本論文は、日本において政府と企業とが業界団体等を介在させつつ相互に緊密な関係を保持しているという事実が、行政法等の従来の理論枠組みと整合しないにもかかわらず、法学はこれを正面から見つめることをしてこなかったとする問題意識にもとづき、かつ、現在のシステムは戦前のそれを受け継いでいるとの想定に立ちつつ、戦前日本におけるいわゆる官民協調体制の形成の背景、その理念・思想・政策を通史的に検討し、その実態を考察しようとするものである。 まず、序章においては、戦前のシステムの分析ないし把握が、経済史学・法史学等によってもいまだ十分になされているとはいえないことを指摘したうえで、官民協調体制の展開について検討するための、第1期から第4期までの時期区分を設定する。 本論に入って、第1章は、明治維新から産業合理化運動の始まる前までの第1期、すなわち1868〜1926年の時期を扱う。一方で中小商工業に関しては、明治初年の大きな問題は、製糸業・蚕種業・茶業等における新規業者の参入と粗製濫造問題であり、それらは各地各業に同業組合の結成をもたらした。そして、行政との連携と求める業界の多年にわたる働きかけにより、1884年の同業組合準則の制定を経て、ようやく1897年になって、組合の強制設立・強制加入規定を含む重要輸出品同業組合法が制定されるに至る。同法は、その発動の仕組みにおいても、業界からの働きかけをまって発動されるように作られていた。そこでは、いわば同業組合が疑似の行政の衣を着て当該分野を仕切るのであり、後の、著者のいう官民協調体制法の原型をなすものであった。 他方、大企業の分野に関しては、業界のコントロールは、カルテル組織である業界団体の形で行われた。その代表的なものが、1882年に結成された紡績連合会、後の大日本紡績連合会(紡連)である。著者は、紡連を中心として繰り返し実施された操業短縮の仕組みを詳しく検討し、そこに、自治的統制のために業界が行政の助力を仰ぐという場面がすでに見られることを指摘する。 なお、第1章では、以上の同業組合および業界団体と並んで、以後、官民協調体制の構成要素となっていく各種の経済団体や審議会についても、その生成の様子が詳細に述べられている. 第2章で扱われるのは、官民合同による産業合理化運動の展開から二・二六事件の前までの第2期、すなわち1927〜1935年の時期である。そこでは、国民経済の概念および自由競争否定の思想が本格的に登場し、吉野信次や岸信介らの商工官僚によって、また、商工審議会・臨時産業審議会等の審議会や、商工省の外局として設置された臨時産業合理局等の機構を通じて展開される.著者は、これらの機構、とりわけ臨時産業合理局におかれた各委員会について、その組織と活動の実態を詳細に分析し、それらが業界による行政利用の仕組みであることを明らかにする。著者はさらに、輸出縞綿布工業改善委員会の事例に則して、業者間の利害対立にもかかわらず法律(この場合には重要輸出品工業組合法)の存在を背景として業界の自主的統制が実効的に実施されるという現象を描き出し、それを、行政の機構を媒介としつつ下位の規範が上位の規範によって拘束力を強化されるものと捉え、この現象こそが官民協調体制法の核心部分をなすとしている。 この時期には、また、鉄鋼やセメントなどいくつかの重要産業に関してカルテルの乱れがあり、業界みずからの規範だけでは統制が困難な状態が生じていた。1931年の重要産業統制法の制定は、これらの状況に対応するものであった。同法は、それまでの中小企業を対象とする各種同業組合法とは異質の、初めての本格的な市場規制立法であり、一定の場合にはカルテルの協定事項をアウトサイダーにも及ぼしうる旨を規定することにより、業界の作る秩序を後方から支援するものであった。 第3章は、二・二六事件から重要産業団体令による統制会の誕生および太平洋戦争開始の前までの第3期、すなわち1936〜1940年の時期における官民協調体制の変化を扱う。この時期、軍備拡充・生産力拡充政策に対応するものとして、政府による積極的市場介入が必要とされ、各種の経済統制法が制定された。その最も重要なものが、輸出入に関連する広汎な物資統制のための1937年の輸出入品等臨時措置法であった。とりわけ、翌38年の同法の改正は、各物品につき、関係業界を縦に貫いて組織される強制加入制の需給調整協議会を設けて需給関係の実際の調整を行わせることとした。それは、これまでカルテル団体にとどまっていた各業界団体を再編成し、国の事務としての経済統制の任務に当たらせるものであった。著者は、同法にもとづく統制が実際に適用されていく過程をその最も典型的な事例である綿工業の場合について、従来の紡連その他のカルテル機構との関連を含め、詳細に跡づけている。 第4章は、太平洋戦争開戦の年である1941年から1945年の敗戦までの.著者のいう第4期の時期における日本経済の枠組みとなったいわゆる経済新体制の問題を、主題とする。それは、具体的にいえば重要産業団体令にもとづく統制会に関わるのであるが、著者は、まずは遡って、経済新体制論に方向づけを与えた笠信太郎の所論を見たのち、軍部・革新官僚の主導によるいわゆる利潤統制への動向と、それに対抗する財界の動向を追い、さらに、1940年12月の経済新体制確立要綱の閣議決定までの過程で現われた種々の考え方について検討する。