学位論文要旨



No 113086
著者(漢字) 孫,安石
著者(英字) Son,An-Suk
著者(カナ) ソン,アンソク
標題(和) 一九二〇年代、上海の朝鮮人コミュニティ研究
標題(洋) A Study of Korean Community in Shanghai 1920’s
報告番号 113086
報告番号 甲13086
学位授与日 1998.03.02
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第131号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 並木,頼寿
 東京大学 助教授 木宮,正史
 東京大学 助教授 村田,雄二郎
 東京大学 助教授 黒住,真
 東京大学 教授 濱下,武志
内容要旨

 一九二〇年代、「国際都市」上海には朝鮮人「コミュニティ」ともいうべき空間が形成されていた。しかし、上海の朝鮮人を論じる先行研究の多くは、上海の朝鮮人=韓国臨時政府という等式、即ち、朝鮮の民族独立運動を重視する枠組に制限され、朝鮮人コミュニティの諸活動は殆ど不明のままにされてきた。そこで、本論文は、一九二〇年代、上海の朝鮮人の諸活動を「コミュニティ」という観点から接近し、先行研究では言及されることが少なかった多くの事実(人口動態、日常生活、職業の特徴、言論、日・仏情報交換問題、中国労働運動との関係など)を確認し、一九二〇年代、上海の朝鮮人コミュニティの全体像を浮き彫りにすることを試みる。その資料としては、主に日本外務省外交史料館と台湾中央研究院近代史研究所が所蔵する未公刊資料を用いる。

 本論文は総九章で構成される。序章「上海の朝鮮人コミュニティとは何か」は本論文の問題提起にあたる。ここでは、既存の上海の朝鮮人研究の限界を作り出している上海の朝鮮人=上海の韓国臨時政府という枠組を解体することによって、より多様な観点から上海の朝鮮人の実像に接近することになる点について言及する。また、既に検証や異論の余地のない日本「帝国主義」の支配と朝鮮の抵抗という絶対概念ではなく、「現実」としての日本「帝国主義」が上海の朝鮮人コミュニティをどのように規制し、統制していたのかを論じる必要があることを指摘する。

 第一章「上海の朝鮮人コミュニティの歴史的変遷」では、上海の朝鮮人コミュニティの歴史的な変遷を人口動向という数量データをもって検討する。上海の朝鮮人コミュニティは、形成期(一九一○年〜一九一九年)、発展期(一九一九年〜一九三二年)、変質期(一九三二年以後)という三段階の変容を成し遂げた。従来の韓国側の先行研究においては、上海の韓国臨時政府がフランス租界を離れる一九三二年を境に上海の朝鮮人の活動は崩壊した、と指摘してきた。しかし、人口推移から見る限り上海在留朝鮮人の人口は、一九三二年以後においても増加する傾向を見せている。一九三二年以後、上海の韓国臨時政府が活動の場を失ったという側面からみれば、独立運動に従事していた朝鮮人の活動は崩壊したことになる。しかし、一九三二年以後においても上海在留朝鮮人は二〇〇〇名以上に達していたことを忘れてはならない。本論文が一九三二年以後を朝鮮人コミュニティの崩壊ではなく、変質期として位置づけた所以である。

 第二章「上海の朝鮮人コミュニティの生活の営み」では、上海の韓国臨時政府を重視する先行研究では全く注目されることがなかった上海の朝鮮人コミュニティの日常生活の営みを分析する。一つの共同体として朝鮮人コミュニティを問題とする際、その日常生活の営みがどのようなものであったのかは、第一に説明が必要とされる部分である。本章では、朝鮮人が最初に上海に着いて、居住を求め、職を探し、コミュニティの一員として所属することになる経過を明らかにするとともに、朝鮮人コミュニティの一年の流れを年中行事を中心に整理してみた。一九二二年の統計によれば、集会は年に合計五四回開かれ、延べ参加人数は四七〇〇名以上を数える。

