学位論文要旨



No 113084
著者(漢字) 中筋,由紀子
著者(英字)
著者(カナ) ナカスジ,ユキコ
標題(和) 死の文化の比較社会学 : 死を問題化する視線
標題(洋)
報告番号 113084
報告番号 甲13084
学位授与日 1998.02.18
学位種別 課程博士
学位種類 博士(社会学)
学位記番号 博人社第190号
研究科 人文社会系研究科
専攻 社会文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 見田,宗介
 東京大学 教授 船津,衛
 東京大学 教授 似田貝,香門
 東京大学 教授 島薗,進
 東京大学 助教授 武川,正吾
内容要旨

 この論文は、現代日本が、死後の無縁化という現象において、一つの困難に逢着していることを、問題意識の発端とするものである。我々は、無縁という問題が、個人の個別な可能性の自由な追求という価値と、家の一員として身内との永続する関係に安住の地を得るという価値との、背反の中に成立していること、またこうした背反が、柳田國男が「先祖になる」と形容した近代日本の個人の可能性の解放のあり方にはらまれていたことを見いだした。また、現代アメリカにおける、デス・アウェアネス運動の論者を取り上げながら、無縁への恐怖のような形での、自己の死を問題として捉える視線が、近代社会において共通に成立してくるものであることを見た。

 そこで我々は、自己の死を問題として捉える視線の成立する地平を描き出すことによって、我々の問題意識に応える為に、比較という方法を用いることにした。比較の方法と枠組みについては、R.エルツの、死の集合表象としての研究を、その原点となったE.デュルケームの議論に遡って考察しながら、集合感情の表れとして葬儀のプロセスを捉え、また死についての集合表象の第一の典型として遺体の扱いや埋葬、墓の形態を捉えるものとして構成した。

 まず、我々はボルネオのイバン族とスーダンのヌアー族の死の儀礼の人類学的な研究を取り上げ、近代と対極にあるものとして「共同体における死」という一つの類型を構成したのである。この類型の特徴は、一つは死者の生れ変りの観念によってそのかけがえない個別性が消去されると同時に、集団の統合性の回復によってある成員の死という出来事が回収されること、もう一つは、生者の生活を死者の与えたものとすることで、生者の生活をある恒常性の相のもとに捉えることである。

 次には、東南中国の漢族の祖先祭祀の人類学的な研究から「系譜の連続性の中の死」という一つの類型を構成した。この類型の特徴は、一つは、死者の各々が、宗族の系譜的な連続性の中に位置づけられることで、死自体は、宗族の連続性に影響するものではないとされること、もう一つは、このような宗族上の地位が、生得的で変更や喪失ということの有り得ない地位である、ということである。

 次には、現代日本の死の儀礼について、大都市寺院の檀家の意識調査と、新しい葬儀や墓を求める運動の調査に基づいて、「〈我々〉の一員の死」という類型を構成した。その特徴は、一つは、死者の個別な心情や意思を、儀礼の担い手となる〈我々〉という一体性の中に埋没させること、もう一つは、〈我々〉という集団は、その一員が各々自らの〈我々〉を創設する可能性を持つことで、内側から解体する可能性を持っていること、換言すれば、どの様な家の成員も無縁となる可能性を持っているということである。

 最後に現代アメリカの死の儀礼について、葬儀産業などの調査から、「かけがえない個人の死」という類型を構成した。その特徴は、死者のかけがえない個別性の強調と、生者の生活が各々作り上げたものとして成立すべきである、という価値に対応して、生者の生活が死者から独立しているということである。また我々は、人々の個別性が、個性を実現する能動性において捉えられている為に、死はその能動性の喪失が即ち自己の喪失と感受されて、恐怖の対象になる事を見た。

 我々は上記の四つの死の類型を、二つずつ比較することで、無縁や死の恐怖などの死を問題化する視線が、未来へ向けて新しい〈我々〉なり個人なりを創造する可能性を持つことと対応していることを見いだすとともに、これらを、死の文化の成立する社会という地平において、一つのマトリクス上に位置づけた。この時、四つの類型は、規範の変更可能性、即ち生者と死者の世界の独立の有無についての第一軸と、ある成員の死の集団に対する独立性の有無についての第二軸によって、両方ない「共同体における死」、後者のある「系譜の連続性の中の死」、前者のある「〈我々〉の一員の死」、両方ある「かけがえのない個人の死」と分類される。こうした分類によって我々は、個としての死の成立が、個別な個人の死がどのような社会結合の危機にも直結しないあり方において初めて成立ち得るものであること、また、死を自己の問題として捉える視線の成立は、死の文化が過去の死者の存在ではなく自らの予見し得る未来に向けて構成されるものとなるであろう事を、指摘できるだろう。以上が、我々の比較社会学的な視点から得られた死の文化についての考察である。

