審査要旨 | | 本論文は,葬制/墓制という,客観化された具体的なシステムを指標として活用しながら,「死」をめぐる観念を含めた文化の比較社会学的研究を遂行したものである。 まず序章「死を問題化する視線」において,現代日本におけるインタビュー調査,および,柳田国男等による考察を手掛かりとして,日本近代の「無縁」をめぐる不安と恐怖が,日本の近代化社会の原理的な構成とダイナミズムにその根拠をもつものであることが示され,更にこのことを踏まえて,死をめぐる文化の比較社会学的研究の,問題意識と,方法的な戦略が提示される。 第1章「共同体における死」では,R.エルツの,死の文化の民族誌的な研究,および,その基点となったE.デュルケームの比較社会学的な理論を踏まえて,エルツが具体的に対象としたイバン族の死の儀礼を,その後の山下晋司・内堀基光による詳細な現地調査の報告を検討し,更に,エルツの理論を取り入れて展開したエヴァンス=プリチャードによる,ヌアー族の研究を併せて検討しながら,「原始的」とよばれる共同体における死の文化を,いわば,比較社会学的な原型として考察している。 第2章「系譜の連続性の中の死」では,東南中国における漢族の死をめぐる文化を,葬儀の理念的に標準化された形態を記す一般的なテキストである「家礼書」,および,埋葬において一般的に参照される知識体系である「風水」の詳細な検討をとおして考察している。 第3章「〈我々〉の一員の死」では,現代日本の死をめぐる文化について,その一般的な形態をめぐるオリジナルな社会意識調査と,その先端的な問題点と可能性とを示すという意味での典型性をもつ事例としての,「もやいの会」,および,「葬送の自由をすすめる会」という2つの事例調査をとおして,具体的な考察を行っている。 第4章「かけがえない個人の死」では,現代アメリカにおける葬儀と墓制について,特にその「市場化された形態」である,葬儀産業,霊園産業の実態,および,その業者等による,「エンバーミング」と,「ホストとしての死者」を中心とする葬礼の「演出」をめぐる分析とをとおして考察している。 第5章「死の文化の比較社会学」では,第1章〜第4章における,4つの型の死の文化を,相互に比較して検討しながら,規範の変更可能性,および,成員の独立性,という2つの変数の組み合わせによる4つの象限の上に,上記4つの「死の文化」を定位するとともに,序章における問題の提起に応えながら,未来に向けての,新しい死の文化の可能性をも展望している。 本論文は,死に対する観念と感覚を含む集合的な表象という困難な主題について,前述のように,葬制/墓制という,客観化された確実な指標に着目して,スケールの大きい比較社会学的研究を行うことに成功している。 第1章〜第4章の内容をなす,原始的な共同体,中国,日本,アメリカの葬制/墓制の研究は,それぞれ,相当の厚みをもった内容のある実証分析である。 本論文にもなお望むべき点は存在する。たとえば,第4章,現代アメリカの死の文化の考察において,重要な存在である教会と家庭の役割を捨象し,「市場的」な形態に考察を集中したことの,本論文の問題意識との関連における方法的な根拠について,十分読者に分かるような明快な説明がされていないこと,および,中国のケースの理論的な位置づけについても,なお説明に不十分な部分の残ること,の2点は,その最大のものである。また目次の表記の仕方については,これは好みの問題であるといえるが,一般的な慣例を標準とすると,幾分ユニークに過ぎるかと思われる。 以上のような問題点はあるが,理論的な問題設定と視野の大きさ,筆者自身によるオリジナルな調査の実施を含めた,それぞれの社会の葬制/墓制についての実証の厚みを全体として評価するならば,本論文は,本研究科課程博士の学位を授与するに十分の水準にある論文であると認定することが出来る。 |