 第一章と第二章は上海の朝鮮人コミュニティを理解するための基礎データ(人口動向と日常生活)を取り扱ったが、第三章「上海の朝鮮人コミュニティの存立基盤」では、上海の朝鮮人コミュニティの存立に大きな影響を及ぼした日・仏の情報交換問題を取りあげる。上海の朝鮮人と日本のベトナム人。この二つの事柄は、朝鮮を植民地とする日本とベトナムを植民地とするフランスという二つの植民地「帝国」によって深い関連をもっていた。従来の先行研究では上海の韓国臨時政府がフランス租界の理解と協力によって「保護」されていたことが繰り返し指摘されてきた。しかし、フランス租界が上海の朝鮮人を保護したという理解は必ずしも的確なものではない。日・仏両国は「帝国」の治安を脅かす「不逞鮮人」と「安南革命者」を取り締まるために一九一九年、一九二五年、一九三一年の三回に渡って情報交換のチャンネル作りを試みた。結局、日・仏両国の情報交換システムは、一九三一年の「満州事変」と一九三二年の「桜田門不敬事件」、そして、「上海虹口公園爆弾事件」を契機に成立した。日本外務省外交史料館の資料によれば、日・仏両国は、情報交換システムを構築するために上海の領事館は勿論、北京の公使館、駐日、駐仏大使などあらゆる外交チャンネルを動員していたことを克明に追跡することができる。上海の朝鮮人コミュニティ問題は、東アジアにおける帝国主義の支配と統制の問題と深く関連していたのである。

 第四章「上海の朝鮮人コミュニティの言論」では、上海のフランス租界で発行された朝鮮語『独立新聞』を取り上げ、同新聞の発行期間、発行部数などに関する新しい書誌的な検討を加える。まず、同新聞の発行期間について通説は一九二五年一一月(第一八九号)停刊説を支持してきたが、同新聞は、一九二六年一一月(第一九八号)まで発行を続けていた。また、『独立新聞』の発行部数について言及した先行研究は皆無であるが、本章の試算によれば約五〇〇〇部前後を発行していたものと推定される。また、『独立新聞』の前身として知られる『独立新報』やその発行だけが知られる『独立新聞』中国語版の原紙の一部が日本外務省外交史料館に所蔵されていることも確認できた。これらの新しい資料を基礎に、本論文の第五章で論じる『独立新聞』と中・朝連帯組織との関連をまた、究明することができる。

 第五章「上海の中・朝連帯組織」では、一九二一年、上海で設立された中・朝連帯の組織「中韓国民互助社總社」の成立経緯、構成、活動の内容などを論じた。「中韓国民互助社總社」については、多くのことが不明のままにされてきたが、本章の記述によって、同組織が一九二一年五月に成立し、ワシントン会議をめぐって活発な外交活動を展開したこと、一九二二年九月の第二回大会を境に、社員一五〇名以上を持つ中・朝連帯の運動組織として整備されたこと、そして、その活動は宣伝と教育を中心としたものであったことなどが明らかにされる。一九一九年の朝鮮の三・一運動と中国の五・四運動を通じて中・朝連帯の意識が高揚したことについては、中国と韓国の研究で既に多くの成果が発表されてきた。しかし、中・朝連帯の組織的な活動を論じたものは少ない。本章で取り上げた上海の「中韓国民互助社總社」の成立過程は「思想」レベルの中・朝連帯意識がどのような経過をへて「組織」レベルの活動に展開したのかを明示するものである。

 第六章「上海のナショナリズム運動と朝鮮人」では、中国ナショナリズム運動のシンボル的な位置を占めている五・三〇運動に上海の朝鮮人がどのように対応したのか。また、その他の地域(北京)や本国の朝鮮人が五・三〇運動をどのような観点からみていたのか。そして、在朝鮮の華僑と五・三〇運動との関連を指摘し、五・三〇運動と朝鮮との関連の全体像を把握することを試みた。在中国(上海、北京)の朝鮮人と本国朝鮮の人々は、中国の五・三〇運動運動が反日・反帝国主義的な性格を帯びていたことから、五・三〇運動を積極的に支援する活動を展開した。その事実は、上海、北京、そして、本国朝鮮で配布された各種の宣伝パンフや新聞記事等の言論によって裏付けられる。特に、五・三〇運動をその発生の当初から「中国国民革命運動」として捉える視点は、同時代の欧米や日本などの言論が中国の五・三〇運動を暴動として規定しているのと、良い対比をなす。

 第五章と第六章は一九二〇年代の上海を中心にした中・朝関係史を検討したが、第七章「上海の都市交通と朝鮮人検票員(Inspector)」は、上海都市形成史と朝鮮人との関りを論じた。即ち、上海の電車とバス会社に就職した朝鮮人労働者問題を取り上げ、朝鮮人検票員が上海の都市交通機関に雇用された理由、その歴史的な背景や就職過程、規模、賃金状況、また、上海の朝鮮人コミュニティにおける彼らの役割、そして、最後に彼らが上海の労働運動に参加する過程について論じた。その結果、上海の電車とバス会社に朝鮮人検票員が登場した背景には二つの要因が作用していたことを確認しえた。

