ジェイムズ・ジョイスの最終作『フィネガンズ・ウェイク』(1939)は、使用される単語、登場人物、個々のエピソードの暗示するテーマ等、あらゆる解釈のレヴェルで、多様な意味特定(identification)が可能であるがゆえに最終的意味特定が不可能であるというジレンマに読者をおとしいれる。本論文はこのジレンマを全面的に受け入れつつ、それをすり抜ける読みを提示したものである。 この作品におけるidentityの問題を理解しようとするにあたって、ジョイスが「二重にダブった世界観」、すなわちidentificationが有効な世界と、それが無効な世界の同時的存在を提示している点が重要なカギとなる。前者(「この世」と呼ぶ)において人・事物・時間・空間は固有の名称(人名・地名・時刻ないし歴史的年代)によって互いに他と区別されるのに対し、後者(「あの世」と呼ぶ)においてそれらは「なにものでもないもの/なにものでもありうるもの」という名づけ得ぬ、ないしことさらに名づける必要のない存在である。 この「二つの世界」に住まう万人の原型であるHCEの「構築」(building)の営みの産物が、人類が「この世」に築いてきた文字どおりの「建物・都市・文明」であり、また比喩的には人類が言葉の煉瓦を積み上げて「この世」に構築してきた「物語」でもある。しかしHCE自身は「この世」において特定の「なにものか」としてidentifyしうるかたちでidentityを主張できる存在ではない。なぜなら、彼は一方で「あの世」において「なにものでもないもの/なにものでもありうるもの」でもあるからだ。 ジョイスが原型的「構築者」としてHCEを中心に据えたことには、聖書的文脈との意味深い連関がある。HCEの(言語的)構築は、バベルの塔の神話に示された「人間の(言語的)identity構築の企図は、逆にその混乱・崩壊につながる」という皮肉への洞察を踏まえており、さらには作品の言語そのものがこの混乱を文字どおりに演出している。『フィネガンズ・ウェイク』と聖書の伝統の関連はこの他にも指摘できる。HCEの「言語障害」は旧約から新約にうけつがれる人間の普遍的言語障害(罪)のテーマに沿っており、この罪・障害(ジョイスの用語でいえば「麻痺」)の癒しの問題が、作品の言語の意味特定の(不)可能性の問題として徹底的に追求されている。 究極的にこの作品の提示する課題は、パウロの言う「隔ての壁」に対応するものとしての「この世」と「あの世」の間のギャップをいかに乗り越えて「麻痺」から自由な全きidentityを獲得・回復しうるかという点である。HCEの双子の兄弟ShemとShaunは、それぞれ「あの世」への消極的退却と「この世」での積極的自己主張を原理的に体現するが、二人の対立・葛藤(旧約のヤコブとエサウのそれに対応)は、二人の対極的原理の「戦い」の直中に父なるHCEを「平和・和解の子」たる「第三項」として導き出す結果になっている。このことからも分かるように、『フィネガンズ・ウェイク』における和解(復活)のヴィジョンは、世界を「この世」ないし「あの世」のいずれかに一元化する類のものではなく、世界があるがままに「二重」であるということに目覚め、「二重にダブった世界」にあるがままに存在する真の全きidentityを獲得・回復するという形で求められている。『フィネガンズ・ウェイク』において「隔ての壁」は「かつて」存在しなかったものでも「いつか」撤廃しうるものでもない。「壁」は人間が(言語の)構築者である限り永遠に存在し続けるものであり、同時に、言語に本来的に内在する無限のpun生成の可能性によって「すでに/いつも」取り払われているものなのである。 Sheldon Brivicが指摘するように、言語においてシニフィアンとシニフィエの単純で確定的な対応がありえないという状況と、愛において愛の感情とその対象が単純に確定的に対応しないという状況はパラレルになっている。母親格の原型的登場人物ALPは娘格のIs syが結果的に立ち至る「愛の孤独性」、「人間性・個性のなかの非人間性・非個性」の認識を所与の前提として「この世」の愛にコミットしているという点で、やはり「二重にダブった世界」に存在している。彼女の書くラブレターは、究極的には「なにものでもないもの/なにものでもありうるもの」から「なにものでもないもの/なにものでもありうるもの」に宛てられたものであり、同様に『フィネガンズ・ウェイク』という書物自体も、ジョイスの中の「なにものでもないもの/なにものでもありうるもの」から、読者の中の「なにものでもないもの/なにものでもありうるもの」に宛てられたラブレターといえる。 |