学位論文要旨



No 113088
著者(漢字) 長尾,恭光
著者(英字)
著者(カナ) ナガオ,ヤスミツ
標題(和) ミトコンドリアDNAがマウスの表現型に与える影響
標題(洋)
報告番号 113088
報告番号 甲13088
学位授与日 1998.03.02
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第133号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 跡見,順子
 東京大学 助教授 石井,直方
 東京大学 助教授 八田,秀雄
 東京大学 助教授 松田,良一
 農林水産省畜産試験場   今井,裕
 東京都立臨床医学総合研究所   米川,博通
内容要旨

 ミトコンドリアは,核と異なる独自のミトコンドリアDNA(mt.DNA)を持ち,酸素を利用してエネルギーを生産する細胞内小器官である。mt.DNAは2種のリボゾームRNA,22種のtRNA及び13種のmRNAをコードする。mt.DNAの突然変異がミトコンドリア病(特に脳や筋に症状が現れることが多い)を引き起こすことが知られているが,種内または種間に見られるmt.DNAの差異が表現型に与える影響について哺乳類ではほとんど知られていない。そこで戻し交配により得られた核内DNAが等しくmt.DNAが異なる2系統の近交系マウスを用いて,体重,限界走行時間および胚発生能の差異の測定を行った。核移植により,2系統の異なるmt.DNAが混在した(ヘテロプラスミー)状態の胚発生能も検討した。また,核移植によるヘテロプラスミーの状態がどのように変化するか,胚盤胞及び新生児についてPCR法を用い検討した。

<方法>

 限界走行時間の測定)マウスをトレッドミル上におき,電気刺激により強制的に走らせた。速度は,分速20mから始め,1分間あたり分速10mずつ増やしていき,疲労困憊し動けなくなるまで続けた。動けなくなった時間を秒数で測定した

 胚発生能の検討)核内DNAが等しくmt.DNAが異なる近交系マウスC57BL/6J;B6(日本クレア)及びC57BL/6J.mtspr;B6.mtspr(東京都臨床研)の雌に過排卵処理を行い,同系統の雄と交配後,前核期卵を得た。得られた前核期卵の一部を用い,相互に電気融合法による核移植を行った。前核期卵及び核移植卵はEDTAを添加したM16培養液中で培養し,胚盤胞期への発生率を経時的に調べた。培養温度は前核期卵で35及び37℃とし,核移植で37℃とした。

 mt.DNAの検定)核移植卵で脱出胚盤胞まで発生した一部の胚及び新生児について2つのmt.DNAをPCR法で検定した。

<結果及び考察>

 体重はB6に比べB6.mtsprの方が重かった(図1)。また,限界走行時間はB6に比べB6.mtsprの方が短かった(図2)。

図1.C57BL/6J(B6,n=16)とC57BL/6J.mtspr(B6.mtspr、n=15)オスマウスの成長曲線。値は平均±標準偏差。B6とB6.mtspr間の有意差を以下の様に記す:*P<0.05,**P<0.01,***P<0.001。図2.C57BL/6J(B6,n=10)とC57BL/6J.mtspr(B6.mtspr,n=10)オスマウスの漸増負荷運動における疲労困憊に至るまでの時間。値は平均±標準偏差。B6とB6.mtspr間の有意差を以下の様に記す:*P<0.05。

 B6とB6.mtsprの胚発生能は,B6の前核期卵の胚盤胞期への発生率が37℃下で96.7%,35℃下で59.0%であったのに対してB6.mtsprのそれは37℃下で36.7%,35℃下で13.0%と明らかに低く,その差は低温度下でより顕著であった。また,B6とB6.mtsprの胚盤胞に至るまでの時間は,B6では37℃下で4.4日間,35℃下で5.6日間であったのに対してB6.mtsprでは両温度下で5.3日間を要した。B6の核をB6.mtsprのレシピエント卵子に移植した場合の胚盤胞期への発生率は酸素濃度20%下で13.6%,酸素濃度5%下で63.9%であった。B6.mtsprの核をB6のレシピエント卵子に移植した場合の胚盤胞期への発生率は酸素濃度20%下で21.2%,酸素濃度5%下で61.3%であった。B6の核をB6.mtsprのレシピエント卵子に移植した場合とB6.mtsprの核をB6のレシピエント卵子に移植した場合に差はなかった。これら核移植された卵子の胚盤胞期への発生率は,低酸素濃度下で上昇した。

 核移植卵で脱出胚盤胞まで発生した一部の胚及び新生児について2つのmt.DNAをPCR法で検定した結果,脱出胚盤胞まで発生した一部の胚ではヘテロプラスミーの状態を,一方で新生児についてはヘテロプラスミーの状態のもが1匹とB6側のみのものが2匹という結果となった。2つの異種mt.DNAを持つ初期胚が,発生・分化の過程でどのようにmt.DNAを伝達していくかについては検討する必要がある。

