学位論文要旨



No 113087
著者(漢字) 山根,徹也
著者(英字)
著者(カナ) ヤマネ,テツヤ
標題(和) 19世紀プロイセンにおける食糧騒擾と「営業の自由」
標題(洋)
報告番号 113087
報告番号 甲13087
学位授与日 1998.03.02
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第132号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 石田,勇治
 東京大学 教授 木村,靖二
 東京大学 教授 草光,俊雄
 東京大学 助教授 相澤,隆
 東京大学 助教授 網野,徹哉
内容要旨

 本論文は、市場規制とバン価格公定制度に着目しつつ、19世紀プロイセンにおける食糧騒擾と「営業の自由」政策の相互連関を明らかにすることを目的とする。

 当該時期においては、三つの時期が画期的な転換点となっている。すなわち、1810年前後、1848年前後、および1870年前後である。

 1810年前後の時期に、中世都市以来の食糧に関するモラル=エコノミー的制度が廃止された。

 中世都市においては、「都市経済政策」の一環として様々な食糧政策が行われており、その代表的なものが「買い占め、先買い」規制、すなわち市場規制と、パン価格公定制度であった。これらの制度は、身分制団体としての中世都市の性格と結びついたものであった。プロイセン「絶対主義国家」は19世紀初頭に至るまで、こうした制度を維持し、あるいは強化すらしていた。

 しかし、18世紀後半にはこ啓蒙主義者ないし重農主義者が、またやや遅れてアダム・スミス学派が穀物流通の自由化、「買い占め・先買い」規制の廃止を要求し始めた。プロイセン官僚機構内部でもこうした新しい考え方はしだいに浸透し、また、イギリス向け穀物輸出増加という背景もあって、旧来の「買い占め」規制等の規制は動揺しつつあった。18世紀末、19世紀初頭の食糧騒擾は多くの場合、穀物輸出規制、「買い占め・先買い」規制への違反者と見なされる商人に対する攻撃であり、これらの規制が動揺しているという状況下に発生したと考えられる。

 1807年以降、プロイセン官僚、特にアダム・スミスの経済学説を受容したプロイセン地方の改革派官僚の主導下に始められた営業の自由導入政策によって、「買い占め、先買い」規制とパン価格公定制度は1808年から1811年にかけてのあいだに廃止された。

 この廃止の過程においてすで国家機構内部に強力な異論があったのであるが、この「改革」の実施直後から、旧来の制度の廃止によって住民のあいだに「不満」が生じた。このことを恐れた地方官庁、特に首都ベルリンの警視庁からも改革への抵抗が生じた。そのため、警察による市場監視の強化、パン価格については「自主価格設定」制度の創出が必要であった。

 また、1815年に獲得されたライン州、旧ザクセン王国領などの多くの新領土においては、このプロイセン法の適用をさし控えざるを得なかった。このため、この地域では市場商人取引時間規制とパン価格公定制度が存続させられ、この状況は1845年営業令においてもおおよそ追認された。ただし、旧ザクセン王国領においては、この営業令によってかなり「営業の自由」が導入され、多くの都市において市場規制は廃止、ないし緩和されていた。

 1847年、48年の食糧騒擾は、こうした「営業の自由」体制に対する抗議とみなすことができる。

 1847年に起きた134件の食糧騒擾のうち、都市の週市における紛争をきっかけとして起きたものが半数以上を占めていた。そのうち、市場における商人に対する攻撃は、週市において「先買い行為」を犯した者に対する懲罰という意味を明らかに持っていた。また、週市における騒擾の大半を占める農民に対する攻撃においても、売り手の農民が一般消費者ではなく商人、すなわち「買い占め人」に売るために商品の価格を高く設定しているという事情がうかがわれる場合が多い。そのような場合、やはり騒擾は「買い占め」に対する反感と無縁ではない。さらに、週市ではなく、商人の住宅ないし穀物倉庫に対する襲撃の場合においても、これらの商人はたいてい「買い占め」の嫌疑を住民のあいだで受けていた。また、食糧の市外への移出を阻止しようとする行動においても、商人の「買い占め」に対する反感が見られた。このように、これらの食糧騒擾の主要な要因は、商人による「買い占め」に対する、それを価格高騰の原因と考える住民、特に下層民の反感であった。こうした反感は、「営業の自由」によって市場規制が行われていないために、商人が自由に食糧取引を行いえたために強まっていたと考えられる。