そのうえで、重要産業団体令とそれにもとづく重要産業団体、すなわち、関係業界で組織される強制設立の総合的統制団体たる統制会の仕組みを、具体例としての鉄鋼統制会の活動についての分析もまじえながら論ずる。官民協調体制のあり方の問題としていえば、この時期のそれは、第1期から第3期までの時期において存在したような「官」と「民」の形式的な距離さえ許されなくなった緊迫した状況の下で、「民」の側が、みずから望んだわけではないが行政の職能を行う真の行政機関となったところにその特徴がある。 以上の本論の後に、「総括と展望」と題する終章が置かれる。官民協調体制による市場コントロールの基本構造は、1897年の重要輸出品同業組合法において形成され、その後、時とともに広がりを見せ、密度を濃くしていく。それは、中小企業のみならず大企業の組織化の形態としても定着していき、また、業界団体の性格もカルテル団体から統制団体へと発展していくのである。官民協調体制による市場コントロールがこのように展開していく背景としては、日本が近代化・工業化によって列強に対抗しさらには総力戦に臨むためにそれが適していたこと、統制の拡大強化に対応すべき行政資源には限界があり、それを補うものとして業界団体が利用されたこと、企業の側にとっては、行政による資源配分のプロセスに接近し、政策に働きかけるための通路となること、そして、言うまでもなくアウトサイダー対策および新規参入阻止のメリットがあることが、それぞれ指摘される。 著者は、また、本論文で扱った官民協調体制の法と、普遍的とされるヨーロッパ的近代法体系との関係について、次のように述べる。日本の行政法学や経済法学は、1931年の重要産業統制法制定以後、この領域に興味を持ちはじめるが、それは、必ずしも客観的に法現象を捉えるのではなく経済統制の法的イデオロギー作りに尽力するものであるか、または、統制と、明治憲法下でも通用していたはずの法律による行政の原理や自由裁量などの行政法一般理論との整合性を図るのに精一杯であった。そして、このことは、官民協調体制が戦前と戦後で連続性があるかどうかの問題は存するにせよ(それは今後の検討課題の一つでもある)、今日の行政法学や経済法学の問題点につながるものである。法学は、官民協調体制法の諸現象が近代法体系における国家対個人の二元モデルからは相当に懸け離れていることについて認識を疎かにしてきたのである。そこで最後に、著者にとっては、官民協調体制に見られる法現象の認識を前提としたうえで、それを法的にどのように取り扱うかがさらにもう一つの課題となるが、著者は、今の段階では一刀両断的な考え方を避けて近代法の枠組みと官民協調体制の枠組みの両者の接点を探るべきであり、この立場からはたとえば行政手続法および情報公開法はそれぞれ一つの答えになるであろうとして、本論文を締めくくっている。 以上が本論文の要旨である。 本論文の長所としては、以下の点を挙げることができる。 まず、本論文は、著者のいう官民協調体制ないしは官民協調体制法の展開に関し重要な意味をもったと考えられる個々の産業分野での組織化の実情、関係行政組織とりわけ各種官民合同組織の活動の実際、関係者による政策の主張や法案審議の内容、制定された法令の諸規定の意義、法令制定の効果などを、それぞれの法令はもちろん、関係する諸団体の議決・協定その他の記録、関係者の著述、等々の膨大な資料を用いて詳細に跡づけており、そのことによって、戦前の産業行政および経済統制行政の研究に大きく貢献するものである。 次に、本論文は、明治維新から太平洋戦争までの長い期間を対象とするものであるが、そのような長期間のあいだに政治経済情勢のさまざまな変動に対応して生じた官民協調体制の変容を、全体としては一貫した総合的な視点のもとにまとめている。本論文に示された整理と構成の能力は、きわめて優れたものであると認められる。 そして、本論文は、そのようにして得られた実態認識を、西欧法を継受した日本の実定法理論における国家対個人の二元モデルに対して対置することにより、後者の現実的妥当性をかなりの程度動揺させることに成功している。 他方、本論文には次のような問題点も指摘されうる。 第1に、本論文は、戦前の期間を扱うものであるが、戦前と戦後の官民協調体制法の連続・非連続の問題についてもっと多くの言及がされていれば、本論文で扱われたことがらの位置づけが、さらに明瞭になっていたであろうと思われる。 第2に、本論文で扱われている時期には、諸外国においても日本のそれと比較しうるような経済統制のシステムが種々存在したと考えられる。それらを視野に入れた論述がされていれば、日本の官民協調体制法の独自性がさらに浮彫りにされたであろう。 第3に、さまざまな史料を用いる際の処理の問題として、一個の史料をかなり長く引用したり、そのままの引用であるのかリライトしたものであるかが明示されていない箇所があるなど、なお体裁の整っていない部分が若干見受けられる。 しかしながら、以上のような問題点も本論文の価値を決定的に損なうものではない。それは、詳細な実態研究を通じて、日本の行政に関する法理論のあり方につき反省を迫るものであって、学界に多大の貢献をなすと評価することができる。したがって、本論文は、博士(法学)の学位にふさわしい内容のものと認められる。 |