本論文は、『古事記』に含まれる歌謡の分析を通じて、それらが『古事記』の作品世界の生成にとっていかなる意味をもっていたかを、歌謡物語という視点から論述した論文である。『古事記』が歌謡物語を述作する中で、歌謡の表現にどのような方法意識をもって臨んだのか、さらにはそうした意識がどのような必然性をもって生み出されたのかを具体的に論じている。散文とは異なる歌の言葉の機能が、主人公たちの内面(感性や思考)をいかに表出しえているのか、それによって『古事記』がいかに豊かな表現世界を形成しえたのかを、個々の物語の精緻な分析によって明らかにしている。たとえば、ヤマトタケル物語においては、悲劇の英雄タケルの生涯が、歌謡を用いることで共感をこめて造型されていることが、また軽太子・軽大郎女物語においては、全存在を賭けて禁忌の恋に生きる主人公たちの情念が、やはり歌謡を用いることで鮮明に描き出されていることが論述される。これらの主人公はどちらも天皇の世界の秩序から排除される存在だが、歌謡が散文と協調することで排除の必然性を内側から保証しているとする本論文の視点はきわめて斬新であり、つよい説得力をもっている。さらに「神武記」の久米歌や「仁徳記]の「枯野の歌」等の分析を通じて、天皇讃美に果たす歌謡のはたらきが具体的に論じられており、『古事記』論としても高く評価しうるものになっている。 従来の『古事記』歌謡の研究は、歌謡本来の出自を明らかにすることが中心であり、方法意識にまで踏み込んでその意義を論じたものはきわめて少ない。本論文は、歌謡そのものへの理解にやや硬直したところが見受けられるものの、全体として『古事記』研究を一歩進める意味をもつと評価しうる。 よって、審査委員会は本論文が博士(文学)の学位に値するとの結論に達した。 |