 次に1847年に起きたパン屋に対する騒擾として、ベルリンの事例を検討した。この事例では、騒擾を起こした群衆の動機として、二つの契機が見られる。すなわち、第一には、「贈り物」としてパンを要求するという発想、第二には、パン屋がパン価格を穀粉価格の低下に伴って引き下げていないという不満であった。第一の契機は、1846年アーヘンで起きたパン屋に対する騒擾においても見られたものであった。第二の契機は、パン価格公定制度の復活要求につながる性格を持っている。

 1847年における食糧騒擾の地域分布のありかた、すなわち西部諸州ではきわめて少なく、東部諸州に多いという傾向も、経済的地帯構造の格差にだけではなく、制度上の差異にも起因しているはずである。市場商人取引時間規制が実施されていること、西部諸州の多くの都市でパン価格公定制度が存続していることによって、モラル=エコノミー的理念に基づく騒擾の発生が大幅に妨げられたのである。逆に、これらの制度が廃止、ないし緩和されていた東部諸州では、それゆえ食糧騒擾が多かったと言える。

 翌1848年の革命のもとにおいても、穀物価格の低下にもかかわらず、かなりの件数の食糧騒擾があった。そのうち、特にナイセに起きた騒擾は、バターを買い占める商人に対する懲罰という性格を明瞭に示している。また、ベルリンに起きたパン屋に対する騒擾では、パン価格公定制度の復活を要求する群衆の態度が明らかになっていた。

 こうした食糧騒擾への対応を強いられた政府、地方官庁および市参事会等の現地当局の態度は複雑であり、動揺していた。市場商人取引時間規制については、これを臨時的に法を変更してまで、これを導入せざるをえなかった(1847年4月23日閣令)。ナイセでは、騒擾発生直後に市参事会が営業令に違反した形で、市場商人取引時間規制を導入せざるをえなかった。

 1848年のベルリンにおけるパン価格政策をめぐる対応を見ると、警視庁、市参事会、市議会の3者は、パンについては「営業の自由」原則を維持することで一致している。この原則を貫徹し、なおかつ食糧騒擾の再発を予防する方策として市議会によって考案されたのが、自主価格設定制度の改訂版とも言うべき「現行価格表」であった。

 このような経緯の結果、政府が新たに制定したのが、1849年営業条令であった。この条令によって、市場規制については、それがなかった都市でも導入が許されるという逆戻りが起きた。パン価格については、ほぼ現状維持が続けられるとともに、ベルリン市議会案に基づくと思われる新たな自主価格設定制度が定着した。これが、19世紀半ばの食糧騒擾の帰結であった。

 1860年代初頭のアンケートによって明らかになったように、多くの現地当局、すなわち市参事会が、「暴動」発生防止のために、1849年営業条令による市場商人取引時間規制の実施が必要であると回答している。潜在的な食糧騒擾の圧力が、「上からのエコノミー」の実施を強いていたのである。

 ただし、プロイセン国家、ないしこの事項の担当大臣であるハイトは、原則としては「営業の自由」を信条とする穏健自由主義者であり、事実、王国内の一部に残存するパン価格公定制度の廃止に努力している。ただし、ハイトは都市自治体の意向を尊重することを原則としていたので、このプロセスは説得を手段とする漸進的なものとなった。また、この手法ゆえに、市場規制の廃止は断念している。

 そののち、ビスマルク政権は、新たに成立した北ドイツ連邦の法的統一の必要性にも促されつつ、自由主義者とも協同しつつ1869年営業令を成立させた。この法によってついに食糧流通に関しても「完全な営業の自由」が実現された。この政策を各都市自治体当局が受け入れた要因のひとつとしては、大都市における著しい人口増加、および大都市を結ぶ鉄道網の発達などが考えられる。すでに1860年アンケートへの回答においても、大都市の市参事会のあいだでは、市場商人取引時間規制の廃止に賛成する率が比較的高い。また、下層民の運動の形態も変化しつつあった。1870年代当時、生起した組織的労働運動や協同組合運動の影響をおそらくは受けて、ボイコットのような新しい、直接行動によらない行動様式が現れつつあったのである。この時期以降、騒擾の発生件数は減少している。このことが「営業の自由」の定着を可能にしたと考えられる。

 「営業の自由」が食糧騒擾の原因の一つとなったのであり、他方、食糧騒擾によって「営業の自由」の後退や微調整が必要となった。このような両者の相互作用が19世紀プロイセンには起きていたのである。