審査要旨

 本論文は,葬制/墓制という,客観化された具体的なシステムを指標として活用しながら,「死」をめぐる観念を含めた文化の比較社会学的研究を遂行したものである。

 まず序章「死を問題化する視線」において,現代日本におけるインタビュー調査,および,柳田国男等による考察を手掛かりとして,日本近代の「無縁」をめぐる不安と恐怖が,日本の近代化社会の原理的な構成とダイナミズムにその根拠をもつものであることが示され,更にこのことを踏まえて,死をめぐる文化の比較社会学的研究の,問題意識と,方法的な戦略が提示される。

 第1章「共同体における死」では,R.エルツの,死の文化の民族誌的な研究,および,その基点となったE.デュルケームの比較社会学的な理論を踏まえて,エルツが具体的に対象としたイバン族の死の儀礼を,その後の山下晋司・内堀基光による詳細な現地調査の報告を検討し,更に,エルツの理論を取り入れて展開したエヴァンス=プリチャードによる,ヌアー族の研究を併せて検討しながら,「原始的」とよばれる共同体における死の文化を,いわば,比較社会学的な原型として考察している。

 第2章「系譜の連続性の中の死」では,東南中国における漢族の死をめぐる文化を,葬儀の理念的に標準化された形態を記す一般的なテキストである「家礼書」,および,埋葬において一般的に参照される知識体系である「風水」の詳細な検討をとおして考察している。

 第3章「〈我々〉の一員の死」では,現代日本の死をめぐる文化について,その一般的な形態をめぐるオリジナルな社会意識調査と,その先端的な問題点と可能性とを示すという意味での典型性をもつ事例としての,「もやいの会」,および,「葬送の自由をすすめる会」という2つの事例調査をとおして,具体的な考察を行っている。

 第4章「かけがえない個人の死」では,現代アメリカにおける葬儀と墓制について,特にその「市場化された形態」である,葬儀産業,霊園産業の実態,および,その業者等による,「エンバーミング」と,「ホストとしての死者」を中心とする葬礼の「演出」をめぐる分析とをとおして考察している。

 第5章「死の文化の比較社会学」では,第1章〜第4章における,4つの型の死の文化を,相互に比較して検討しながら,規範の変更可能性,および,成員の独立性,という2つの変数の組み合わせによる4つの象限の上に,上記4つの「死の文化」を定位するとともに,序章における問題の提起に応えながら,未来に向けての,新しい死の文化の可能性をも展望している。

 本論文は,死に対する観念と感覚を含む集合的な表象という困難な主題について,前述のように,葬制/墓制という,客観化された確実な指標に着目して,スケールの大きい比較社会学的研究を行うことに成功している。

 第1章〜第4章の内容をなす,原始的な共同体,中国,日本,アメリカの葬制/墓制の研究は,それぞれ,相当の厚みをもった内容のある実証分析である。

 本論文にもなお望むべき点は存在する。たとえば,第4章,現代アメリカの死の文化の考察において,重要な存在である教会と家庭の役割を捨象し,「市場的」な形態に考察を集中したことの,本論文の問題意識との関連における方法的な根拠について,十分読者に分かるような明快な説明がされていないこと,および,中国のケースの理論的な位置づけについても,なお説明に不十分な部分の残ること,の2点は,その最大のものである。また目次の表記の仕方については,これは好みの問題であるといえるが,一般的な慣例を標準とすると,幾分ユニークに過ぎるかと思われる。

 以上のような問題点はあるが,理論的な問題設定と視野の大きさ,筆者自身によるオリジナルな調査の実施を含めた,それぞれの社会の葬制/墓制についての実証の厚みを全体として評価するならば,本論文は,本研究科課程博士の学位を授与するに十分の水準にある論文であると認定することが出来る。

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