 即ち、都市上海においては新しい大衆交通の誕生という労働力の流入要因が用意され、朝鮮においては日本の植民地化による労働力の排出要因が後押しすることで朝鮮人検票員が誕生したのである。上海の都市交通と朝鮮人検票員の接点は東アジアの複雑な勢力関係を直裁に反映するものであったと言い換えることができる。朝鮮人検票員は一九三〇年代以後には、賃上げ問題をめぐって中国人労働者と連帯するストライキをも展開した。勿論、上海の電車とバス会社に雇用された中国人労働者の中に占める朝鮮人検票員の人数は決して多くはなかった。しかし、上海の朝鮮人コミュニティを上海都市形成史との関連で捉え直す切り口が確保された意義は大きい。朝鮮人検票員の存在は、独立運動史を重視する韓国側の先行研究では殆ど注目されることがなかったが、かれらは安定した職業を背景に朝鮮人コミュニティを財政的に支える役割も担っていた。

 本論文の全体を通して、筆者は、上海の朝鮮人問題を既存の韓国臨時政府を中心とする政治史的なアプローチではなく、「コミュニティ」という新しい枠組をもって分析することを試みた。その結果、上海の朝鮮人コミュニティの全体像を「等身大」として理解するためには政治史の他にも、一種の社会史、文化史、そして生活史的な方法による研究成果の蓄積が必要であることを再三にわたって確認した。さらに視点を広げれば、上海の朝鮮人問題を単に上海近代史、または朝鮮近代史との関連で捉えるだけではなく、東アジア近代(中国、日本、朝鮮)の錯綜する国際関係の表われとして捉えることも可能である。本論文の第三章で論じた上海の朝鮮人コミュニティをめぐる日・仏情報交換問題、そして第七章の上海都市形成史と朝鮮人検票員との関係などは、上海の朝鮮人問題が決して朝鮮近代史だけの問題、または、上海という地域に限定された問題ではないことを雄弁に証明してくれる。

 論文の各章で論じた内容は以上のように要約できるが、それでは「国際都市」上海にとって朝鮮人はいかなる位置を占めるのか、また、朝鮮人にとって上海はいかなるものであったのだろうか。上海には「治外法権」を享有する外国人の他にも、列強の特殊権益とは何の縁もなかった難民と亡命外国人が居住を求めていた。一九一〇年代には白系ロシア人が、そして、一九二〇年代には朝鮮人、そして、一九三〇年代にはナチスに迫害されたユダヤ人が、上海に渡来した。その他にも、台湾、ベトナム、印度などの植民地からの人口流入も見られた。確かに、彼ら植民地からの人々が都市上海の中心をなしたことはない。しかし、上海が「国際都市」と呼称されるのは、一握りの欧米人や日本人だけによる上海ではなく、このような被圧迫民族をも受け入れる懐の大きさがあったからに違いない。

 朝鮮の人々にとって上海は幾つもの顔をもっていた。植民地朝鮮から逃れ、祖国朝鮮の独立を夢見た人々にとっては、上海は本国朝鮮から最も近い独立運動の拠点であった。ニム・ウェールズ『アリランの歌』の中で、朝鮮人革命家キム・サンがいみじくも表現しているように、朝鮮人亡命者にとって上海は「亡命者の母」であった。彼らは、上海を単なる移民の地として選んだわけではなく、独立した自主的な「国家」の完成を実験する空間として考えていた。また、朝鮮から生活の糧を求めて上海に渡った人々にとって、上海は資本の論理がものをいう生存競争の大都市であった。資本も、技術も持たない朝鮮人は、電車・バス会社の検票員として定職をもつごく一部の人を除いては、都市上海の下層民衆として中小商人・職工・飲食業・各種雑業などあらゆる職業に従事していた。甚だしくは、麻薬と売春に手を染めて生きる人々もいた。幸いであったのは、「国際都市」上海にはあらゆる人種と国籍の外国人が居住していたし、その隙間は朝鮮人を強制的に排除してはいなかったことであろう。朝鮮人コミュニティを排除する構造は、都市上海の内部ではなく、むしろ外部からもたらされた。即ち、朝鮮を植民地とする日本「帝国主義」の出先機関としての上海総領事館警察こそが朝鮮人コミュニティの存立を威嚇する最大の存在であった。一九三二年以後、上海の朝鮮人コミュニティがその独自の活動を展開することができず、上海の日本人居留民社会への統合を余儀なくされた最大の原因は、日本の上海総領事館の高等警察課の設立と徹底した取締によるものである。