審査要旨

 本論文は、ドイツ近代とくに19世紀初頭からドイツ帝国創設期に至るプロイセン王国における食糧騒擾の実態を、プロイセン政府による「営業の自由」政策に着目しつつ分析し、食糧騒擾と食糧流通政策の間に見られる複雑な相互作用のメカニズムを、「モラル=エコノミー」論の観点から解明しようとする試みである。具体的には、伝統的な市場規制とパン価格公定制度を焦点として、これらが民衆の激しい抵抗にあいながらも次第に廃止され、最終的に自由な市場経済への道が敷かれる過程が、旧プロイセン国家枢密文書館および地方文書館保存史料など広範な一次史料の精密な分析にもとづいて実証的に論証されている。

 従来の歴史学、社会経済史研究において、プロイセン改革期の「営業の自由」政策は、同時期の「農民解放」とともに、身分制社会解体の契機として、またその後のドイツ特有の資本主義化・近代化の主要な要因として注目され、この観点から数多くの研究が蓄積されてきた。だが、「営業の自由」が引き起こしたさまざまなタイプの食糧騒擾を多面的に分析し、さらにそれらが「営業の自由」政策の軌道修正をもたらした過程を論証した研究はまだ現れていない。本論文は、こうした研究上の間隙を埋め、ドイツ民衆史・社会史研究に新たな地平を開く有益な研究である。

 本論文のキータームをなす「モラル=エコノミー」の概念は、18世紀イングランドの食糧騒擾を分析した著名な歴史家E.P.トムソンの研究に由来し、民衆の生存に直接関わる商品交換の規制を是認する、市場原理と対立する経済的原理を意味する。本論文はこの概念を、「モラル=エコノミー的制度」と「モラル=エコノミー的理念」に区別し、加えて食糧騒擾における民衆の行動様式の規律性と規範意識を分けることで「モラル=エコノミー」の意味内容をいっそう豊富で精緻なものにしている。

 本論文は、序論、第1部から第3部までの本論、結論、付録(付論、史料の原文と訳文各1点、地図1点)、史料・文献リストからなる。目次等を含めて総ページ数196(四百字詰めで約700枚、うち本文約510枚)である。序論において研究史の整理と問題提起がなされ、第1部では議論の前提として中世都市以来の食糧流通規制の歴史が概観されたのち、プロイセン改革下の「営業の自由」政策と食糧騒擾の関係が、第2部では1847〜48年における市場規制・パン価格公定制度と食糧騒擾の関係が、第3部では革命期以後、帝国創設期に至るまでの市場規制・パン価格公定制度と食糧騒擾の関係が論じられる。結論で本論をまとめ、付論で1870年代以降の食糧流通制度について言及している。以下、序論から結論まで、それぞれの部分の概要を紹介する。

 まず「序論」では、従来の「モラル=エコノミー」概念の見直しとその再定義を行ったのち、19世紀プロイセンにおける食糧騒擾と「営業の自由」に関するこれまでのドイツと日本での研究動向の紹介と問題点の整理が行われる。とくに本分野で成果をあげたガイルス、ヘルツィヒらの先行研究が批判的に検証され、これまで注目されてこなかった、「モラル=エコノミー的制度」の具体例として市場規制・パン価格公定制度を分析することの意義、さらに「モラル=エコノミー的制度」の解体と、「モラル=エコノミー的理念」にもとづく食糧騒擾との相互連関を解明することの有効性が示される。また、群衆・下層民・市民層など本論文で用いられる主要概念についての定義が与えられ、あわせて本論文が依拠する一次史料についての説明が行われる。

 3部からなる本論はクロノロジカルな経緯にそって展開されている。

 「第1部 19世紀半ばまで」は3章かるなる。

 「第1章 歴史的前提」は、中世都市以降19世紀初頭までの食糧に関する「モラル=エコノミー的制度」の変遷を、とくに「買い占め・先買い」規制に着目して分析し、これらの諸制度がすでに18世紀末には大いに動揺をきたしていたこと論証している。この背景として、18世紀後半のプロイセンにおける啓蒙主義者、アダム・スミス学派の台頭による経済的自由主義の強化とその官僚層への浸透が指摘されるが、同時に、この時期の食糧騒擾は、その多くが「買い占め・先買い」規制の違反者に対する襲撃となって現れていたことが示される。

 「第2章 プロイセン改革による『営業の自由』の導入」は、「営業の自由」の導入を決めた19世紀初頭のプロイセンにおいて、市場規制・パン価格公定制度の廃止がいかに決定されたかを明らかにすると同時に、この廃止決定に対する民衆の不満と抵抗の有り様を検証している。

