関係性におけるアイデンティテイ形成の論理が前提とされている。それを本研究では、二項対立にもとづくアイデンティティ・ポリティクスの次元として概念化した。もう一つは、そうしたアイデンティティが他者によって翻訳され、公共的な場に表象される次元である。そこではハンナ・アレントやポストコロニアルの論者が議論したように、異質で多様なアイデンティティが他者によって翻訳、表象される際の、二項対立ではない複数性の論理が前提とされていた。したがって本研究ではそれを、異質で多様な諸力が競合しあう複数性のポリティクスの次元として概念化した。 アイデンティティ・ポリティクスの次元は異質な他者との交換の契機をそれ自身のうちに含んでおらず、他者性の論理を導入しようとすると、レオ・シュトラウスのような超越的な自然に依拠せざるを得なくなるというアポリアをかかえていた。それに対して、複数性のポリティクスの次元では、そのようなアポリアを突破するための概念として公共性が導入される。しかしながらその場合には、アイデンティティ・ポリティクスを通じてのアイデンティティの自己覚醒の論理が、認識の対象外におかれる可能性が生じる。 このように、アイデンティティ・ポリティクスと複数性のポリティクスの両者には、それぞれ互いに他に還元することのできない固有の論理があり、それらの間には容易に統合することのできない相克が存在する。そうした二つの論理の間の相克こそが、ポストリベラルの時代における教育の公共性の再編が直面する新たな課題にほかならない。 ボウルズ=ギンタス自身は「学習過程の民主化」の先にあるそうした課題について十分自覚的ではなかった。本研究では、ボウルズ=ギンタスが1980年代以降に接近していく思想史的な文脈を掘り下げることによって、この課題に到達することができた。それは、マイノリティのアイデンティ覚醒と異質なものの間の共存という二つの異なる目的を、その次元の違いをふまえつつ同時に追求しようという課題である。この課題を認識することは、アメリカ合衆国における多文化主義教育をめぐる議論を読み解くうえできわめて有効な視点であるのみならず、日本を含む現代の公教育における市民形成の直面する課題の認識としても、きわめて重要な意味をもっている。 |