 本研究からmt.DNAの違いが胚発生や限界走行時間能力などの表現型に影響を及ぼすことが示唆された。

審査要旨

 本論文は、核外遺伝子を持ち独自の増殖機能を備えた細胞内小器官であるミトコンドリアの生命活動における働きを、実験用マウスを用いて解明しようとしたものである。

 本論文では、ミトコンドリアはエネルギー産生の場としてのみならず、多くの生命現象に関与するのではないかと考えられている。また、その働きには、ミトコンドリアDNA(mtDNA)と核DNAとの相互作用という組み合わせの重要性が存在するだろうとされている。この仮説を証明するためには、核を同一にしかつmtDNAのみ異なる実験動物の開発が重要となるが、そのモデル動物の作製には遺伝学的および発生工学的手法を用いる必要がある。また、本研究のもう一つの重要な点として、mtDNAの遺伝学的な差異(塩基配列の違い)にある。一般に用いられている実験用近交系マウスのmtDNAは、各系統間で塩基配列の違いがほとんどなく同一の種(Mus musculus domesticus)に分類されている。一方、本論文で用いられた亜種と異種の野生種由来近交系マウス(Mus musculus musculusとMus spretus)は、実験用近交系マウスとは大きく異なるmtDNAを持っている。それらのmtDNAを用いることで、核が同一でかつmtDNAのみ異なる近交系マウスの作製、およびmtDNAと核DNAとの相互作用を検討する研究を行うことを可能にした。本論文は、次の四章より構成されている。

 第一章は、有酸素運動能力や体重などの身体的特性に遺伝要因が強く関係していることを、実験用近交系マウス(M.m.domesticus)とともに野生種由来近交系マウスを用い証明している。生命科学の研究では、実験用近交系マウスの使用が一般的だが、遺伝的形質の差異を求めるにはより遺伝的背景の異なる実験動物を利用することになるだろう。本章で用いたM.spretusは、実験用近交系マウスとは別種の関係にありながら交雑した場合メスだけは妊性を持つという特徴を持ち、非常に扱いにくい野生種由来近交系マウスである。しかし、本章の結果からも、その極めて特異なマウスの遺伝的背景を利用することが出来れば、生命科学の研究に多大な貢献を与えるであろうことを示していた。

 第二章では、亜種または異種のmtDNAに置換することで、核が同一でかつmtDNAの異なる近交系マウスができるが、mtDNAが有酸素運動能力や体重などの身体的特性に及ぼす影響をそれらマウスを用いて証明している。有酸素運動能力では、亜種または異種のmtDNAに置換することでmtDNAと核DNAの不和合性をもたらし有酸素運動能力の低下をきたすことを確認した。また、体重などの身体的特性では、mtDNAの置換により1系統で体格や体重の増大、別の系統で体重の低下といったmtDNAの影響を確認した。本章の注目すべき点として、遺伝学的手法(戻し交配)により確立されたmtDNA置換マウスを用いmtDNAのみの影響を証明したことにある。本章の研究によりmtDNAの与える影響は様々な表現型で認められると考えられ、mtDNAの表現型への影響、そしてmtDNAと核DNAとの相互作用のメカニズムの解明の研究としての方法論を提示した重要な研究であった。

 第三章では、前章に続きmtDNA置換マウスを用いて、mtDNAが初期胚の発生能に影響を与えることを証明している。さらに、その影響はmtDNA置換マウスの発生能が低酸素の状態で回復したことより、活性酸素との関係を示すものとなった。また、前核置換卵の発生能とその卵のmtDNAを調べたところ、ヘテロプラスミー(2種類のmtDNAが混在する状態)で発生能が著しく低くなることを示した。これら本章の成果は、今後発生工学的手法(核移植)を用いて行う異種mtDNA導入マウス個体作製の重要な情報として有用なものであった。前章および本章の2つの研究より、mtDNAの与える影響は、初期胚から個体までの様々な表現型に及ぶものであることが示された。

 第四章では、第三章の研究成果を参考に、核移植による異種mtDNA導入マウス個体作製を試みた結果、数匹の胎児を得るまでに至った。異種間の核移植による個体作製は、マウスにおいて全くなく本研究の成果が初めてのものである。さらに、それら核移植個体を得るために、培養条件(培養液や酸素濃度)や核移植に用いる受精卵の性状など多くの適切な条件を提示したことは非常に大きな成果といえる。また、核移植による異種mtDNA導入マウスの個体作製の方法論の確立は、第二章および第三章で報告してきたmtDNAの表現型への影響、そしてmtDNAと核DNAとの相互作用のメカニズムの解明の研究に飛躍的な前進をもたらすものでもある。

 近年、ミトコンドリアに関する研究で、ミトコンドリアがエネルギー産生だけにとどまらず多くの生命現象に関わっていることを明らかにされつつある。体細胞を用いたクローン動物作製の成功によりクローン技術への注目が高まる中、本研究の成果は、クローンがクローンであるかどうかは核ばかりではなく細胞質、とくにmtDNAをも考慮する必要があることを示唆している。さらに、いままで、「体質」と呼ばれる体格、有酸素能力あるいは繁殖能力などのように、多くの因子が複雑に影響する表現型を解析する一つの方法を提示したといえる。

 以上のように本論文は動物が進化の過程で持ち得た機能、すなわちミトコンドリアの生命現象に関わる機能を解き明かしていく非常に重要かつ貴重な成果を示したものと判断される。従って、長尾恭光氏により提出された本論文は東京大学大学院課程による学位、博士(学術)の授与に相応しい内容と判断した。

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