 「第3章 ウィーン会議(1815年)から1845年全国営業令まで」は、プロイセン改革以降の「買い占め・先買い」規制廃止の実態を「全国営業令」制定の経緯の分析を通じて明らかにしている。「全国営業令」は「営業の自由」をプロイセン全国に浸透させる意図をもったが、その一方で「モラル=エコノミー的制度」の存続に余地を残した。本論文は、プロイセン王国内でも営業制度に関して著しい地域差があり、とくにウィーン会議でプロイセン領となったライン州、ザクセン州南部では「モラル=エコノミー的制度」が維持されたことを指摘している。また首都ベルリンの警視庁が、パン自主価格制度の成立を促すなど、「営業の自由」に矛盾しない範囲で食糧流通政策の見直しを要請している事実を明らかにしている。

 「第2部 19世紀中葉の食糧騒擾」は本論の中心である。2章構成で、ともに「三月革命」(1848)前後の食糧騒擾を文書館史料(警察・内務関連史料)、新聞、ビラなど非常に豊富な一次史料にもとづいて分析している。ここでは、民衆の食糧騒擾がどの程度まで「モラル=エコノミー的制度」の解体と関連したかが論点をなし、本論文は、この時期の食糧騒擾は、政府と地方当局によって次第に強化された「営業の自由」体制、つまり「モラル=エコノミー的制度」の廃止に対する民衆の抗議の表れであり、「そうした騒擾に国家が有効に対処できないために、『正統性の危機』が生じ、それが革命のひとつの要因となった」と論述している。

 「第1章 1847年の食糧騒擾」は、ジャガイモ凶作と食糧価格の高騰を背景に、同年のプロイセン各地で発生した134件の食糧騒擾を個々の事例に即して丹念に検討し、騒擾を引き起こした直接的な契機(市場での紛争、穀物倉庫襲撃、パン商店襲撃、都市からの移出阻止、施与強要・強奪、荷車略奪など)によって騒擾を分類している。その結果、騒擾の半数以上は都市の週市における紛争をきっかけとしており、そこでは「営業の自由」を手にした商人による「買い占め」と「あまりにも高い値段」への民衆の強い反感が作用していたことが明らかにされる。小売り価格を自らの手で「設定」しようとした民衆騒擾も頻発したが、「営業の自由」を擁護する都市当局に対して「民衆は、蜂起して自力で市場規制を実施」しようとしたのである。当局が市場規制という「責務を果たさぬ場合、民衆は当局に変わってみずからこの社会的な規範を回復させる権利がある」とする「代執行」の発想が騒擾に加わる民衆側に存在していたことが、細部にわたって論証されている。一方、食糧騒擾の頻発に対応を迫られた地方当局が示した、「モラル=エコノミー的制度」撤廃の見直しの動きも論証されている。「買い占め」規制、とくに市場商人取引時間規制の再導入の要求が全国的に強まり、ベルリン市議会が「営業の自由」に反する市場規制方針を決議するに至る過程が明らかにされている。

 「第2章 1848年革命下の食糧騒擾」は、同年3月、4月と10月に生じた15件の食糧騒擾の分析を行っているが、上記諸史料の他に、プロイセン国王宛「暴動参加者の減刑嘆願書」が用いられる。この時期の騒擾にも市場規制との強い関連がみられ、とくにバター商人の「買い占め」に対する民衆の懲罰的性格が強かったこと、市場規制が騒擾予防策として当局から注目されたことが、一次史料の分析から明らかにされる。また1848年夏のベルリンで起きたパン価格とパン重量に関する紛争にさいしてのベルリン市議会の動きが考察され、そこでは「営業の自由」の原則を放棄しないものの、食糧騒擾の再発予防を目的に、パン屋による自主設定価格の一日固定化、秤設置の義務化をもとめる提案が行われていたことが論証される。

 「第3部 1849年以降」は2章からなるが、全体として「1849年営業条令」の制定からドイツ帝国創設期までの時期を対象に、19世紀の半ばの食糧騒擾が、その後の「営業の自由」政策の変転に及ぼした影響を検討している。