 振り返ってみれば、いままで蓄積されてきた朝鮮近現代史の歴史研究の多くは、日本「帝国主義」対朝鮮の独立運動史という二分法的な論理構造を無意識の内に踏襲してきたように思われる。しかし、そのような二分法をもって、全ての事柄を説明しようとした時に、我々はあまりにも多くの事実を切り捨てることになりはしないか。上海の朝鮮人研究を取り扱う多くの先行研究が「コミュニティ」という概念を採用することができなかったことも、実は、そのような日本「帝国主義」対朝鮮の独立運動の重視という従来の枠組をそのまま受けついた結果ではないだろうか。勿論、若手研究者によって新しい手法による研究成果が発表されているとは言え、その枠組においては政治史的な接近、すなわち「反帝国主義」と「独立運動」という二つの軸が依然として規範のように尊重されている。しかし、戦後五〇年を経過した現在、そのような政治史的なアプローチは、再検討の段階を迎えたように思われる。いま、我々に必要なのは、東アジア近代の歴史全体を読み解く「理論」、または「神話」として日本「帝国主義」を無前提に受け入れることではなく、日本「帝国主義」という理論枠から一歩距離を置くことによって、より多様な視点から一つ一つの事柄を解釈して行く可能性を確保して行く努力ではないだろうか。

審査要旨

 本論文は、一九二〇年代に「国際都市」上海に存在した朝鮮人「コミュニティ」を多面的に扱った独創的な論文である。従来、日本による朝鮮植民地化、1919年の三・一独立運動、上海における韓国臨時政府の独立運動というつながりにおいて、上海の朝鮮人社会が取り上げられてきたが、本論文はそのような先行研究の多くが、上海の朝鮮人=韓国臨時政府という等式を設定し、朝鮮の民族独立運動のみを研究対象としてきたことを批判する。そして、三・一独立運動後に急増した上海の朝鮮人の諸活動を、「コミュニティ」という観点からとらえ直し、先行研究では言及されることが少なかった多くの問題、すなわち人口動態、日常生活、職業の特徴、言論活動、日・仏情報交換問題、中国労働運動との関係などについて、主に日本外務省外交史料館や台湾中央研究院近代史研究所が所蔵する未公刊資料などから貴重な史料を発掘し、基礎的な事実を確認して、新しい研究視角を切り開いた。これは、学界への大きな貢献であろう。

 本論文は全九章で構成される。序章「上海の朝鮮人コミュニティとは何か」は、本論文の問題提起にあたる部分である。ここでは、既存の上海の朝鮮人研究の限界を作り出している上海の朝鮮人=上海の韓国臨時政府という枠組を解体することによって、より多様な観点から上海の朝鮮人の実像に接近しうることが主張される。

 第一章「上海の朝鮮人コミュニティの歴史的変遷」では、上海の朝鮮人コミュニティの歴史的な変遷を人口動向という数量データをもって検討する。その結果、上海の朝鮮人コミュニティは、形成期(一九一〇年〜一九一九年)、発展期(一九一九年〜一九三二年)、変質期(一九三二年以後)という三段階の変容を遂げたことが指摘される。第二章「上海の朝鮮人コミュニティの生活の営み」では、上海の韓国臨時政府を重視する先行研究では全く注目されることがなかった上海の朝鮮人コミュニティの日常生活の営みが分析される。このような日常生活の再構成によって、「コミュニティ」としてとらえる視角の必要性と妥当性が明らかにされる。

 このような基礎データ(人口動向と日常生活)の確定をふまえて、第三章「上海の朝鮮人コミュニティの存立基盤」では、上海の朝鮮人コミュニティの存立に大きな影響を及ぼした日・仏の情報交換問題を取りあげる。従来の先行研究では上海の韓国臨時政府がフランス租界の理解と協力によって「保護」されていたことが繰り返し指摘されてきたが、この理解は必ずしも的確なものではなく、日・仏両国は「帝国」の治安を脅かす「不逞鮮人」と「安南革命者」を取り締まるために情報交換を繰り返した。ここで著者はそれにともなう多様な外交チャンネルを明らかにし、さらに一九三二年に至って臨時政府がフランス租界から排除されたことを論じて、東アジアにおける「帝国主義」諸国の支配と統制の問題を検討する上で新たな展望を開いた。

