学位論文要旨



No 113090
著者(漢字) 青山,真人
著者(英字)
著者(カナ) アオヤマ,マサト
標題(和) 反芻動物における発情期摂食行動抑制の中枢機構に関する研究
標題(洋)
報告番号 113090
報告番号 甲13090
学位授与日 1998.03.02
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1845号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用動物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 教授 小川,智也
 東京大学 助教授 塩田,邦郎
 東京大学 助教授 西原,真杉
 東京大学 助教授 高橋,伸一郎
内容要旨

 雌動物の発情期にみられる行動的・生理的変化は繁殖に直接関わるものだけではなく、摂食行動が著しく抑制されるなど身体の維持に関わる行動も明瞭な変化を示すことが知られている。発情期に性行動の発現と同時に摂食行動の抑制や体内のエネルギー代謝の変化が起こり、これが普遍的な現象であるとすれば、こうした変化も繁殖の成功率を上げることに役立つ合目的的な適応反応とみなすことができよう。発情期にみられる摂食行動の抑制も、性行動の場合と同様にエストロジエンの効果であることが知られており、このことから性行動の発現と摂食行動の調節を同時に制御する中枢神経機構の存在が推察される。本研究では、発情期が明瞭に判定できまた摂餌や反芻が持続的に発現することから摂食行動の定量的解析が容易に行える反芻動物(シバヤギ)を実験モデルとして供試し、発情期の摂食行動抑制の中枢機構について研究することを目的に実験を行った。

 本論文は6章から構成され、第1章では反芻動物を中心にこれまで哺乳類で行われた性行動と摂食行動の制御機構に関する研究を概観し、本研究の目的を述べた。続く第2章では、本研究で行った各実験に共通する材料と方法について説明した。

 第3章では、発情期にみられる繁殖・摂食・エネルギー代謝の変化がそれぞれどのような時間的関係で発現し、また卵巣ステロイドホルモンであるエストラジオール(E)およびプロジェステロン(P)がこれらの変化にそれぞれどのように関与するか、という点について検討する目的で以下の実験を行った。すなわち卵巣を摘出して内因性ステロイドの影響を除去した雌ヤギに、まずPを封入した移植用カプセルを120時間動物の皮下に留置し、Pを取り除いた直後に今度はEを封入したカプセルを留置することにより黄体期から卵胞期にかけての血中ステロイドホルモン濃度の推移を模倣した。E留置開始約33時間後に発情行動が、約39時間後にLHサージが惹起され、同時に摂食量と反芻時間の減少およびグルコースと遊離脂肪酸(FFA)の血中濃度の上昇がみられた。Pの代わりにコレステロール(C)を留置した場合には、E留置開始から発情行動開始およびLHサージのピークまでの潜時(これらの反応が現れるまでの時間)は約10時間短縮された。同時に摂食・代謝に変化がみられるまでの潜時もやはり短縮された。繁殖・摂食・代謝の変化はP前処置の有無に関わらず常に同時に起こることが明らかとなった。一方、Eの代わりにCを使用した対照実験においては、こうした変化は全く見られなかった。本実験の成績から、卵胞期のシバヤギで見られる、1)発情行動とLHサージの惹起、2)摂食行動と反芻の抑制、そして3)グルコースとFFAの血中濃度上昇はいずれもEによってもたらされることが示され、しかもこうした生殖系と代謝系の変化は同調して発現することが明らかになった。このことから、Eの血中濃度上昇という内分泌情報の入力に対するこれらの出力を統一的に制御する機構の存在が想定された。