 「第1章 1849年2月9日営業条令」は、この条令がプロイセン全国の都市における市場規制の再導入を認めた背景と要因を考察し、これを19世紀プロイセンにおける「営業の自由」政策のひとつの転換点と位置づけている。つまり、「国家による『営業の自由』の原則の貫徹よりも、各都市の事情を勘案する」ことに法令の重心が移動したのである。これ以降、プロイセン各都市で「モラル=エコノミー的制度」の再導入が進んだ。1850年代には食糧価格高騰を背景に食糧騒擾が再発したが、都市当局は市場規制導入を通じてこれに対処した。本論文はこのパターンを個々の都市の事例に即して実証している。一方、1850年代末以降に強まった経済的自由主義の動きに関連して、1860年にプロイセン商工省がプロイセン各都市当局に対して行った営業制度に関するアンケート調査を取り上げ、そこには「モラル=エコノミー的制度」の存続を食糧騒擾対策の視点から擁護する立場がなおも強く押し出されていることを解明している。

 「第2章 『完全なる営業の自由』と19世紀最後の食糧騒擾」は、「営業の自由」の最終的貫徹を意味する「北ドイツ連邦営業令」制定(1869)の過程を詳論している。ここでは、新たにプロイセン宰相となったビスマルクと、その「片腕」となって自由主義的な経済改革を推進したデルブリュックの政策が分析される。本論文によれば、ビスマルクの経済的自由主義の背景には、国民自由党との政治的な連携の他に、ドイツ統一を視野に入れた経済政策の一体化の必要性があった。その一方で、本論文が重視するのが、食糧騒擾発生件数の著しい減少と民衆意識の変化である。都市化、産業化、交通機関の発達、人口の増大などを通して、都市の食糧流通は構造的な変化をとげ、旧来の市場規制の実施は困難になりつつあった。民衆騒擾は消滅することはなかったが、「起こりにくくなった」のである。また、社会主義政党、労働者運動、協同組合運動など新しい組織運動の形成が、これまでの食糧騒擾の形態に重大な影響を及ぼしたことが指摘される。

 「結論」は、以上3部の分析にもとづいて19世紀プロイセンにおける民衆騒擾と「営業の自由」の関連をまとめている。それによれば、19世紀初頭にプロイセン改革の一環として導入された「営業の自由」は、民衆による食糧騒擾の頻発という強い抵抗に遭遇し、直ちに定着することにはならなかった。「営業の自由」は食糧騒擾を引き起こす有力な原因となる一方で、食糧騒擾は「営業の自由」の見直しと修正を余儀なくしたのである。「モラル=エコノミー的理念」を抱く民衆の力は強く、それを排除して「営業の自由」が貫徹するには少なくとも60年の歳月と強力な「上からの革命」を必要としたとして、本論を締めくくっている。

 以上のような豊かな内容をもつ本論文は、まず何よりも、著者自身の長年の現地文書館等での史料蒐集がなければとうてい完成しなかったものである。著者が、民衆騒擾という、それ自体は小さな事実を、一次史料の分析によって丹念に確定していったことは、778を数える注の厳密な表記にも明瞭に示されている。精緻な史料批判に支えられた労作として高く評価できる。次に、本論文は、ドイツと日本はもとよりアメリカ合衆国、連合王国での最新の歴史研究の成果を十分に吸収・咀嚼した上で、まだ光りのあてられていない領域で注目すべき成果をあげたと判断できる。論文の構成、論理の展開にも隙がなく、この点でも成功している。

 本論文は、直接的には食糧騒擾と、近代的市場原理である「営業の自由」の関連を分析したものである。伝統的な「モラル=エコノミー的制度」の解体をもとめる力と、それを阻止しようとする力のせめぎ合いは、単純な革新と保守の二項対立だけでは説明できない複雑な政治的、社会的連関をもつ問題であった。食糧騒擾と食糧流通政策の相互作用を多角的に分析した本論文は、この点を明快に論じている。この相互作用の分析から、19世紀プロイセンの国家と社会の特殊な関係を考察しようとした本論文執筆者のねらいは達成したといえる。

 このように、本論文はドイツ民衆史、社会史研究にひとつの可能性を開くものとして大きな意味をもっている。ただし、いくつかの不十分な点も存在する。食糧騒擾を扱いながら、もっぱら官憲側の史料を用い民衆側の史料をほとんど使っていないこと、民衆にとっての「営業の自由」がもつ肯定的な意味合いの検討がなされていないこと、民衆の多様性を描き切れていないこと、などである。

 しかし、以上のような若干の不足は、本研究の価値を損なうものではない。審査委員会は、論文審査の結果として、本論文を博士(学術)の学位を授与するに十分な業績であると判定する。

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