学位論文要旨



No 113081
著者(漢字) 石田,千尋
著者(英字)
著者(カナ) イシダ,チヒロ
標題(和) 古事記歌謡物語論
標題(洋)
報告番号 113081
報告番号 甲13081
学位授与日 1998.02.18
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第187号
研究科 人文社会系研究科
専攻 日本文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 多田,一臣
 東京大学 教授 鈴木,日出男
 東京大学 教授 小島,孝之
 東京大学 教授 白藤,禮幸
 東京大学 助教授 長島,弘明
内容要旨 第一章歌謡と抒情第一節研究史

 『古事記』は歌謡を特定の人物の一人称の発語として定位する。個的な内面を表現する、すなわち抒情という点から、記歌謡がどのように論じられてきたかをめぐって、本節ではまず研究史を辿りなおした。その上で、散文という異質な表現様式とともに歌謡があるという形態がいかに可能となったかを問うべきとする問題が重要であることと、本論もまたそこに立脚点を置くことを確認した。さらに、『記』の歌謡への方法意識とそれによって表現されたものが、どのような意義を担うのかという問題意識を改めて提起した.

第二節歌謡の語法-助動詞の用法をめぐって-

 本論では、散文では断念されざるをえない助動詞、とくにシ・ケリの歌謡における働きに着目した。記紀歌謡のシ・ケリは、テンスというよりアスペクトに関わる助動詞として働くのだが、歌謡が物語の文脈の中に置かれ散文表現に支えられるとき、そうした助動詞の働きはテンス的なものに転位し、歌の主体の内面のから発せられた言葉として心の表現とも関わってくる。本来個的な内面を表すものでない歌謡を、内面の表現として記定する『記』の歌謡への方法的意識を、このような助動詞の語法に見ることができる。

第二章歌謡物語と抒情第一節ヤマトタケル物語

 本節では、中巻景行記のヤマトタケル物語を取り上げて、人物の内面を表現する歌謡によって天皇や皇子の事蹟を語るという歌謡物語の方法意識を具体的に検討した。『記』はタケルの本性を、「建荒情」と規定する。西征・東征における数々の事蹟と歌謡は、そうした彼の本性を具体化するものとなっている。そうした本性がタケルの超越性の証でもあり、天皇の世界の秩序を逸脱するものでもあるがゆえに、彼は天皇とはなりえないのだということを、歌謡が散文表現と連繋して直感的共感的に納得させることに働くのである。

第二節軽太子・軽大郎女物語

 下巻允恭記のカルノオホミコとカルノオホイラッメの物語に載せられた歌謡の多くが万葉相聞歌に類句をもち、物語に相聞的な情調が導入されている。散文表現との連繋が織りなす忍ぶ恋・禁忌の恋の主題のもと、類想的な数々のイメージが重ね合わされ、物語の場面と情調が形作られてゆくという方法がここでは取られている。歌の主題に着目し散文表現と連繋させることによって、一つの出来事を客観的に評価するのでなく、人物の心理を追体験させるような読みを意図する叙述のありかたを、ここに確かめることができる。

第三章歌謡と天皇I-讃美の方法第一節仲哀記酒楽之歌

 天皇の超越的資質を直接的に伝える讃美の歌謡が『記』にはある。それによって天皇とは何かという問いに答える物語がどのように形成されているかを本節では考察した。仲哀記ホムダワケ物語にあって母オキナガタラシヒメは、神と御子とを媒介する「巫女的性格」をもって現われ、神々の加護を受ける御子の超越性を証立てる役割を担う。献酒記事における酒楽之歌は、ヒメへの「御祖」という呼称とあいまって、そのようなヒメとホムダワケとの関係性を改めて明示し、御子ホムダワケの超越性を顕揚するものとなっている。

第二節仁徳記 枯野の歌

 仁徳記末尾に記される枯野の歌謡には、天皇を直接讃美する表現はない、しかし、『記』における琴が天皇の威勢を顕現し「天下」の領有に関わる祭具であることが、この歌と所伝を天皇讃美に関わるものとして受け取らせる。神秘的な琴の響きが四囲に波及してゆくさまが仁徳の〈徳〉の遍在を映像化するものとして定位されているのである。こうして、仁徳の〈徳〉によって「天下」が治められているさまが直感的・映像的に感得されてくる。『記』は枯野の歌と所伝を通して、聖帝仁徳の代を顕揚し讃美しているのである。

第四章歌謡と天皇II-歌の力第一節カムヤマトイハレビコ物語

 中巻冒頭のカムヤマトイハレビコによる大和平定物語の〈久米歌〉六首について、『記』はその主体をイハレビコに同定していることをここではまず検証した。さらに、イハレビコに用いられる「天神御子」という呼称が、初代天皇としてのイハレビコの超越性と正統性を明示していることを確認し、『記』が彼を〈久米歌〉の主体とすることで卓越した武人像を付与していることを明らかにした。当事者的な共感を喚起させる歌の言葉の親和力を、歴史の納得と理解に活かすという方法意識を、ここに認めることができる。

第二節ヲケ物語

 下巻清寧記には、顕宗(ヲケ)とシビの間で交わされる悪態の歌六首がある。『記』はこれらを歌垣でうたわれたものと記定し、そのやりとりを「闘」と位置付ける。すなわち歌による競い合いがヲケの内面の充実を具現し、皇位継承者としての超越的資質を、歌(言葉)と武力をを自在に行使しうる能力という点から語ろうとするのである。初代カムヤマトイハレビコにも通ずる天皇たるべき正統性と超越性を、歌謡を通して証立てるという叙述意識が当該物語を貫いていることを、結論として記した。 1997年12月

審査要旨

 本論文は、『古事記』に含まれる歌謡の分析を通じて、それらが『古事記』の作品世界の生成にとっていかなる意味をもっていたかを、歌謡物語という視点から論述した論文である。『古事記』が歌謡物語を述作する中で、歌謡の表現にどのような方法意識をもって臨んだのか、さらにはそうした意識がどのような必然性をもって生み出されたのかを具体的に論じている。散文とは異なる歌の言葉の機能が、主人公たちの内面(感性や思考)をいかに表出しえているのか、それによって『古事記』がいかに豊かな表現世界を形成しえたのかを、個々の物語の精緻な分析によって明らかにしている。たとえば、ヤマトタケル物語においては、悲劇の英雄タケルの生涯が、歌謡を用いることで共感をこめて造型されていることが、また軽太子・軽大郎女物語においては、全存在を賭けて禁忌の恋に生きる主人公たちの情念が、やはり歌謡を用いることで鮮明に描き出されていることが論述される。これらの主人公はどちらも天皇の世界の秩序から排除される存在だが、歌謡が散文と協調することで排除の必然性を内側から保証しているとする本論文の視点はきわめて斬新であり、つよい説得力をもっている。さらに「神武記」の久米歌や「仁徳記]の「枯野の歌」等の分析を通じて、天皇讃美に果たす歌謡のはたらきが具体的に論じられており、『古事記』論としても高く評価しうるものになっている。

 従来の『古事記』歌謡の研究は、歌謡本来の出自を明らかにすることが中心であり、方法意識にまで踏み込んでその意義を論じたものはきわめて少ない。本論文は、歌謡そのものへの理解にやや硬直したところが見受けられるものの、全体として『古事記』研究を一歩進める意味をもつと評価しうる。

 よって、審査委員会は本論文が博士(文学)の学位に値するとの結論に達した。

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