本論文は、19世紀末から20世紀初頭の中国に焦点を絞り、「自由」という概念をめぐる中国人の思考の軌跡を跡づけることを通じて、中国人の「自由」観の特色を抽出し、分析を加えることを課題としている。 本論文の中心に据えられる人物は、中国の自由主義の先駆者として取り上げられる厳復(1854〜1921)であり、彼の「自由」観の分析を縦糸とする。 本論文の横糸をなすのは、厳復の同時代人の「自由」観と厳復の「自由」観との比較である。第1部では康有為、張之洞および何啓、第2部では馬君武、第3部では梁啓超がそれぞれ取り上げられる。したがって本研究は、厳復という人物に関する個別研究であると同時に、比較研究でもある。 本論文は、3部より構成される。 第1部は、〈自由〉という翻訳語をめぐる中国人の多様な言説を整理し、分析を加えるものである。まず、中国の「自由」概念が多義的であり、かつ西洋とは異なる多義性をもつものであるという仮説に立脚して、〈自由〉をめぐる近代中国人の議論が、儒教的な社会秩序論の中核をなす「公私」論と密接に結びつけられていたことを立証する。 近代中国において、〈自由〉という訳語が定着するのは20世紀初頭のことであるが、それ以前の時期においては、康有為らの〈自主之権〉と厳復の〈自由〉という二つの訳語が存在した。それに対して張之洞は、〈自主之権〉も〈自由〉も共に斥け、〈公道〉と訳すべきことを主張したが、何啓と厳復は、逆に張之洞を批判し、〈自由〉という訳語を弁護した。何啓と厳復は、共にイギリス留学の経験を持ち、「公」の実現を政治的理想としつつ、尚かつ〈自由〉という訳語の正当性の論証を試みた。何啓が従来の「公」概念に依拠しつつ、自由と公との新たな関係づけを試みたのに対して、厳復は「公」を西洋の正義概念と解釈し、自由と正義の関係という新たな議論の土俵を提示した。 第2部は、ミルの『自由論』に対する二つの中国語翻訳書に比較検討を加えるものである。二つの中国語翻訳書とは、一つは厳復訳の『群己権界論』であり、もう一つの書物は馬君武訳の『自由原理』である。ここでは、ミルにおいてそれ自体ユニークな内容を持つ"society"概念に対する厳復と馬君武の訳語に注目しつつ、「自由」と「社会」との関連づけに関する両者の理解を比較検討する。 『自由論』の「社会的自由」に対応する厳復の訳語は「群理之自由」で、馬君武の訳語は「人民社会之公衆自由」であったが、この訳語の差異は、その背後に、個人と社会の関係づけをめぐる両者の見解の相違を含むものであった。ルソーの影響を強く受けた馬君武の場合、「与論革命」と 「社会改良」に注目し、個人に対する世論の脅威よりも、むしろ「与論」「公論」の形成を強調し、個人よりも「社会」の形成を優先した。他方、厳復は、自由の観念をルソーと結びつける当時の傾向を厳しく批判し、政治的色彩を可能な限り排除しつつ、「衆口衆力」「清議」「衆情時論」「衆同之脅」「太半之豪暴」が個人の自由に与える脅威を強調した。 第3部は、近代中国の知識人たちが、「自由」概念を中国の歴史および政治的現実に適用していく過程に対する分析である。 20世紀初頭、中国の変革を目指す人々は中国の王朝体制を「君主専制」体制と理解した。多くの者は、専制と自由を対立的関係として捉え、中国人の自由を拘束してきた専制体制を打倒して、自由を実現することこそ、変革の目的であると考えた。だが、専制政体からの脱却を目指しつつも、自由と専制は互いに矛盾するものではないと主張する者も少なくはない。特に注目されるのは、梁啓超と厳復で、共に自由と専制の両立可能性を主張した。梁啓超は、専制の下での自由を「野蛮の自由」と規定することによって、「文明の自由」が実現される体制を求めた。それに対して厳復の方法は、あくまでも「自由」を尺度にして政体の類型もしくは政体の進化を論じることに反対し、自由対専制という議論の土俵そのものを壊すものであった。 「瓜分」の危機に晒された中国において、多くの中国人は帝国主義の侵略を「強権」と理解した。ほぼ全ての中国人が、帝国主義列強の中国侵略に反対したが、「自由」と「強権」の関係については、多様な解釈が存在した。梁啓超と厳復は、共に進化論に立脚していたが、「強権」に対する解釈を異にした。梁啓超はあくまで進化論を「強権」の論理で捉え、「強権」の拡大を通じて「自由」の拡大を目指した。それに対して厳復は、「強権」を「公理」として認めることを拒否した。彼は「自由」を進化論の枠組みで説明したが、「強権」ではなく、「公理」「公道」と結びつけて理解したのである。 |