 第四章「上海の朝鮮人コミュニティの言論」では、上海のフランス租界で発行された朝鮮語『独立新聞』を取り上げ、同新聞の発行期間、発行部数などに関する新しい書誌的な検討を加え、先行研究では不明であった新たな事実を大量の発掘した。また、『独立新聞』の前身として知られる『独立新報』やその発行だけが知られる幻の『独立新聞』中国語版の原紙の一部が、日本の外務省外交史料館に所蔵されていることを確認したことも、大きな貢献である。

 第五章「上海の中・朝連帯組織」では、一九二一年、「中韓国民互助社総社」の成立経緯、構成、活動の内容などを論じた。「中韓国民互助社総社」については、多くのことが不明のままにされてきたが、本章の記述によって、同組織が一九二一年五月に成立し、ワシントン会議をめぐって活発な外交活動を展開したこと、一九二二年九月の第二回大会を境に、社員一五○名以上を持つ中・朝連帯の運動組織として整備されたこと、そして、その活動は宣伝と教育を中心としたものであったことなどが明らかにされた。従来の研究は朝鮮の三・一運動と中国の五・四運動を通じて、思想面での中・朝連帯の意識を確認してきたが、本論文の成果は、これに組織的な活動の実態があった事実を加え、研究の進展をもたらしたものである。

 第六章「上海のナショナリズム運動と朝鮮人」では、一九二五年に上海で発生し、中国ナショナリズム運動史にシンボル的な位置を占めている五・三〇運動について、上海の朝鮮人がどのように対応したのか、また、その他の地域(北京など)や本国の朝鮮人がどのような観点から運動をみていたのか、を論ずる。そして、上海、北京、そして、本国朝鮮で配布された各種の宣伝パンフや新聞記事等の言論によって、五・三〇運動をその発生の当初から「中国国民革命運動」として捉える視点が明確であったことを明らかにし、同時期の欧米や日本などの言論が中国の五・三〇運動を暴動と把握していたこととの対比を論じた。

 この第五章と第六章でなされた一九二〇年代の上海を中心にした中・朝関係史の記述をふまえ、第七章「上海の都市交通と朝鮮人検票員(Inspector)」では、上海の都市形成史と朝鮮人との関わりを論ずる。上海の電車とバス会社に就職した朝鮮人検票員は、独立運動史を重視する韓国の先行研究では殆ど注目されることがなかったが、都市上海における新しい大衆交通手段の誕生という都市形成史の側面と、朝鮮植民地化にともなう労働力問題が検討され、これによって、東アジアの錯綜した社会関係の実態を解明する展望が開かれた。上海の電車・バス会社に雇用されていた中国人労働者との関係が問題となるが、上海の朝鮮人コミュニティを上海都市形成史との関連でとらえる視角が得られた意義は大きい。

 このように、本論文の全体を通して、著者は、一九二〇年代の上海の朝鮮人問題を、従来の韓国臨時政府を中心とする政治史的なアプローチではなく、「コミュニティ」という新しい枠組をもって分析することを試み、それに一つの解答を与えることに成功した。とくに、本論文では、上海の朝鮮人問題を単に上海近代史、または朝鮮近代史との関連で捉えるだけではなく、東アジア近代(中国、日本、朝鮮)の錯綜する国際関係の表われとして捉える可能性を示し、研究の視野を大幅に拡大したことが特筆される。それは、第三章の上海の朝鮮人コミュニティをめぐる日・仏情報交換問題、および第七章の上海都市形成史と朝鮮人検票員との関係などを取り上げた箇所に、如実に現われている。

 上海の朝鮮人コミュニティは、上海の韓国臨時政府がフランス租界を離れる一九三二年以後においても、かたちを変えて存在しており、その問題が本論文においては十分に取り上げられなかったこと、また、各章の間の論理的なつながりがやや弱いように感じられる場合があることなど、問題として指摘しうるところがないわけではない。しかし、従来にない斬新な視角から新たな史料を大量に発掘しながら、多面的に問題に接近した試みは、高く評価すべきものであり、また、本論文は著者の独創性と学術的資質をよく示す充実した成果である。

 以上、なお議論を深める余地は認められるものの、これは本研究の価値と学界への貢献を減ずるものではなく、審査委員会は、論文審査の結果として、本論文を「博士(学術)」の学位を授与するに値するものと判定する。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54606