学位論文要旨



No 113083
著者(漢字) 扶瀬,幹生
著者(英字)
著者(カナ) フセ,ミキオ
標題(和) 「通夜」に或る我-『フィネガンス・ウェイク』における自己同一性の諸問題
標題(洋) I AM in the Wake : The Questions of Identity in Finnegans Wake
報告番号 113083
報告番号 甲13083
学位授与日 1998.02.18
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第189号
研究科 人文社会系研究科
専攻 欧米系文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高橋,和久
 東京大学 教授 富士川,義之
 東京大学 助教授 大橋,洋一
 東京大学 客員教授 G.E.H.Hughes
 東洋大学 教授 海老根,宏
内容要旨

 ジェイムズ・ジョイスの最終作『フィネガンズ・ウェイク』(1939)は、使用される単語、登場人物、個々のエピソードの暗示するテーマ等、あらゆる解釈のレヴェルで、多様な意味特定(identification)が可能であるがゆえに最終的意味特定が不可能であるというジレンマに読者をおとしいれる。本論文はこのジレンマを全面的に受け入れつつ、それをすり抜ける読みを提示したものである。

 この作品におけるidentityの問題を理解しようとするにあたって、ジョイスが「二重にダブった世界観」、すなわちidentificationが有効な世界と、それが無効な世界の同時的存在を提示している点が重要なカギとなる。前者(「この世」と呼ぶ)において人・事物・時間・空間は固有の名称(人名・地名・時刻ないし歴史的年代)によって互いに他と区別されるのに対し、後者(「あの世」と呼ぶ)においてそれらは「なにものでもないもの/なにものでもありうるもの」という名づけ得ぬ、ないしことさらに名づける必要のない存在である。

 この「二つの世界」に住まう万人の原型であるHCEの「構築」(building)の営みの産物が、人類が「この世」に築いてきた文字どおりの「建物・都市・文明」であり、また比喩的には人類が言葉の煉瓦を積み上げて「この世」に構築してきた「物語」でもある。しかしHCE自身は「この世」において特定の「なにものか」としてidentifyしうるかたちでidentityを主張できる存在ではない。なぜなら、彼は一方で「あの世」において「なにものでもないもの/なにものでもありうるもの」でもあるからだ。

 ジョイスが原型的「構築者」としてHCEを中心に据えたことには、聖書的文脈との意味深い連関がある。HCEの(言語的)構築は、バベルの塔の神話に示された「人間の(言語的)identity構築の企図は、逆にその混乱・崩壊につながる」という皮肉への洞察を踏まえており、さらには作品の言語そのものがこの混乱を文字どおりに演出している。『フィネガンズ・ウェイク』と聖書の伝統の関連はこの他にも指摘できる。HCEの「言語障害」は旧約から新約にうけつがれる人間の普遍的言語障害(罪)のテーマに沿っており、この罪・障害(ジョイスの用語でいえば「麻痺」)の癒しの問題が、作品の言語の意味特定の(不)可能性の問題として徹底的に追求されている。

 究極的にこの作品の提示する課題は、パウロの言う「隔ての壁」に対応するものとしての「この世」と「あの世」の間のギャップをいかに乗り越えて「麻痺」から自由な全きidentityを獲得・回復しうるかという点である。HCEの双子の兄弟ShemとShaunは、それぞれ「あの世」への消極的退却と「この世」での積極的自己主張を原理的に体現するが、二人の対立・葛藤(旧約のヤコブとエサウのそれに対応)は、二人の対極的原理の「戦い」の直中に父なるHCEを「平和・和解の子」たる「第三項」として導き出す結果になっている。このことからも分かるように、『フィネガンズ・ウェイク』における和解(復活)のヴィジョンは、世界を「この世」ないし「あの世」のいずれかに一元化する類のものではなく、世界があるがままに「二重」であるということに目覚め、「二重にダブった世界」にあるがままに存在する真の全きidentityを獲得・回復するという形で求められている。『フィネガンズ・ウェイク』において「隔ての壁」は「かつて」存在しなかったものでも「いつか」撤廃しうるものでもない。「壁」は人間が(言語の)構築者である限り永遠に存在し続けるものであり、同時に、言語に本来的に内在する無限のpun生成の可能性によって「すでに/いつも」取り払われているものなのである。

 Sheldon Brivicが指摘するように、言語においてシニフィアンとシニフィエの単純で確定的な対応がありえないという状況と、愛において愛の感情とその対象が単純に確定的に対応しないという状況はパラレルになっている。母親格の原型的登場人物ALPは娘格のIs syが結果的に立ち至る「愛の孤独性」、「人間性・個性のなかの非人間性・非個性」の認識を所与の前提として「この世」の愛にコミットしているという点で、やはり「二重にダブった世界」に存在している。彼女の書くラブレターは、究極的には「なにものでもないもの/なにものでもありうるもの」から「なにものでもないもの/なにものでもありうるもの」に宛てられたものであり、同様に『フィネガンズ・ウェイク』という書物自体も、ジョイスの中の「なにものでもないもの/なにものでもありうるもの」から、読者の中の「なにものでもないもの/なにものでもありうるもの」に宛てられたラブレターといえる。

審査要旨

 扶瀬幹生氏の学位請求論文’I AM in the Wake:The Questions of Identity in Finnegans WakeI’(「通夜」に在る我-『フィネガンズ・ウェイク』における自己同一性の諸問題)は、これまで産み出され、正典として認定されているもののなかで、おそらく最も難解な文学テクストであると言っていいジョイスの長編『フィネガンズ・ウェイク』に対して、幾多の先行研究を踏まえ、かつ細部にまでわたった丹念な読解を通して、統一的なテクスト像を提示した野心的な力作である。

 本論文の最大の成果は、『フィネガンズ・ウェイク』の基本的な難しさを作中人物、作中の出来事、それらの表現するテーマといったテクスト内の意味作用が、そこで用いられる「ウェイク語」と称せられる多義的で多層性を帯びた言語によって、一義的な特定の意味に収束するのを拒否する点にあることを、テクストの具体的な分析によって明らかにしつつ、そうした特性を作者ジョイスの持つ二重の世界観―互いに他と区別される固有の名(identity)を有する人、モノ、時間、空間などが存在する世界と、「なにものでもない/なにものでもありうる」もの、すなわち名づけえぬ/名づける必要のない存在からなる世界双方への同時的意識―と結び付けた解釈を提示しているところに求められる。それはジョイスがこのテクストで、意味の特定化(identification)の可能な世界と無効な世界を同時に表現していることを意味する。従来の研究が、このテクストの極めて限られた一部のみを問題として、神話や歴史や英語以外の諸言語の文脈を探ることによって、全体的ヴィジョンを欠いたまま新たな意味の発掘に従事するか、ややもすれば細部への目配りを欠いたまま、いわゆる「脱構築」を施してこのテクストのポストモダニスト的側面を明らかにしようとしながら、結局「意味の浮遊」という批評的常套へと逃げ込んでしまうかのどちらである場合の多いことを考えると、本論文の持つ意義は一層大きい。

 強いて瑕瑾を探すならば、ALPをはじめとする原型的な女性像を二重の世界にどう配置するかについて、本論文は別様の解釈の可能性を残しているように感じられる。しかし、ジョイスにおける女性表象という問題は、現在様々なアプローチによる様々な解釈が提出されている最中で、研究者間でも共有された理解がまだ成立していない状況であり、本論文の独創性をいささかも損なうものではない。したがって、本論文を博士(文学)学位論文にふさわしいと判断し、人文社会系研究科委員会にご報告申し上げる。

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