 第4章の実験では、上記の反応に関わるEの中枢作用部位として最も可能性が高いと考えられる視床下部腹内側核(VMH)について、エストロジェン受容体(ER)の有無を免疫組織化学法を用いて検討した。VMHは満腹中枢として摂食行動の調節に深く関わることが古くより知られている。またこの部位は自律神経系の中枢としてエネルギーの代謝・蓄積の調節にも重要な役割を果たしている。これらに加えて、齧歯類ではロードシス行動の発現や性腺刺激ホルモン放出ホルモン(GnRH)の分泌にも関わるなど、繁殖行動の調節に重要な役割を果たしていることが報告されている。今回、卵巣摘除シバヤギの視床下部内側基底部(MBH)の組織切片をラット抗ヒトERモノクローナル抗体を用いて免疫染色した結果、VMHの腹外側部および弓状核(ARC)に反応陽性細胞が密に分布していることが観察された。次に、VMHでのEの作用機構を解明するためのアプローチの一つとして、この部位における一酸化窒素合成酵素(NOS)の分布様式について免疫組織化学的検討を行った。一酸化窒素(NO)は脳内で神経伝達物質として機能することが最近明らかにされつつあるが、このNOは齧歯類において発情行動やLH(あるいはGnRH)分泌に関わる卵巣ステロイドホルモンの作用を仲介することが示唆されている。このため上記のER免疫染色に使用したMBHの組織切片に隣接する組織切片をラット抗ヒト脳内NOS抗体を用いて免疫染色し、両者の共存について検討を行った。その結果、MBHにおいてERが特に密集していたVMHの腹外側部にNOS含有細胞の局在が集中的に認められ、このことからヤギにおいてもERとNOSが共存する神経細胞が存在し、EのVMHに対する効果の発現をNOが仲介している可能性が示唆された。

 第5章では、これまでの実験結果に基づいて「Eの効果はVMHにおけるNO合成を介して発現する」、という作業仮説を立て、これを検証するため以下の実験を行った。すなわち脳定位手術によりあらかじめVMH内に微量投与用のカニューレを留置しておいたOVXシバヤギの皮下にE封入カプセルを留置し、その20時間後にNO合成阻害剤であるNG monomethyl-L-arginine(L-NMMA)を両側のVMHに注入して、その後の発情行動、血中LH濃度、摂食量、および血中グルコース濃度の変化を追跡した。対照実験としては、L-NMMAの光学異性体でNO合成阻害効果を持たないD-NMMAを投与した。D-NMMAを投与した場合にはEの効果には影響が見られず、E処置開始の約30時間後から発情行動が観察され、LHサージが惹起された。また、発情行動の開始日(D-NMMA投与当日)と翌々日の摂食量は処置前に比べて有意に減少しており、この時期には血中グルコース濃度の有意な上昇も観察された。一方、L-NMMAを投与した場合には、発情行動とLHサージの潜時についてはD-NMMA注入区との間で有意差はなかったものの、摂食量に関してはL-NMMA投与当日の値はE処置前の値と比べて変化がみられず、その翌日になってようやく摂食量の減少が認められた。血中グルコース濃度についても、D-NMMA投与時にみられたような上昇は観察されなかった。L-NMMAによって内因性のNO合成を抑制したこれらの実験結果から、少なくとも摂食行動抑制と血中グルコース濃度上昇に関しては、Eの効果はVMHにおけるNO合成促進を介して発現することが示唆された。しかし今回の実験においてはVMHにおけるNOが発情行動とLHサージ発現に果たしている役割については明らかにできなかった。齧歯類やヒツジでVMHが発情行動の発現に深く関わることが示されていること等を勘案すると、生殖機能の調節に関してはNO以外の神経伝達物質の関与や視床下部の他の部位との共同作用の可能性が示唆された。例えば、視索前野(POA)にはERとGnRHの陽性細胞が分布しており、ラットではPOAでもVMHと同様にERとNOSを合わせ持つ細胞が存在しEの作用によりNOSが増加することが知られている。従って発情行動とLHサージを惹起するEの作用にNOが関わるならばそれは主としてPOAで合成されるNOであると考えられ、VMHはPOAにおけるNO合成を調節することにより繁殖機能の調節を行っているのかも知れない。

 発情期における摂食行動抑制と血中グルコース濃度上昇はいずれもVMHにおけるEの作用でありNO合成を介して発現することが示された。もともと血糖値が低く主たるエネルギー源として揮発性脂肪酸を利用している反芻動物では、血中グルコース濃度の変動と摂食行動との関連は単胃動物と比較して弱いことが知られており、従って今回みられた発情期における摂食行動抑制と血中グルコース濃度上昇は、一方が他方の原因となっているというよりはEのVMHに対する作用によって引き起こされる並行現象であると解釈された。

 第6章では、3章から5章までの実験成績に基づいて総合考察を展開した。本研究では、反芻動物の雌において発情行動とLHサージの発現と同時に摂食行動の抑制と血中の代謝関連物質の濃度上昇が起こることが明らかとなった。これらの変化はいずれも発情期に血中濃度が上昇するEによって引き起こされるが、摂食行動抑制と血中のグルコース濃度上昇を引き起こすEの作用部位はVMHであり、その効果はNOを介して惹起されることが示された。以上、発情期における繁殖・摂食・代謝の変化は全てEが視床下部に作用することによって引き起こされ、これらの協調的変化に視床下部が重要な役割を果たしていることが示された。

審査要旨

 雌動物の発情期にみられる行動的・生理的変化には,繁殖機能に直接関わるものだけではなく,摂食行動の著しい抑制といった身体機能の維持に関わる要素も少なからず含まれていることが知られている。発情期の雌において性行動の発現と同時に摂食行動や代謝系の変化が多くの種で普遍的に起こることは,こうした変化が繁殖効率の向上に役立つ適応的反応であることを示唆しており,多用な生理的変化を統合的に制御する中枢神経機構の存在が推察される。本論文は,シバヤギを反芻動物の実験モデルとして供試し,発情期における摂食行動抑制の中枢機構について,特に性ホルモンとの関連から検討することを目的としたもので,6章から構成される。

 第1章では,まず哺乳類における性行動と摂食行動の発現様式とその調節機構に関する過去の研究成果が概観され,次にこれらを背景として本研究の目的が解説されている。続く第2章では,以下の第3〜5章での実験に共通する材料と方法について説明されている。

 第3章では,正常性周期を回帰する雌シバヤギにおいて,発情期にみられる性行動,摂食行動,および末梢血中における代謝系指標の変化が,それぞれどのような時間的関係で発現し,またこれらの変化に卵巣ステロイドホルモンであるエストラジオール(E)およびプロジェステロン(P)がどのように関与しているか,について検討が行われた。その結果,卵胞期の雌において観察される発情行動の発現とLHサージの成立,摂食行動と反芻の抑制,そしてグルコースと遊離脂肪酸の血中濃度上昇といった特異的変化はいずれもEの作用としてもたらされ,Pは発現までの潜時を延長させることが明らかとなった。

 第4章の実験では,これまでの研究から生殖系と代謝系の変化の同調を司る中枢神経機構として最も可能性が高いと考えられる視床下部腹内側核(VMH)に着目し,エストロジェン受容体(ER)の発現様式について免疫組織化学的に検討した。卵巣摘除シバヤギの視床下部内側基底部(MBH)の組織切片をラット抗ヒトERモノクローナル抗体を用いて免疫染色した結果,VMHの腹外側部および弓状核(ARC)に反応陽性細胞が密に分布していることが観察された。この部位における一酸化窒素合成酵素(NOS)の分布様式についても同時に免疫組織化学的検討を行った結果,ERが特に密集していたVMHの腹外側部にはNOS含有細胞の局在が認められ,EのVMHに対する作用の少なくとも一部を一酸化窒素(NO)が仲介している可能性が示唆された。

 第5章では,卵巣摘除シバヤギにEを持続投与し,投与開始20時間後にNO合成阻害剤であるNG monomethyl-L-arginine(L-NMMA)を脳定位手術によりあらかじめVMH内に留置しておいた微量投与用のカニューレを介して両側のVMHに注入し,その影響を観察した。L-NMMAの光学異性体でNO合成阻害効果を持たないD-NMMAを投与した対照実験においてはEの持つ効果に変変化が見られず,発情行動の開始日(D-NMMA投与当日)と翌々日の摂食量は処置前に比べて有意に減少し,また同時に血中グルコース濃度の有意な上昇も観察された。一方,L-NMMAを投与し内因性のNO産生を抑制した場合には,L-NMMA投与当日の摂食量減少や血中グルコース濃度の上昇は観察されず,このことから摂食行動抑制と血中グルコース濃度上昇をもたらすEの効果はVMHにおけるNOの合成促進を介して発現している可能性が推察されている。

 第6章では,3章から5章までの実験成績に基づいて総合考察が展開されている。本研究の実験成績から,雌の反芻動物においては発情行動とLHサージの発現と同期して摂食行動の抑制と血中代謝関連物質の濃度上昇が起こることが明らかとなったが,これらの変化はいずれも発情期に血中濃度が上昇したEによって引き起こされること,またEは視床下部のVMHに作用し,おそらくこの部位でのNO産生を介してその効果が惹起される可能性のあることが示唆されている。

 以上要するに,本研究は反芻動物の発情期には,性行動の発現と摂食行動の抑制およびこれに関連する代謝系の変化がエストロジェンの作用によって同期して起こり,こうした諸機能の協調的変化に視床下部が重要な役割を果たしていることを明らかにしたもので,学術上貢献するところが少なくない。よって審査員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと判定した。

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